中
恐ろしい、と志貴は嘆いた。
それがどうしてなのか、彰人には分からない。
日本人である彰人には、いや日本から召喚されてきた勇者達にとって、どうしようもなく懐かしく、目にしたのならば大金を用意してでも手に入れたいと思わずにはいられないもの、それが米だ。
パンが別に嫌いという訳ではない。だが、毎日毎日パンを主食にするのが普通の世界で生活していると、どうしてもご飯が恋しくなる。数年間、若さと勢いで世界中を旅していた彰人も、何度も海外の地でそんな感覚に陥るという経験をしたことがあった。
あと日本人として無償に欲しくなるのは、在り来たりだが、醤油に味噌。他にも色々と日本食に慣れ親しんだ口が欲するものはあるが、一先ずは米と醤油と味噌があれば簡単な日本の味は再現出来る。
「あれ、確か醤油と味噌は、志貴様が作ってますよ?」
「マジで!?」
焼きにぎりと味噌汁が食べたい。
ついつい口から願望が漏らせば、天使がそう答えた。
彰人の目が輝いたのは、当然のことだろう。
「志貴君、志貴君。本当?」
「何を当たり前のことと。醤油と味噌、調味料として基本だろう。市販品など恐ろしくて口に入れるなど出来るものか。自家製が難しいものならば、食べないか、恐怖を抑えて口に入れもするが、醤油と味噌など家で簡単に出来るではないか。」
そもそも、市販品なんていうものは、添加物や保存料が大量に入っている。元々、保存食としてそういったものを必要としない筈の味噌や醤油、梅干にまで保存料や添加物が入っているとはどういうことなのか。
と、志貴が演説を始めたが、半年振りの日本の味との再開を果たした、という顔で感動を露にしている彰人には一切、その言葉は届くことはない。
「……もしかして、糠漬けなんかもあったりして…」
当たり前だろう、という憮然とした志貴の声が返ってきた。今なら、自分に犬の尻尾が生えていて、大きく風を切って振られている姿が容易に想像出来た。
「梅干に梅酒、あっ、紅しょうがと甘酢漬けもある。」
許可を得て、キッチンの収納のあちらこちらを探索する。
すると、出るわ出るわ、自分が日本人だったんだと実感する食品の数々が大きな瓶に詰められている状態で発見された。
醤油と味噌も、木樽に入ったものが発見され、その漂う匂いを嗅いだだけで彰人を感激させた。それぞれ四つある木樽の中身は減ってはいるが、まだまだ長い間使えるだろうという量が残っている。
「志貴君。お願い。おにぎりと味噌汁…ていうか全部食べさせて!」
「米は無い。」
「えっ?」
彰人の必死な懇願を、志貴は無慈悲に切り捨てた。
「無い、の?」
「あぁ、すでに備蓄は尽きている。バルコニーに数種類の米を一合分ずつ程は作っているが、まだ収穫には及ばない。それに、あれは来年の種籾用として育成しているものだ。やはり、適性な場所に保存しているといっても、年月が経ってしまうと発芽率が大きく落ちるからなと、育てていた。だが、異世界に来たとなってはもう関係ないな。収穫時期が来たら、食べてしまうとするか。」
その時を楽しみにしていろ、と志貴は言う。同居人となった彰人に対する親切心なのだろう。その効果は絶大で、せっかくの醤油や味噌や漬物があっても米が無いという言葉に絶望さえ覚えていた彰人の心を救い上げる事に成功はした。だが、その顔に浮かんだ輝きはすぐに消え去った。
彰人は、あることに気づいてしまったのだ。
「でも、種籾用を食べちゃったら、もう二度と米は食べれないんだよね…」
「そもそも、パン食文化である異世界の地で米を作るなどという、恐ろしい所業をするつもりはない。」
そこで話は戻る。恐ろしい、とまた言い始めた志貴に向かい、どうしてそれが恐ろしいのかが全く分からないと、彰人は純粋な疑問として口にする。
「それまで存在しなかった食文化を蔓延らせようというのだぞ?恐ろしい所業でしかないだろう。」
何を当たり前のことで驚くのだ、と志貴は目を見開き、本当に驚いた様子で彰人を見つめた。
「おい、天使。この世界で米というものを主食として食している者は居るのか?」
「えぇっと、家畜用として用いられている地域がぽつぽつとはありますが、基本的に主食となっているのは芋か小麦です。」
