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前編

 朝の光を浴びながらヤン・ファン・ルーデンは、一心に絵筆を動かしていた。彼の視線の先には、収穫間近の麦畑が広がっている。朝焼けの空と黄金色の畑。このコントラストは都会にいた頃よりずっとあこがれの風景だった。

「おはようございます、ルーデンさん。お早いですね」

 人の声に驚いて顔を上げて見ると、ロバに大きな缶を引かせている牛乳屋のヴォルテルスが愛想のよい笑みを浮かべて立っていた。

「あ、おはようございます。ヴォルテルスさんこそ、朝早くからご苦労さまです」

「なあに、わたくしどもは仕事ですから」

 ヴォルテルスが謙遜をしたのがおかしいのか、それともヤンが大慌てで挨拶をしたせいか、傍らに立つ薄汚れたボンネットを被っている少女が肩を小刻みに震わせ、くすくす笑い出した。見かねた牛乳屋は挨拶をするように促すと、失礼をいたしましたとすまし顔で謝罪をしてからピンと背筋を伸ばす。

「おはようございます、ルーデンさん」

 スカートの裾をつまみ、ちょこんと頭を下げた。

 田舎娘にふさわしくどこかぎこちない動きにヤンは苦笑いを隠せないでいた。すると、少女の気に障ったのか睨みつけられてしまった。

「礼儀知らずですまないねえ。この娘はイザベラ。今日は息子の代理で一緒に回っているんだ」

 ヤンは牛乳屋の息子を知っている。年端もいかぬ子供だが、父親の仕事を手伝い、跡継ぎとして熱心に仕事をこなしていた。

 嫌々仕事を手伝っているわけでもないので、ヴォルテルスの傍らに居ないのが不思議でならない。むしろ不吉なものを感じる。

「息子さんは、どうしたんですか」

「昨晩から急に高熱を出してねえ。流行病じゃなきゃいいんだが……」

 愛息の病気に父親として心配をしているようだった。ヤンの脳裏に一人の友人を思い浮かぶ。

「私の友人に医者がいます。早速、連絡を取ってみましょう」

「ありがとうございます」

 赤ら顔をくしゃくしゃにして、晴れやかな声で礼を言う。

 しかしヤンは少し後悔をしていた。その友人には少しばかりの借金があり、返済をしていなかった。都会を逃げるようにして、やって来てしまったため呼び寄せにくい。

 それにこんな片田舎まで、見知らぬ子供のために診察に来てくれるかどうかもわからない。心苦しい約束をしてしまったが、いつも余った牛乳を分けてくれているヴォルテルスのためだ。借金返済の目途がたったとでも嘘をいって来てもらおう。

「さあ、お前。ルーデンさんにミルクを……」

 父親が言うまでもなく娘は、缶を揺すって残量を確認していた。やがてにっこりして、ピッチャーを取り出しそそぎ始める。その姿を牛乳屋の親父は嬉しそうに終始眺めていた。

「ルーデンさん。さあ、どうぞ」

 少女の明るく澄んだ声にほだされ、ピッチャーを受け取りながらはっとした。ボンネットの隙間から亜麻色の髪がのぞき、陶磁器のように白い肌になだらかな頬は薄紅を差している。最も目を見張ったのは瞳だった。まるで日が沈むときのような暗い青なのに、光り輝く星のように美しかった。

