中2
「初めまして」
コホンッ
「僕は柊幸希です」
ケホッ
「お会いできて光栄です」
ゼェゼェ
線の細い青年だった。
髪はボサボサであまり艶というものが見られず、顔色も悪い。目の下には濃く広い隈が出来ていた。立ち止まっていられないのか、ゆらゆらと体を動かし、息苦しそうに喉からは呼吸の音が荒々しく聞こえてくる。その為か少し話をする度に咳き込み、彼が名前を名乗って挨拶をしようにも途切れ途切れとなってしまう。
青白い顔色の中でも頬はチークを盛っているかのように真っ赤に染めあがり、目はうるうると湿っぽく潤み、ふわふわと視線をさ迷わせていた。
The不健康、そのもの。
医者や看護師でなくとも、今すぐに布団に入って寝てしまえと指示を出して世話をついつい焼いてしまいそうになる。
同じ日本人目線で年齢を言い当てるとするならば、二十代前半、大学生くらいだろうか。エリーゼ達天使やケンイチの村の人々からしたら、十五・六才くらいの少年に見えると言われるだろう。それもはっきりと判断する事はできない。その青年は白い布で作られたマスクで、顔の下半分、つまり口元を覆っているからだ。
完全に体調が悪いだろうという見た目も相まって、助けてあげなければという庇護欲を非常に誘う青年、それが天使ファーヴによって志貴が対面することとなった、仮勇者だった。
「これが皆さんに移ることはほぼ無いので」
ごほんっ。
くっしゅん。
「安心してください」
どう安心しろと言うのか。
まだ彼がマスクをしているから、彼が『人に移したら風邪は治る』という無責任な馬鹿話実行者で無いことだけは確信できる。だが、手作りと見てとれる彼の口と鼻を覆う白い布マスクに、彼のその症状をもたらしている細菌またはウィルスを咳と共に飛散させないという効果が、どこまであるのか疑わしい。
シュー
志貴が霧吹きを自身の周囲に振り回し、アルコール除菌を試みる。
「志貴さん。貴方の御要望通りに、貴方の周りだけを完全に隔離した空間としたじゃありませんか。そんな事をなさらないで下さい。失礼です、私に。そして、彼に」
何とか、そうエリーゼとファーヴは何とか志貴を、ファーヴの懇願にそうようにあの家から連れ出し、ファーヴが補佐する仮勇者、幸希の待つ地上の居住地に訪れることに成功した。
志貴の家で会う事が最も簡単な案ではあったのだが、これは考える素振りも無く、志貴が否定した。恐ろしい得たいの知れない何かが持ち込まれたらどうする、と。
では、どうするか。
志貴の家に施された強力な護りよりも強力なそれを、志貴の体を覆う形で施すことで双方納得出来たのは、実に一昼夜の後の事だった。
「先に僕の理不尽な勇者補正について説明した方が、前橋さんは安心して頂けると思います」
ゴホッ
ガラガラのひび割れた声で咳込みながらも幸希は、志貴のそれも仕方ないことだから、とアルコール臭に湿る全身に怒ることをしなかった。
「細菌やウィルスといった存在を支配して操ること。それを僕は自分の理不尽な勇者補正に選びました。だから、僕が咳をどれだけしていても、これが貴方達に移ることはありません…僕がそれを許さない限りは」
「な、なんで、よりにもよって、そんな力に!?」
呆れ、困惑、そして疑いの目を向けたのは、それらの存在に対する警戒心が日本国内に暮らす一般の人々よりも高く培われていると自負している、彰人。世界の主に貧困地域に部類される地を旅することが趣味であり生き甲斐でもある彼は、過剰なまでに除菌しようとは思わないまでも、危険が身近にあったからこその知識を持っている。資金を貯める為などの理由で日本に帰国する度に、感染の危険が無いか拘束され確認されたり、様々な予防接種などを受ける羽目になる。人から見たら自由奔放にあっちこっちへと旅しているように見えても、それでも危険と忠告の出ている地域には近づかないように気をつけてもいた。
