中
少女が恐怖のあまりに陥った硬直状態から抜け出た頃には、男の姿は見える範囲から消えてしまっていた。
少女の周りに残っていたのは、暑い夏の日定番の鳴き喚く蝉の声だけだった。
『な、な、な…、何なんですか、あの方は!いえ、それでも神があの方だと言うのです。絶対に、あの方には召喚に応じて頂かないと…』
剣を拾い上げた瞬間に召喚される。これは別に"応じた"というものではないと思われるが、少女の中では"召喚に応じた"ということになるらしい。
少女は神より授けられた使命を果たすべく、闘志を燃え上がらせたのだった。
それから少女は頑張った。
ありとあらゆる資料を参考にし、様々な召喚の方法を男に仕掛けたのだ。
何の用事があったかは不明だが、男が山の中を散策している時には、彼の進行方向にひっそりと存在していた古いトンネルの出口を、少女の世界に繋げてみた。
すると、男はどうやって勘付いたのか、逃げる貧相な男とそれを追いかける厳つい容貌の男達という集団に道を譲り、先にトンネルと潜らせてしまったのだ。そして、自身はトンネルを潜ろうともせずに下山していった。
これまた何の用事があったかは不明だが、男は近所の高校に出向いた時があった。その時には、彼が使う寸前の階段の途中に勘付かれないよう、慎重に慎重を重ねて少女の世界と繋ぐ入り口を仕掛けた。
だというのに、男はどうやって勘付いたのか、階段を降り始めたところで足を止めてしまった。そして、彼を追い抜く形で階段を駆け下りる男女8人の生徒達が、階段の途中で忽然と姿を消してしまう事態となった。
こうなれば、と男が歩いている道に召喚陣を設置してもみた。男が足で召喚陣を踏みしめれば、彼を少女の世界に向かわせることが出来る。少女は、今度こそはいけると確信していた。男以外には反応しないようにしておいた。
なのに、男は自分の足下が明るく輝き始めた瞬間、咄嗟に自分の隣を通り過ぎようとした青年の腕を引き、輝く召喚陣の中に放り込んだのだ。そして、青年の腕を引いた反動を使って、自分は召喚陣の外に飛び出てしまった。
『貴方、何をしてるんですか!!!』
『何?決まっている。自分の身を守ったんだ。咄嗟のことで掴んでしまった彼には申し訳ないが、あの容姿ならば、きっと異世界でハーレムでも築き、幸せになることだろう。』
『じ、自分が助かれば、それでいいと…?』
『何を、当たり前のことを。』
二回目の攻防の際に、少女ははっきりと分かりやすく、男に事情を説明している。
神が彼を呼んでいること。世界を救う勇者となって欲しいこと。勇者となるに相応しい力が与えられ、それ以降も手厚いサポートを受けることが出来る事など。大企業の営業でトップの成績を叩き出せるのでは、と思えるような説明で、少女は男を勧誘したのだ。
だが、男はそれを一切無視し、鼻で笑って拒絶したのだった。
その時にも、少女は驚きの表情を露に、呆気に取られていた。
だが、少女の常識にはない、知らない"当たり前"を聞かされた今、その時以上の衝撃を少女は受けた。
そして、その顔に、男はこれで煩わしいことも終わった、と安堵した。
だが、男の安堵は地の果てに蹴り飛ばされていった。
少女は諦めなかった。
男自身を説得する事は諦めても、彼を召喚することは絶対に諦めなかった。
そんな少女と男の攻防は何回も続いた。
少女は、男の勘の良さを憎んだ。
男は、少女の諦めない様子に辟易した。
26人。男が回避することによって異世界へと送られていった人々の数は、そんな数字に達していた。
望まれている男ではないにせよ、召喚によって勇者補正を得た彼らは、少女の世界で大変な事態を引き起こしていた。
あるものはハーレムを築いて、ある種の勢力を拡大していた。
あるもの達は手慣れた様子で闇の一大勢力になっていた。
あるものは、それまで存在しなかった知識を根付かせ、革命を起こしていた。
26人という数だけ、世界に良くも悪くも大きな波紋が生まれたのだ。
神は、それを治める、管理するのもまた、真の勇者である男の協力が必要だと、少女に言ったのだ。
少女は何としても、早く男を召喚しなくてはならなかった。
そして、焦った少女が仕掛けたのは、今一番流行っているという召喚方法だった。
男が交差点で信号待ちの為に立ち止まった時。
男の足を止めた信号は赤。それが青になった時、男は歩き出す。その時、少女の作戦は始まった。
幼い子供に変じた少女が、足を踏み出そうとした瞬間にその隣を走りぬける。其処に、車道の赤色の信号を無視したトラックが猛スピードで近づく。
『危ない!!!』
少女の作戦では、トラックに轢かれそうな子供を助けようと彼がトラックの前に出てくる筈だった。自分が一番大事と彼は言っていた。だが、神に仕える少女は人の善意を信じずには居られない性質を持っている。そう口では言ってみせても体は勝手に動いてしまう筈だ、と信じていた。
だからこそ、このような作戦を立て、トラックに轢かれることで異世界へ召喚されるよう仕掛けをしていた。
だけど、子供へと変じている自分に掛けられた叫び声は、男のものではなかった。
慌てて振り返ってみれば、少女の背中を強く押してトラックの前に飛び出ているのは、標的である男ではない青年だった。男は、交差点に足を踏み入れようとしている姿をそのままに、表情一つ変えることなく少女とトラック、そして青年の姿を目に写していた。
『馬鹿か、お前は。』
少女を助ける為にトラックの前に飛び出た青年は、仕掛けられていたものによって、少女の世界へと旅立って行った。青年の姿は消え、青年が助けようとした少女の姿も消え、トラックが急停止した交差点では大きな騒ぎとなっていた。確かに青年と少女は存在していた。でも、居ない。何処だ!!?