「ならば、そもそも米を育てることも難しい。つまり、この種籾を用いたとしても、無事に収穫出来るか分からんな。だったら、新米の内に食べてしまった方がいいではないか。」
「えっ、でも、日本だって芋も麦も育ててるところあるじゃん?なら、出来るんじゃ…」
「麦は高温多湿、多雨に弱い。芋は水はけの良い地でなければ良い収穫は見込めない。そのどちらも、米が得意とする環境だ。日本で行うことが出来ていたのは、主食とするだけの量を必要としなかったが故であり、南北に長細く伸びているからこその、亜寒帯から亜熱帯という様々な気候があるからこそ実現したことだ。その上で、日本人は品種改良を繰り返し、本来は生産出来ない地でも生産出来る品種を作り出していったということも大きい。縄文時代の青森に残されている遺跡にも米は出土しているが、それで充分な収穫が出来たとはいえない。歴史を紐解いても、種籾さえも残すことが出来ずに全滅したという記録は何度も残っているからな。米の栽培が成されているのは、温暖湿潤な地だった。これを、品種改良や突然変異を繰り返すことで、北海道という環境でも普通に育て、しかも美味しくなるようにと工夫を重ねた。俺達が当たり前のように口にいしていたのは、そういった代物だ。稲というものが実在しているのに、それを人間の食料として用いられていないことがまず、この世界に米というものが適応していないということだろう。出なければ、麦という問題点のある食料の他をさっさと探している筈だ。家畜の餌としているのならば、米が食べれるということは知っている。だというのに、今までにもきっとあった飢饉や重税などを乗り越えても主食として使っていないということは、麦にも劣る収穫量なのか、味が口にするに相応しくないか、大きくはこの二つ程の理由だろう。」
味の保障があり、本来の稲には過酷な環境にも適応するだろう品種改良が施されているこの種籾を使ったとしても、何処で栽培するつもりなのか。
志貴の指摘に彰人は考える。
麦を作っている農民達に頼んだとしても、麦を育てていた場所で本当に米が育つのか。強く改良されたといっても、その強さは病気や寒さに対するものだ。充分な水量が無ければ枯れるのは必至だ。
「あれ、でも5人目の方が、現地で稲を見つけられたと大喜びで、栽培に着手されたようなんですが。」
もうすぐ収穫だ、と報告が来ています。
全ての天使達の報告を受けるエリーゼがそう告げる。
「恐ろしいことが起こるんですか?」
恐る恐る尋ねる姿は、普段の志貴の『発作』を丸っと無視している様子ことなど、すっかりと忘れている様子だった。
「で、でも、ちょっと色が赤くて、味も薄いけど、ちゃんと米だって言ってましたし。田んぼも急拵えではあるけど、上手くいってると報告には。これで上手く収穫出来たら、田んぼを増やしすんだって…」
「……恐ろしいことだ。…恐ろしいことが起こるぞ。」
米作を普及させる気だと?なんという、悪の所業だ。
「いやでも、この世界で自生していたものを見つけて栽培するんだから。そこまで、大変なことじゃないと思うんだけど…。栽培出来たんなら、環境にもあってたってことだし。そのうち、この世界の人がやり始めていたかも知れないんだし。」
そう考えれば、例え恐ろしいことだとは思えない。
「ええっ、あの方は他の方々に比べれば、注意は必要のない大人しい方なんです。ですから、何か不穏なことを仕出かす可能性は低いと思いますし。」
「それは善良な人間か?」
「えぇ、まぁ。」
人を召喚させるような天使の言う事など信用性は低い。が、善良であろうとなかろうと、あまり違いはない。それを聞いたのは、ただ単に志貴の想定している恐ろしき事態が早いか少しだけ遅くなるかを予想してみようかと思っただけに過ぎない。
「その男の恐ろしい所業によって、その一帯の文化と歴史が大きく変わることになるな。あぁ、恐ろしい。」
「えっ、そんなに!?」
「世界中を旅しているくせに、何と暢気な頭をしているのか。」
「ある国に日本が品種改良によって産み出した米を提供した。」
志貴は突然語りだした。だが、それも何時もの『発作』だと天使達は慣れた様子で驚くこともなく、彰人もすでに志貴の『発作』と目にしていることから、「うわっ」と僅かに驚きはしたものの、その話を邪魔することなく耳を傾けた。