こちらの世界に来てからもそれは同じで、病気が流行っている、あの地域にだけ存在する病気がある、などの噂話には耳を澄ませ、足を向けないように心掛けていた。水は絶対に沸騰させてから、モノを使う際には出来うる限り煮沸してから。ついでに、その地域の老人達の知識は出来る限り収集して薬となる草などはチェックするなどの努力と工夫も重ねてきた。
幸希が持つという勇者補正は、そんな努力などに関係なく、多くの人を苦しめることが出来てしまうというものだ。彰人はそう考え、ドン引きした。細菌には人にとって有益なものもあるとは理解出来ても、それ以上に恐ろしく有害なものが多いと頭に浮かんできてしまう。
「俺達の世界でなら、恐ろしい兵器として十分に成り立つ力だな。炭そ菌、エボラ、生物兵器として十分な働きを果たすこれらを操れるのならば、恐ろしく脅威だ」
彰人の考えを読み取ったかのように、志貴は真剣な面持ちで彰人と同じ危険に焦点を置いた意見を口にした。彰人が経験に基づいてその恐ろしさを危惧するのに反して、志貴のそれは知識として彼が集めた危険性。そして、それを利用しようとする人間の恐ろしさについてだった。
だが、恐ろしいと口にするのは何時もの発作と同じ事だが、その声は何時ものそれとは全く違う、淡々としたものを感じさせる。
彰人があれ?とその声音から感じた雰囲気を不思議に思い、視線を幸希から志貴へと移した。
すると、志貴は目は幸希へと向けたまま、器用にもその手元では一枚の紙に文字を連ねていた。その紙というのは、彰人にも見覚えがあるそれで、目を拵えて志貴の綴る細かい字を解読すると、その文言もまた彰人には見覚えのあるものだった。
「柊幸希、お前の理不尽な勇者補正が俺に一切有害にならないと誓う契約に署名してもらおうか。お前の話を聞くのは、その後だ。もしも、それを拒否するというのなら、俺はこれで帰らせてもらう」
今まさに書き連ねた志貴の理不尽な勇者補正である『契約書』を幸希の眼前に突き出した、志貴。
あまりにも唐突なそれに、短気な性質の人間であったなら憤慨することもありえるかも知れない。
だが、細かな字を事細かに書き連ねた書面を眼前すれすれに突きつけられた幸希は、「はい、分かりました」とあまりにもあっさりと応じる姿を見せた。
「前橋さんの能力については、ファーヴから聞いています。僕の能力を思えば、それも当然です。僕の能力が前橋さんに危害を加える事にならないと誓います」
あまりにもあっさりと署名に応じ、同じく突きつけられたペンでさらさらと自分の名前を指定の位置に記した、柊幸希。 志貴が能力を確定する切っ掛けとなった彰人でさえも、それなりの躊躇いを覚えながら署名したというのに。戸惑う素振りも躊躇う素振りも無く署名した幸希のその行為を唖然と見送っていた彰人だったが、はっと重大な事に気がついた。
「あっ、ズルイ!ズルイよ、志貴君。柊幸希君。是非、俺とも…『契約』なんて能力は無いけど約束してくれないかな?それと、図々しいとは思うけど、ちゃんと代価を払うから病気になっちゃった時には手を貸して欲しいなぁ…。引き篭もりの志貴君とは違って、世界中を歩き回ってるから、俺」
それでも出来れば格安でお願い。
パンッと顔の前で自分の手と手を合わせて頭を下げて、彰人は頼み込む。細菌やウィルスというものが原因での病気になった際にそれを取り除いて貰えるなら、どれだけ彰人の行動への助けになるか。
「大丈夫です。僕が本当に困っていたら代金を貰うかも知れませんが、仰って頂ければ僕でよければ御役に立たせて下さい」
「良い人だ!」
