黒猫の誘い
ゆきのまち幻想大賞2017に応募した作品です。落選したのでなろうに掲載します。当時の思っていたことを素直に書いてみました。最後まで読んでいただければ幸いです。
よし、と青年は決意を固めるようにひとりごちた。青年の座る炬燵の上には七輪、練炭、そして数錠の睡眠薬が並べられている。キッチンにつながるドアにも、ベランダへとつながる窓にもガムテープがみっちりと貼られていて、外の厳しい冬の寒さからは隔絶されていた。視点を炬燵の上の自殺道具から、外へと移す。この部屋は二階の角部屋なのでベランダの手すり以外には視界を遮るものはなかったが、窓の外は四時半を回ったくらいなのに日が暮れかかっていて薄暗く、見えるものと言ったら赤熱した炭のような夕暮れと昼を過ぎたあたりから降り始めた、小粒の雪だけだった。それだけのはずだった。しかし今、青年の眼には見知らぬ二つの黄色が映っている。ベランダの手すりの上にビー玉のような極彩色の丸いなにかがあった。猫だと気づいたのは優雅に二つの丸が手すりから地面へと流れた時、ベランダの銀色の中に猫の形をした黒いシルエットが浮き上がったからだった。
青年は、はじめは無視しようと思った。睡眠薬を三錠口の中に放り込む。練炭を七輪の中に入れ火をつけようとした。その時ふと窓の外の猫が視界に入ってしまった。黒猫は腰を地面につけて座り、じっと部屋の中にいる青年を見つめている。尻尾を四つの足に巻きつけているその姿はあたかも寒さを我慢しているようだった。青年は、自分は自殺する直前の人間なのだ、と言い聞かせる。さきほどの決意を堅持しようとしたが、手が止まってしまった。生来の性格が優しい青年は結局立ち上がり、外との世界を切り離すためのガムテープをはがしてしまった。猫が怖がらないように窓を静かに開け
「寒いだろう。さぁ、中へお入り」
と、促した。猫は立ち上がり、するすると部屋の中へ入っていく。本能的に部屋で一番暖かいところがわかるようで猫は炬燵の上に飛び乗るとそのまま中央を陣取り、体を丸めた。もちろん七輪は器用によけている。青年は窓を閉め、猫と向かい合うように再び座る。猫は静かに佇んでいたが、眼はじっと青年の方へと向けているようだった。
猫の心臓の音が聞こえるのではないかというくらいに静かに時間が過ぎていく。
「こういう時、小説ならお前がしゃべりだしてくれるんだけどなぁ。やっぱり現実はそうもいかないか」
部屋にいる命のうち、片方に語りかけたのは青年の方だった。
「なぁ、お前はしゃべらないんだろうけれども、俺の話くらいは聞いてくれよな」
青年の語りかけに反応したようなタイミングの良さで、黒猫がにゃあと鳴いた。その可愛い仕草に、死を思いつめていた青年の頬もほんの少し緩んだ。
「お前は他の猫が全く別の生き物のように思えることはないかい?」
そう青年は問いかけて、今まで歩んできた自身の半生を黒猫に語っていった。東京に生まれ、不自由なく育った。高校と大学は一貫してアメフトと文芸を兼部し続けた。まっすぐだった人生が歪んだきっかけは大学のアメフト部の連中からのたった一言だった。
「お前さ、小説なんて書いてて楽しいの?」
「それを聞いてさ、衝撃を受けたんだよ、俺は。同じく好きでやっているアメフト仲間で、アメフトが俺の命だ、なんて言っているやつがさ、他人の違う好きなことを全く理解できないなんて信じられなかった。それを聞いて俺は連中の何もかもが信じられなくなったよ。一旦信じられなくなったら、三年間一緒に生活してきたはずなのに連中が得体のしれない別の生き物に見えてきたんだ。それからは暗闇の底へ落ちていくような感覚だった」
青年は最初単なる体調不良だと思っていた。体が重しをつけたように重い、小さなミスの連続。風邪か何かだと思っていたが、NFLというアメフトのプロ動画を見て吐き気がこみ上げてきたときに何かがおかしいと感じた。重い体を引きずって病院へ行くとうつ病と診断された。そこまで話しおえるまで目の前にいる黒猫は一声も鳴かず、じっと耳を傾けるように静かに青年を見つめていた。
「そこからは早かった。だんだんと過去のことを思いだせなくなる、話したいことが相手に伝えられない、朝起き上がることができなくなる。ほどなく俺は練習に出られなくなった。もちろん小説を書くこともね。それが半年前の出来事で、病状は悪化するばかりだ。お前に言ってもわからないだろうけど想像してみてくれよ。周りの人間が別の生き物のように思えるのは暗闇の中にいる感覚に似ている。トンネルみたいに暗くても出口の光が見えるわけでもない。すべてが黒色で出口がどこにあるか、自分は本当に存在しているのかさえ分からなくなってくる。そんな感じだよ。もうこれ以上生きるのは無理だ、死のうと思っていたのに、お前に止められちゃったな」