 顔に見とれていたせいでお礼をぎこちなく述べると、イザベラは描きかけの絵をじっと見つめてから問うた。

「ここの風景ばかりを描いているのですか」

「ああ……」

 アカデミーを出てすぐに結婚をし妻ばかりを描いていたが、動くなとか、手の位置が違うとか、左に寄れとか、右に寄れとか、あれこれ注文をつけていたら愛想をつかされた。

「景色は人と違って動かないからな」

 前妻の嫌味を込めて答えると、ふうんと煮え切らない少女の声がした。

「でも面白味に欠けません? もしよろしければ、私を描いてみませんか」

 そういって右手を腰に当て、左足をピンと伸ばす。

「ちょっとや、そっとじゃ、動かない自信があってよ」

 さらに顔を上げて、つんと澄ましこんでみせる。

 これにはさすがのヤンも困ってしまう。もう二度と人物画は描きたくなかった。特に女性は描いていくうちにどんどん自意識過剰になっていき、手に負えなくなってしまう。

「私からもお願いします。もし娘をモデルにしてくださるのなら、積極的にミルクをお分けいたします」

 ヴォルテルス氏までもが手をすり合わせながらお願いをし、ヤンは窮地に陥る。

 だが悪い話ではなかった。今まではおこぼれに預かっていたが、イザベラをモデルにしたら確実にミルクが手に入るのだ。

「わかりました。私の家はわかりますか」

「あの小高い丘に建っているお宅ですよね?」

 土色の質素な造りを指しながら答える。ヤンの家に間違いなかった。

「では、今日の午過ぎに」

 約束を取り付けると、イザベラは嬉しそうに微笑んだ。側で見守っていた牛乳屋も満足そうな表情をしていた。


 その日の午後。コツコツと木戸を叩く音がし、仮眠を取っていたヤンはベッドから這い出した。そっと開けてみると、朝に会ったときよりも身ぎれいな格好をしたイザベラが緊張をした面持ちで突っ立っている。

 早速招きいれると、こわごわとして家の中に足を踏み入れた。

「何もなくて、すまないね。そこに腰掛けて」

 薬缶から白湯をそそぎ入れると、白い蒸気が立ち上る。その間、イザベラはくたびれた椅子に腰を下ろしながら、「いいえ、お構いなく」と遠慮がちに言葉を発した。

 白湯の入ったコップをイザベラの前に置くと、何もない部屋が余程珍しいのか目をきょろつかせていた。

 ヤンはしみたれたこの家に、きれいな花を咲かせようとしている少女が座っていること自体が奇跡に思えてならなかった。さて、殺風景な部屋とは似ても似つかない可憐な少女をどう描いたらよいものだろうか、と考えあぐねる。

 とにかく室内は暗い。暗すぎる。とにかく陽光が差している窓辺へと移動をしてもらうことにし、今日は簡単なデッサンだけにとどめることにした。

 イザベラはヤンのいうことを聞き、椅子ごと窓辺へと移動をする。ようやく自身の放つ光彩がはっきりと浮かび上がる。構図的には問題はなくなったが、ボンネットが彼女の表情を険しくさせていた。

 ヤンはそっとイザベラに近付き、はずそうとしたところ、急に顔を上げて目を見張られる。

「自分で……。自分で外します」と蚊の鳴くような声が返ってくる。

 今朝方見せた気丈さは影を潜め、朗々とした明るい声とボンネットを外す指先からは緊張感が伝わる。どんなに大人っぽく見せようとも、イザベラはまだまだ幼い少女なのだ。彼女の中にある少女と女性。二つを伴っているのが今のイザベラだといえよう。

 自ずとヤンはイザベラを描く上でのテーマが見えてきた。

 取り払われたボンネットからは、かっちりと編み上げられた豊かな亜麻色の髪が現れた。その美しさにまたヤンは心を奪われ、イザベラのことを凝視してしまう。

「あのう、髪はほどきましょうか」

 ヤンの強烈な視線が怖いのか、澄んだ声がにじんで聞こえた。安心させるために、「いや、そのままで」と静止をさせたが、自分自身でもひどく冷たく言い放ったようだった。

 ようやく一息をついてイザベラが腰掛けると、ベージュ色の紙と黒チョークを取り出した。

「今日はデッサンだけにする。そのまま楽にして……」

 独り言のようにぽつりと言うと、紙を広げチョークを走らせ始める。


 この日を境にヤンはイザベラがモデルの作品を精力的に描き、まずは地元有力者の目に止まり、次第に中央都市部へとその名が知れ渡るようになっていった。絵が欲しいと申し出る者が多く現れ、抱えていた借金はなくなっていった。

 しかし、ヤンはここでの暮らしをたいそう気に入っており、一向に出て行こうとはしなかった。都会で受けた苦しみを再発させたくなかったからかもしれない。

 ただモデルを務めているイザベラは、こうしたヤンに業を煮やしていた。

「ねえ、ヤン。どうして都会に行かないの?」

 白いシーツを身にまとった姿のイザベラは、御年二十歳になろうとしていた。ヤンの手によって純潔は失われてしまったが、依然として光り輝き美しい花の盛りを迎えていた。

「ここでしか描けない絵だからだよ。それに都会は疲れる」

 毎度ながらの質問にもヤンは絵筆を動かしながら、短気を起こさず幼い妻に丁寧に返す。

「また、そんなふうに答えるのね。私は舞踏会に招かれて、あなたと一緒にダンスをしたいのに」

 口を尖らせるイザベラに、ヤンは笑みを浮かべるだけで言い返さない。容姿が成熟したとはいえ、言動はまだまだ子供っぽい。夫婦の間に子を設けていないから、イザベラは妻と子の二役を思う存分演じているのかもしれない。