そんな騒ぎの中、その場を静かに離れた男を追った少女は、人通りの無い路地裏で「どうして助けようとしなかったのか」と詰め寄っていた。
そして、男から返ってきたのが、冷たく切り捨てる、容赦のない言葉だった。
『ば…』
『あんな最悪な方法を取るとはな。あぁ、本当に最悪な馬鹿だ。』
『な、な…』
『どうして助けなかったのか、だと?そんなの決まっている。俺にそんな身体能力が無いからだ。突然、飛び出していく子供、猛スピードで突っ込んでくるトラック、それに対処する動体視力も反射神経も、俺は持ち合わせていない。誇れはしないが、体力測定の反復横飛びでは男子平均の半分以下しか出来なかった男だからな。あんな状況で子供を助ける事が出来る身体能力の持ち主なら、俺を呼ばずとも大いに活躍してくれる勇者になるだろうな。』
青年の活躍を祈ろう。
本当に人事だと思っている、そんな感情がありありと分かる声で、男はしみじみと呟く。
『そんな…一番流行ってる方法だって聞いたのに…』
『正義感にあふれ、身体能力に恵まれている人間が欲しいのなら、的確な方法だろうな。』
男は、悲壮な面持ちの少女を見下ろし、嘲笑してみせた。
『うぅ…』
『それに何より、余計な手出しをして、要らぬ恨みを買うなど考えるのも恐ろしい。』
『う、恨み?』
何の事、と少女は目を丸めて男を見上げた。
『トラック。つまり、あの荷台には至急に運ばねばならない荷物が積まれているかも知れない。こんな所で事故を起こしたと、あのように足止めを食らっていたら、期日に間に合わないかも知れない。もしも、それが何かの部品だったら?それを使って製品を生み出す工場に納められる予定だったのなら、この遅れのせいでその製品の納品遅れてしまうだろう。そうなれば、次の仕事を回しては貰えなくなるかもしれない。そして、仕事が無くなってしまえば、会社を維持していく為に、社員を減らすという手段をとるかも知れない。そうなれば、彼らは誰を恨むのか。そう、納品が遅れたトラックのドライバーだ。そして、ドライバーは、誰を恨むのか。そう、飛び出してきた奴等だ。』
『あ、あの…、ちょっと話が飛躍し過ぎな…』
『飛躍?そんな事はない。ならば、他もあるぞ。もしも、あの荷台が空だったのなら、納品先はないだろう。だが、それでもドライバーは恨むだろう。人と車では、何れだけ人に落ち度があろうと、車を運転していたドライバーが罰を受けることなる。免停、で済む筈が無い。自動車運転過失致死、もしかしたら危険運転過失致死に問われるだろう。それだけではない。急停車するんだからな、後続車が停まりきれず衝突して、玉突き事故になるかも知れない。そうなれば、下手をすれば死者も出る。急停車することなく、ハンドルを切って回避しようとしたならば、歩道を歩く人を轢くかも知れない、街路樹を押し倒していたかも知れない。そうなれば、実刑を受けるだけででなく、損害賠償も大きなものとなって、避けられないだろう。』
眉間に皺を寄せ、男はまるで自分が説明したそれら全てが起こってしまったことのように、苦悩してみせた。
『そ、そんなこと…』
『轢いてしまった筈の人間の体が無かった、などともなればもっと質が悪くなるだろう。見た筈のものがない、そんな事を証言などしてみろ。薬物の使用を疑われる。検査に反応が出なかったとしても、脱法ハーブという線もあるからといって、しばらくは警察の目が厳しく注がれるだろう。あぁ、それに、保険額が大変なことになってしまうやも知れない。街路樹にぶつかるだけだとしても、しっかりと対物にも対応してくれるものならいいが…無かったら車を修理するのも一苦労だ。最近では、保険に入っていないという愚かな若者が増えていると聞いたが、まさかトラックでそれはないだろうが…』
ぶつぶつと顎に手を当てて、恐ろしい、怖いことだ、と口にしている男。
少女は彼が思案にくれている間に、その場を後にすることにした。
『つ、次こそ絶対に召喚しますから‼首を洗って待っていて下さい!』
毎回宣言する言葉を残して、翼を羽ばたかせた少女は去っていった。
そして、27人目の身代わりが生まれた一件から、丁度一月経った。
出掛けようと玄関のドアを開けた男は、玄関の前で跪いて百合の花を差し出してくる少女を見てしまった。
『それは、召喚ではない。受胎告知だ。』
ただ、それだけを言い、男はドアを思いっきり閉めた。
今日は出掛けるのは止めよう。カバンを放り投げた男は、気に入りの座椅子に腰を下ろして、読みかけで放っておいた書物のページを開いた。
ピンポーン、ピンポーンとチャイムが鳴るが、無視を決め込み、本の内容に集中した。
あぁ、もう!いい加減にして下さい!!
鍵の掛かっている玄関のドアを開けることなく、少女が室内に現れてそう叫ぼうと、男は慣れきったものだった。