「でも君は僕がいなくなったら、また死ぬつもりなんだろう?」
青年は眼を瞠った。今の声は青年が発したものではない。目の前にいる黒猫が発したとしか考えられないが、それも現実的ではなかった。猫は相変わらず青年の顔をじっと見つめていたが、口を開けた様子はなかった。夢でも見ているようだった。
「君がどう思おうが僕は別にかまわないよ。ただ、死ぬ前に君に見せたいものがある。ついてきてよ」
空気の振動というよりも直接語りかけてくるような声を発した後、猫は青年から目線を逸らし立ち上がった。くるりと後ろを振り返り、炬燵から飛び降りると窓の方へそろそろと歩いて、そこで立ち止まった。窓を開けてくれ、ということらしい。青年は戸惑いながらも立ち上がった。そこで一瞬躊躇するようなそぶりを見せたが、やがて猫に従って近づいていき、窓を開けた。
そこに広がっていたのは、見慣れた二階からの景色ではなかった。夜の銀世界。ちろちろと雪が降っていることだけは同じだったが、そこには冬化粧をした木々となだらかな雪の森が広がっていた。視界の中央には獣道のような細々とした道が続いており、遠くの方に一際大きな松の樹が根を下ろしていた。
「わぁ……」
青年の口から思わず感嘆の声が漏れる。その声色には戸惑いや恐れといったものはなく、ただただ自然の美しさへの感動だけがあった。窓から一歩踏み出すと、ギュッギュッと新雪を固める独特の音がする。裸足であるにも関わらず、不思議と寒さは感じない。青年が振り返ると、既に窓はなくなって辺り一面が全て雪に覆われていた。
「これがお前の見せたかったものなのか?」
そう青年は、目の前を歩く黒猫に問いかけた。空は月以外真っ黒で辺りも薄暗い。にもかかわらず黒猫の姿をすぐに見つけられるのは雪灯りと、雪と対比を成す色をしている体毛のおかげだった。猫は青年の声に反応したのか顔だけくるりと後ろへ向け、体はなおも前進を続ける。
「そう、君の心が病気にかかって思いだせなくなった景色だよ。来たことあるだろう?」
「確かに、懐かしく感じる。ああ、そうだ。ここは子供の時に家族と一緒に来て、迷子になった場所だ」
あれは小学校に入る前のことだったか。スキーをしにやってきて、家族とはぐれてしまった。泣きじゃくりながら雪の森の中をさまよっているうちにこの場所に来たのだった。昔も、今も、目の前にはひときわ大きな一本松が立っている。二つの命はしんと静まり返った森の中を大きな松を目指して歩いて行った。その根元で黒猫は歩くのを止める。青年も寄っていってそっと松の樹皮に手を添えた。
「お前はこの美しい景色を俺に見せたかったんだな」
「それだけじゃない。君の中に残されている思い出をどうにかして取り戻してほしかったんだ。今の君なら思いだせるはずだよ、人と違う物の見え方がしても生きていけるということに」
そう促されて青年は思いだした。あの時どうやって助かったのか。家族と来たスキー場からこの一本松まではかなり距離があった。それなのに父と母は青年のことを見つけてくれた。助かった後になぜこの場所が分かったのかと母に聞いたことがある。
「そりゃもう、あなたがどんなふうにものを見て、どんな風に動くかはオミトオシよ」
そしてやっとわかった。なにも世界の全ての人が自分と視界を共有できないわけじゃない。たとえば家族みたいに自分のことを心配して思ってくれる人は絶対に存在する。今死ぬ必要なんてなく、これからその人たちを探していけばいいのだと。それが生きる希望となるのだと。
アメフト部とは永訣しよう。彼らともう一度やり直すことはできない。一度別の生き物だと思ってしまった感覚は拭えない。だから希望となる人を探すために明日を生きよう。そう青年は思えるようになった。
「ありがとう、お前のおかげで希望がもてたよ」
そう青年が足元にいる黒猫に語りかけると、猫は言葉をしゃべることなく青年にすり寄りにゃあ、と鳴いた。辺りにはいつまでも雪が降り積もっていった。
青年が目を覚ますと、見慣れたアパートの角部屋にいた。練炭や七輪、ガムテープもそのままで、さっきの出来事が嘘のようだった。夢の中での出来事なのかと青年は思ったが、目の前にはやはり黒猫が佇んで、にゃあ、と一声鳴いた。
「ありがとうな」
そういって青年は黒猫の背中を撫でた。その顔にはもう死の気配は漂っていなかった。
いかがでしたでしょうか。まだもの書きとして半人前なので批判、感想などをいただけたら嬉しいです。