12stein: アイザック・アシモフ 『われはロボット(I, Robot)』 『鋼鉄都市(The Caves of Steel)』
Three Laws of Robotics
ロボット工学三原則
1st Law: A robot may not injure a human being or, through inaction, allow a human being to come to harm.
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
2nd Law: A robot must obey the orders given it by human beings except where such orders would conflict with the First Law.
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
3rd Law: A robot must protect its own existence as long as such protection does not conflict with the First or Second Laws.
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
今回は、 アイザック・アシモフの『われはロボット』を始めとするロボットものの短編と、ダニールとベイリが活躍する長編『鋼鉄都市』を中心に、フランケンシュタインに関わりの深い三点に絞って考察していきます。
1.フランケンシュタイン・コンプレックス
フランケンシュタイン・コンプレックスとは文字通り、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』において、創造者ヴィクターが、被造物の怪物を造った際の、生命を造る神に至る行為への憧れや、被造物の反乱への恐怖などの複雑な心理状況を、アシモフが称したものです。
この言葉は、SFは元より、現実の科学、哲学にさえ影響を及ぼしています。
私が、『フランケンシュタイン』を知ったきっかけも、アシモフのこの言葉からでした。
このフランケンシュタインコンプレックスの影響もあり、アシモフがロボットものを書くまでは、単純な怪物の人類への反乱を描く話が大勢を占めていました。『愛しのヘレン』、『アダム・リンク』などのロボットを友好的に扱った作品がアシモフ以前にも幾つかありますが。
フランケンシュタインの怪物への得体の知れない恐怖を、分析対象として名前を付け、ロボット工学三原則で対応したのは、アシモフの合理的発想の偉大な点です。
余談ですが、19c当時はパーシー・シェリーの妻、メアリー・シェリーとして名前が知られていたのに、後世では立場が逆転し、メアリー・シェリーの夫として、パーシー・シェリーの名前が知られる様になった事を、「作家の悪夢」と称したのもアシモフです。
2.ロボット工学三原則(Three Laws of Robotics)
ロボットものの一番の功績は、冒頭にも引用したロボット工学三原則でしょう。
三原則が実際のロボット工学にまで影響を及ぼした事など、語る事は多々ありますが、今回は三原則の日本でのイメージのずれについて語ります。
まず、原則という訳では、原題のlawの意味を捉えきれていません。
lawには、原則の意味の他に、ニュートンの運動の三法則、熱力学三法則(後の熱力学第零法則にインスピレーションを受けたのかもしれません)などの自然法則、人権法(human rights law)の様な道徳律なども含まれています。
つまり、人権法の様な人間の造った掟と、運動の三法則の様な、自然法則が同じlawの概念で一括りになっています。
極端な話、"Three Laws of Robotics"を「ロボット達の三つの掟」と訳してもいいでしょう。
カントが「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」(『実践理性批判』の結び。墓碑銘にも記載)言ったように、生科学の準教授だったアシモフの中には、自然法則と道徳法則が一致する西洋的な世界観がベースにあると考えられます。
日本的な感覚と、三原則という訳のイメージでは、自然法則と道徳律が何か二つの別途のものだと考えてしまいがちです。
また、自然法則と人類の倫理が一致する世界観に、非西洋人である私は個人的に何か違和感を感じてしまいます。
3.三原則の限界
ロボット工学三原則によって、人々がフランケンシュタイン・コンプレックスを克服し、ロボットに友好的なへ近づいたのは事実です。しかし、そこには限界があります。
まず、三原則に従う限り、どうあがいても、ロボット(怪物)は、創造主と対等の立場にはなれません。
人類に害を加える堕天使・サタン的なフランケンシュタインの怪物が、人間を守る天使になっただけなのです。
ロボットは天使になれても人間にはなれないのです。
それでもなお、対等になろうとすれば、サタンの様に人類に対立し堕落せざるを得ません。
ロボットを対等なパートナーと見なしがちな、日本的なロボット観とは一線を画しています。
この点はやはり、西洋的キリスト教的な影響が捨てきる事が出来なかったのかもしれません。
次に、三原則で示されている、そもそも人間、人類の定義とは何でしょう?
ロボット長編ものでは、地球居住者と惑星移住者の対立が描かれ、その中で人間の定義を限定させる事でロボットに人間に危害を加える事を可能にしています。ただ、アシモフは作中でその争いを否定して、人間とは、ホモ・サピエンスの事だと主張しています。
当時の社会情勢で、人種差別をしなかった点は評価できますが、人間=ホモ・サピエンスだとしても、サイボーグやキメラはどうなるのでしょう。
また、DNAで判断するなら、チンパンジーとの違いはどこにあるのでしょう。
ロボットは、フランケンシュタインの怪物を人間だと認識するのでしょうか。
現実世界でも難しい事ですが、アシモフの作品内でも、人間の定義に対する明確な答は出ていないのです。
結局、怪物を生み出さない為に創られた三原則が、それに縛られ続けるロボット達と、人間の定義から外れた存在という新たな怪物を生み出しているのです。
しかし、アシモフは『われはロボット』等で三原則の間違った解釈をミステリー的に描いたり、長編『ロボットと帝国』では、三原則に優先する人類全体の利益を優先した第零法則を制定しています。
彼にとっては、ニュートンの運動三法則が、アインシュタインの相対性理論に拡張された様に、三原則も改善していく物だと考えていたのかもしれません。
限界はあるものの、アシモフが制定したロボット工学三原則は、同じアイザックの名を持つニュートンの三法則と同様に、歴史に残る永久不滅のLawでしょう。
数式、図形、ラテン語で書かれた難解なニュートンの『プリンキピア』と異なり、ロボット学の『プリンキピア』は、邦訳もストーリーもありますので、気張らずに読む事ができます。