「寒さに強く、そして栄養価も高い、旨みもあったその米が上手く実った後には、その国の人口がそれまでの二倍以上になったという例がある。その国では米も栽培していたが気候にあまり適応した種ではなく生産性に乏しかった。それと同じようなことが、パンの材料になる小麦を始めとする麦類にもいえる。そもそも、麦という穀物はそれほど効率がよいとは言えない。大量の収穫が望めるように品種改良が行われたのは20世紀後半に入ってからのことで、それまでの大きな変化といえば突然変異によって越冬という寒さを必要とする種から、寒さを経ずに発芽する春蒔きの小麦が生まれたことくらいだろう。機械の導入による大規模農業が行われうまでの小麦の収穫では多くの民の食事を補えるものではなかった。中世あたりの記録によれば、小麦の収穫は3~5倍程。それに比べれば、米は7~25倍という収穫を得られたとある。その上、精米することなく玄米の状態で食せば、栄養価も充分に得られる完全食と呼べるものが、米だ。つまり、麦文化であるこの世界に米を介入させる、しかもそれの収穫量を目の辺りにして生産するものが増えれば増える程、その恩恵によって人口も増えることの出来る余地というものが生まれる。」
「へ、へぇ。」
「その上、米というのは手間の掛かる穀物だ。水田による栽培であるなら、麦や芋に見られる連作障害という問題を避けることは出来る。だが、定期的に水を抜いて土を乾かしたり、水草などの雑草の駆除も必要だろう。しかも、その男が日本人である限り、苗床でまず種を発芽させ、それを田んぼに植えていくという手順をとる。そうなれば、田植えにも稲刈りにも手は必要に成る。人を増やせる余地があり、人手が必要。ならば、話をして人手を募るだろう。数年もすれば子供を産み増やすことで人手を作るだろう。だが、人手を増やしてしまえば後には引けなくなる。それだけの人間の生活を、その男は背負わなくてはならなくなるのだ。だが、それを背負うには、現地で食されてもいなかった米では不安が多過ぎる。品種改良という手が入っていないのならば、寒さにも暑さにも弱い、病気にも弱いだろう。その男が元々農業を行っていた人間だったとしても、そう毎回毎回上手くいくとは思えない。そう、今回は上手く収穫に至ったかも知れないが、来年上手くいくとは限らない。そうなれば、麦を捨てて米を作り始めた者達が、どう思うのか。米は出来なかった。麦は作るのをやめた。食べるものもなく、途方に暮れ、そして、その怒りは自分達を惑わし間違いへと導いた男へと向かうのだ!」
真面目な論説から、志貴独自の妄想へと入り始めた。
その頃になると、天使達は話を聞いていた体勢を崩し、終わるまでの間の暇潰しの道具の準備に掛かっていた。
「あっ、彰人様。ウノやろうと思うのですが、参加しませんか?」
「えっ、うん。そうだね…」
「もしも俺が備蓄していた日本の英知の結晶である品種の種籾を、地上で栽培させたならどうなる。寒さにも強く、病気にも強い。収穫量も格段にあがり、なおかつ育てやすいようにしてあるのだ。これらの種籾を元にするのならば、失敗という懸念の確率も格段に下がるだろう。だが、それによって起こる人口爆発も比べ物にならないものとなる。そうなれば、どうなるか。」
志貴の論説はまだまだ続く。
もうそろそろ無視してればいいくらいですから、と天使達の言葉を聞きながら、それでも少しだけ彰人は耳を傾けていた。
「戦争だ!!」
「……過程を省きすぎじゃないかな?」
食料と労働力の必要性の増加までは分かる。だが、そこから突然の"戦争"という言葉に、彰人は息を飲んだ。驚きはしたものの、じっくりゆっくりと考えれば、地球の世界史や日本史を学んだ事があれば、何となくその理論を理解することも出来る。が、その過程の説明を省いた志貴の持論の展開は、超展開過ぎた。それが彼の『発作』の常ならば、それは誤解を招くことが多かっただろう、と考えられた。
息継ぐ暇もなく、志貴の持論の展開は戦争からもどんどんと進んでいく。
いつものことですから、と彰人の前にもウノのカードが配られ、ゲームは開始された。
ファンタジー米だから、という言葉で志貴の暴走は解決します(笑)
これだけ色々な妄想で怯える人間なら、出来る限りは自家製で済ませる気がします。それを出来る財力があればなおのこと。
あれ?『おかん』属性追加?