上
ただのリハビリですが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
あぁ、もう!いい加減にして下さい!!
そっちこそ、いい加減にしろ。
都会とも、田舎ともいえない、とある街の端。
二十階建ての分譲マンションの最上階の一室に、ヒステリックに叫ぶ甲高い少女の声が響き、それに答えるように覇気の無い男の声が返された。
「何が不満なんですかっ!異世界ですよ!?皆が大好き、異世界トリップです!」
バサッバサッ
ヒステリックに叫ぶ少女が、背中に生える身長よりも大きな翼を震わせる。
「うるさい。羽根が落ちる。埃が舞う。甲高い声が頭に痛い。」
少女の背中に生えた翼が、背負っただけの玩具でないと男は知っている。少女の背中にしっかりと繋がり、彼女の自由意思をもって動くことも知っている。
彼女との付き合いが始まったばかりの頃、直に触れて確かめた。そこに嘘偽りが無く、彼女の言葉にも嘘偽りがないだろう、と言う事を知っている。
だからこそ、もうすっかりと慣れてしまったその姿に男は驚くこともせずに、少女の言動をあっさりと、冷たい眼差しを向けるだけで切り捨てた。
「あぁぁあぁ‼もぉ‼」
男の視線は、少女に注意する時に一度だけ向けられただけで、再び手元の本の中へと戻ってしまう。それには、少女の奇声のような唸り声が響く。緩やかに波打つ純金の髪を、ガシガシと麗しい容貌からは想像のつかない乱雑さで掻き毟る。
柔らかな感触が触れずとも伝わってくる、光を透き通す純金の髪。決め細かな白磁の肌。菫色の目が人の意識を惹き付ける美少女。街中で放っておけば、ナンパだけでなく人拐いの類まで、この平和を謳う国で生み出してしまいそうだ。
その上で、背中には純白の翼。
神秘性にあふれたその姿は、天の御遣いと世界中で崇められている絵姿そのもの。
一瞬でも人の目に映ってしまえば、世界中から涎を垂れ流した人々が確実に集まってくる。
だか、今の彼女の姿では、そんな気は一切起こらない。むしろ、遠巻きにして逃げ出していくだろう。
菫色の目は血走り、髪はボサボサ。
そして、般若のお面でもしているのかと聞きたくなるような顔で、自分を見ることなく本の続きを読もうとしている男を睨む。
「何が、不満なんです‼ちゃんと、勇者補正も着ける、召喚後のサポートも万全って、何度も説明したじゃないですか‼」
「チートもあって、サポートされるなら、別に俺じゃなくていいだろ。」
なんで、俺が。
男はそう、吐き捨てる。
「あなたが、私達の世界に選ばれた、勇者だからです。今、私達の世界には、勇者が必要なんです‼それが、貴方なんです‼」
だというのに、貴方って人は‼
純白の翼が震え、室内に空気のうねりが生まれる。
室内の至るところに積み上げられている書籍や、無造作に置かれている雑貨などが、そのうねりの影響を受けてガタガタ、バサバサと音を立てる。彼女のことなど完全に無視して本の続きを楽しむ男の髪を大いに乱させたが、それでも変わらず男は本を読み続け、彼女に目を向けることもしない。
「いい加減に諦めればいいだろ。もう、勇者なら大量にそっちに行ってるだろ。」
それでも、読みかけのページがバサバサと動くのにはイラついたのだろう。ほんの少しだけ視線だけを向け、睨み付ける。
「えぇ、そりゃあ、もう!大っ量っですよ~。召喚されるべき人間が、大量に巻き込まれを作ってくれましたから‼」
「そうか。それは、大変だな。」
少女のつり上がった目が、テメェの事だよ、と言っている。が、男はそんなことに気づかない、いや気にも止めようとしない。
「27人。貴方のせいで、無関係な人が召喚されました‼」
「そうか。選り取りみどりで良かったな。」
キーッ
少女の絹を裂くような声が放たれた。
男と少女の出会いは、もう一年も前のことなる。ある暑い夏の日だった。
買い物に出た男が、両脇に建つ建物によって日差しが遮られた細い通りを歩いていた時のことだった。
男以外の人影の見えない通りのど真ん中に、普通ならばある筈の無いものが落ちていた。
剣だ。