ありがとう、と彰人は感動を露に握手をしようと手を差し出した。日本などよりも弱肉強食という面が強いこの世界の中で、無償で何かをしようなど、その想いを抱いていたとしても口に出す人は少ない。世界の環境が厳しいからこそ、人は貪欲にならなけらばならない。困難に遭遇して命を落としてしまうかも知れないという事態が発生しやすくなるからだ。
日本人のお人よしな面が懐かしくなる事態に多々遭遇してきた彰人は、本心から感動していた。その上での握手だったのだが、これに幸希は大いに戸惑い、仰け反ってさえ居た。だが、それでも迷う事なく手を差し出し続けている彰人に、幸希はおずおずと手を重ね、彰人の手を握り締める。
「それにしても、こんな良い人があんな凶悪な能力を考えちゃったのか。理由を聞いても?」
「あっ、はい。これはその、別に何か考えがあった訳じゃないんです。必要に駆られて、というか…」
へにゃりと眉の端を下げた幸希の声が、咳き込みなどとは違う理由で、段々と語尾を弱めていった。
「?何だ、それは?」
そんな幸希の背後に、じわりと黒い靄の塊が滲む。それが空中でさえなければ、シミだと思い程度に留まったかも知れない、そんな現れ方だった。
「インフルエンザです」
「はっ?」
「僕がこの世界に来た時、僕は病院に居ました」
コホッ。
まずは、と幸希が語り出したのは、彼がこの世界へと来てしまった経緯だった。
その日、起きた瞬間から体調の悪さと高熱に気づいた幸希は「まさか」という想いに駆られながら、一番近所に存在している病院を訪れた。ニュースでは連日、インフルエンザ流行の言葉を聞く。就活真っ只中の大学三年生の幸希。もしもインフルエンザに感染した身で大学に出向きでもしたら、同じく就活に勤しむ友人達にも迷惑をかけるという大問題に発展する危険がある。そう真っ先に考えた幸希はマスクをして、出来るだけ迷惑をかけないようにとタクシーで病院を訪れた。
検査の結果はやっぱり、インフルエンザ。
大学へ行ってはいけない、家で安静に。そう指示されてしまった幸希は、どのようにしたらいいのかという説明と指示を貰おうと所属ゼミの教授へ連絡し、昨日まで行動を共にしていた友人達にも連絡を入れようと、人の少なく携帯の使用が許されている階段の踊り場に居た。
階段を昇ってきた見舞い客と思われる青年に道を譲って踊り場の端に身を寄せた時、幸希の身体は衝撃を感じ、気づいたら空中を飛び、そして再び気がついた時には異世界に降り立っていたのだ。
「…よく覚えています。あの時の階段を昇ってお見舞いに行く人は貴方でした、前橋さん」
「覚えが無いな。…いや、だが病院か。もしや大叔父の見舞いに行った時か?だが、そんな事をよく覚えていたな」
そういえば、見舞いが終わった後にもエリーゼに「何なんだ!」と文句を言われたことがあったな。
幸希とすれ違った事も彼を巻き込んだ事も思い出せず、エリーゼに憤慨された事だけは鬱陶しくて覚えていた志貴は、他人事のように感心した。
「志貴君!」
常識のある彰人は、その他人事な態度を隠そうともしない、当事者であり、主犯その2という責められる立場の志貴を諌める声を上げる。
「よく覚えてます。だって、あの時の前橋さん、鉢植えの松…盆栽ですよね、を抱えて階段を病室のある階に上がっていったじゃないですか。お見舞いなのに!って驚いて、よく覚えてました」
「志貴君…」
何をして…、と今度の彰人の声は呆れ果てたもの。
寝付くとされて見舞いにはタブーとされている鉢植え、それを持った見舞い客に病院で遭遇したとなれば、それは確かに強烈な印象を受けて忘れ辛いだろう。
「言っておくが。俺がマナーを知らずという訳ではないぞ?わざとだ。あの大叔父には、是非とも長く病院に居て貰いたかったのでな」
例え意味があったとしても、印象深さが薄れることにはならない。他の入院患者達の心臓にも強烈に悪かっただろうな、と彰人は何とも言えない表情で、一人平然とした顔でそこに立つ志貴を見つめた。