「では切りがついたら、ご一曲いかがですか。マダム」

 左腕を折って丁重にダンスに誘うと、イザベラの眉尻が下がった。

「いいえ、結構ですわ。ここは踊るには狭すぎるですもの」

 愛しきマダムに肘鉄をくらったヤンは肩をすくめた。

 美術アカデミーを首席で卒業したヤンは、サロンで前妻と出会い結ばれた。しかし妻は派手な社交を好み、ヤンの収入では賄い切れず離縁をした。金銭の問題だけではなく、幼なじみで医師の友人と密通をしていたらしい。この友人への借金は手切れ金として、棒引きされていた。イザベラの弟を診察してくれたときに、本人に告白をされた。友人のおかげで義弟は元気になり、今では独立をして立派な牛乳屋になった。

 ダンスは前妻になかば強制的に覚えさせられたもので、現在の妻に手ほどきをしたら、たちまち虜となってしまった。

 日に日にイザベラの言動は、前妻と似てきてヤンの心臓を縮み上がらせる。ごく最近はよほどダンスが気に入ったのか、舞踏会に出たいと口走るようになっていた。

 それでも彼は少しずつ変わっていくイザベラに戸惑いながらも、大切にしていたし、愛していた。二度と描くまいと思っていた人物画を、再び筆を執らせたイザベラは大変な功労者だ。一枚一枚、一筆一筆、丁寧に描くことにより、より緊密な関係を保ち、毎回新鮮な気持ちで創作活動をしていた。そして何よりも、ヤン自身が受けた心の傷を癒やしてくれたのはイザベラだった。

 イザベラは模範的なモデルだった。どんなポーズでも取って見せ、余程のことがない限り銅像のように動かなかった。おかげでヤンの創作意欲はますます旺盛になったのは言うまでもない。ただ残念なことにこれぞヤン・ファン・ルーデン! という作品はなかった。

 画家とモデル。夫と妻。この二つの関係は日を追うごとに堅く結実していき、穏やかに流れていった。


 ところがある日のこと。夫婦水入らずで街まで買い物に行っている隙に泥棒が入り、ヤンがずっと手放したくないと思っていたイザベラの肖像画が盗まれてしまった。

 再び人物画を描き始めて二ヶ月ぐらい経った頃のもので、まだ男を知らぬ純真無垢な乙女の姿だった。全体像は頭には花で作った冠を乗せ、つやつやの頬は薔薇色が差し込み、深い青の瞳は汚れを知らず好奇心に満ちあふれ、女性として花開く寸前の作品だった。

 ヤンは芸術家特有の感性に従い、カンヴァスの後ろに「永遠の乙女は、我が手中に」と密かに記していた。そして世に送り出すのを拒んだため、わざと冠の左側に白つめ草を描き加えずに緑色の草でごまかしていた。

 大切にしようとしていた作品だけに、ヤンのショックは計り知れないものだった。若き妻は賢明に夫の創作意欲を駆り立てようと努力をしたが、難しかった。

 盗難事件から一週間が経過した。ヤンの絵画の強烈なファンで画商の知人から連絡が入り、慌てて確認をしに行くと、大切にしてきた『永遠の乙女』だった。乙女との再会を喜んだヤンだったが、それは一時的なものに過ぎなかった。

 画商は是非とも大枚を積んででも購入したいと言い出し、同行していたイザベラは夫を無視して売ると叫ぶようにして返事をしてしまったのである。

 ――この出来損ないを売るだと!

 憤慨している夫の気など知れず、イザベラは勝手に画商と契約を進めてしまった。

 だがイザベラが契約を結ぶのも無理はない。ヤンの借金を完済したとはいえ食費よりも絵の具代が比重を占めていたし、そして何よりも盗難に遭ってからヤンの創作意欲が衰えていたため、生活は圧迫をしていた。

 イザベラだって年頃の娘だ。きれいなドレスの一枚でも欲しいだろう。

 結局一家の大黒柱として裁量のなさを憂い、愛妻の意とするままにさせてしまった。

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