作り物めいたものではない鈍い光を反射する、その刀身が人の背丈ほどはあるだろう、大剣が灰色のアスファルトの上に横たわっていた。
華美ではない、かといって粗野でもない装飾が施されたその大剣を前に、男は一度足を止めた。大剣を無言のまま見つめる。そして、大剣から出来る限りの距離を置いて、道路の両端にそびえている壁に背中を預け、すりずりと横滑りで通り抜けていった。落ちている大剣が後ろとなる位置にまで来ると、男は進行方向へと体の向きを直し、そのまま普通の歩き方となって、その場を後にしていく。
その顔に浮かんでいるのは、何事も無かったと言わんばかりの、無表情だった。
『うわっ、何だよ、これ?剣?』
男が少しずつ遠ざかっていく背後からは、声変わりしたばかりと思われる、暑さにも負けない元気の良さが伺える少年の声が聞こえてきた。
『なんで、こんなと…』
少年の遠くにまで響く声が不自然に途中で途切れてしまっても、なにやら昼中でもはっきりと見てとれる目映い輝きが背後から放たれても、男は振り返ることもなく、平然とした面持ちで早歩きで遠ざかって行く。
『ちょっと、待ちなさい‼なんで、拾わないのですか‼普通、拾うところでしょ‼』
スタスタと立ち去ろうとした男の前に立ち塞がったのが、純白の翼を羽ばたかせて降り立った少女だった。白磁の肌を少し青ざめさせ、焦った様子で男の前に降り立ち、何て事を、と悲鳴にも近い声を荒げる。
『その普通とは、何処の誰が定めた普通だ。』
大剣が落ちていた際には動かなかった男の顔に、流石に驚きの表情が浮かんだ。が、すぐに元の感動も驚きもない表情へ戻り、確実に人ではない少女の言葉にも突っ込みを入れた。
『ふぇっ…だ、だって、この世界のサブカルチャーでは今、そういうのが流行ってて…。これって、異世界に召喚されるよくあるフラグでしょ?』
『で、それで俺が拾わなくてはいけない理由とは?』
『お、落とし物を見たら、拾って交番に届けるのが、日本人だって…』
感情の見えない真っ黒な目に射ぬかれた少女は、そのあまりにも強い威圧感に無意識の内に涙を滲ませた。
『馬鹿か、貴様は。』
『へっ…』
『こんなものを持って、交番まで移動しろ、だと?』
男の目が、鋭く光った。
『ここから最寄りの交番までは500メートル。その間には、此処とは比べ物にならない人通りと車の行き来のある大きな通りがある。そんな場所まで、あんなものを運べと?』
『えっ、あの…』
『大きな声で言うことではないが、俺は生まれてこの方、体育の授業以外で体を動かしてことはない!そんな俺に、あんな見た目からクソ重たいと分かりきっているものを運べ、と?よしんば、引き摺って運べたとする。大通りまでの道のり、あれを引き摺ったことで刀身は酷く傷むだろう。もしも、交番に届け、持ち主が現れた時、それを咎められたらどうしろというのだ。きっと、持ち主は弁償しろ、などと言いだすだろう。修理費に、使い道は分からないが代用品が必要だ、などと言いだすかも知れない。なにより、ここは俺の地元だぞ!?ここ数年、まともな付き合いはしていないとはいえ、まだオムツをしていた頃からの顔見知りだって居るんだ。そいつらに、こんな見るからに痛々しいものを持って歩いている姿を見られてみろ。プーックスクスで済むか。いや、済むはずがない。それは噂になり、噂は噂を呼び、悪意もねじ込まれて、次第に取り返しのつかない事にまでなるだろう。親にも連絡が行くだろう。自分で食い扶持を稼ぐなら好きにしろ、と放任してくれている親だとはいえ、そんな頭の様子を疑うような姿を人前に晒したとあっては、忙しかろうが家に殴りこんでくるに決まっている。あぁ、それに、これを交番に持っていく間に警官に声をかけられるかも知れない。そうなれば、銃刀法違反を疑われるかも知れないな。そうなれば話を聞かれ、長い時間拘留されることになるかも知れない!』
何故、そんな危険を冒してまで、俺があれを拾わなくてはいけないのか!
それまでの無表情が一瞬にして、険しく鬼気迫ったものに変化した。
そして、その顔で少女へと睨みを聞かせるのだ。
少女が怯え、息を飲み、何も言い返すことが出来なくても、誰が責められようか。