六
涙が涸れるほど泣きまくった後にやってきたのは激しい虚脱状態だった。食欲も失せ、大好きなお祭りの準備にも身が入らない。つい先日までの松浦との楽しかった日々を思い出してはまた泣くを繰り返した。
ナナにとっては初めての本気の恋であり、当然ながら初めての失恋だったわけだが、わかったことは、フラれたからといってすぐには嫌いになどなれないのだ、ということだった。
十歳の差は予想以上に大きかった。それはナナのせいではないが松浦のせいでもない。うまくいっていたように見えて実際には噛み合っていなかったことに、自分だけが気づいていなかったのだ。それを「嘘つき」と責めてしまうなんて、子供だと言われても仕方がない。
ナナは机の上の小箱を開け、中に入っているたくさんのストローのバラを見つめた。そして彼とのことはすべて思い出に変わってしまうけれど、これだけはちゃんと形にして残したいと思った。
すでに頭の中でイメージはできている。まず茎の部分に極細の針金を接着剤でくっつけて補強し、白い紙テープを巻く。それを何個かまとめて、適当な大きさに切った薄手の水色の和紙で包む。根元の部分には細い青のリボン。
何度か失敗した後に出来上がった花束をアクリルケースに収めると、ナナは短い手紙を書いた。
『ストローのバラで花束を作りました。子供の私にはこんなことしかできないけど、精一杯の気持ちです。今までどうもありがとう。すごく楽しかった。 七々』
こんなものをあげたら嫌味だろうかとも思う。でも後味の悪い別れ方をしたままでは、松浦は図書館に足を向けることに躊躇を覚えるのではないかという気がした。カフェにはもう来てくれなくても、図書館はこれまでどおり利用してほしい。あれだけきっちり二週間ごとに通ってきていたのだから。
図書館以外で松浦に会える場所といったら仕事先しかない。カフェが閉まる月曜日、ナナは彼と偶然出会った中心街へ再び出かけた。
雨が降っているので荷物を濡らさないよう胸元に抱える。明日から七月に入るが梅雨前線はまだまだ居座るらしく、七夕の夜も晴れるかどうか怪しいところだ。
松浦の会社の事業所は駅向こうにある。でも普段は顧客の会社に常駐しているそうで、そのビルは繁華街の近くに建っていた。そこに到着すると、ナナはあの時一緒に名刺をもらった同僚の女性に電話をかけた。
「お仕事中申し訳ありません。いまビルの前にいるんですけど、松浦さんには内緒で会っていただけないでしょうか。五分だけでいいので」
さすがに直接渡す勇気はない。傘をさして雨の中待っていると、やがて彼女がビルから出てきてナナをロビーに招じ入れた。
「びっくりしたわ、いきなり」
「すみません。あの、これを松浦さんに渡していただきたくて」
差し出した小さな手提げ袋を女性は困ったように受け取った。
「松浦さん、もうこっちには来ないのよね。事業所に置いておいてもいつ来るか……」
担当する顧客が変わったということだろうか。それを尋ねると彼女は驚いて答えた。
「松浦さん転勤するのよ。聞いてないの? ……そうか、だからさっき『松浦さんには内緒で』って言ったんだ」
転勤……
その言葉は視界をぐらぐらと揺らし、足元の覚束ない感覚をナナにもたらした。
もうカフェには来てくれなくなるだろうという覚悟など、薄っぺらいものでしかなかったことを思い知らされる。それぐらい、彼がこの場所からいなくなるという認識は衝撃に等しかった。
「どこに転勤するんですか」
同僚女性はここからひどく遠い土地の名前を挙げた。ある顧客の新事業に関わるシステム開発のため、責任者に指名されての異動で、今は現地に行って先方と調整中とのことだった。
ナナの落胆ぶりに同情してか、彼女は憤慨気味に松浦を罵った。
「何も知らせずに行こうとするなんてね。あの男、ヘタレだわ。ナナちゃんにフラれるのが怖くて逃げたな」
「え?」
「『ナナちゃんと付き合ってんだ』って、そりゃもう嬉しそうだったんだから。でも急な転勤の辞令が下りて、どうしようって落ち込んでた」
松浦がナナと「付き合ってる」と言っていた……?
彼女の言葉は本当なのだろうか。だったら――だったら、直接彼に確かめたい。
「あの、松浦さんはいつこっちに戻ってくるんでしょうか」
「あっちの調整が終わり次第だと思うわよ。でも本人にもわからないんじゃないかな。向こうにもうちの事業所はあるから住むところは用意してくれるけど、他にもいろいろ雑事はあるしね」
同僚の女性は松浦が帰ってきたら連絡してくれると言って仕事に戻っていった。ナナは深く頭を下げると、再び傘を開き雨の中へと足を踏み出す。空を厚く覆う雲と、鬱陶しい雨。でも心には希望の光が差し込んでいた。
忙しいであろう彼に「いつ帰ってくる?」なんてメールを送って困らせたくない。今はただ待つことに決め、ナナはカフェのアルバイトに精を出した。
まもなく七夕ということで、図書館に飾られた笹の葉には願い事の書かれた短冊が日増しに増えていく。自分も何かお願いしようかと短冊を手に取り、ふと、以前に交わしたやり取りを思い出した。
織姫と彦星はなぜ他の恋人を作らないのか疑問に思うというナナを、「夢がない」と松浦は嘆いた。それに対し自分はこう反論しなかったか。
『だっていつでも会える人のほうがいいじゃないですか』
あの言葉を彼が覚えていたとしたら、転勤を言い出せなかったのはナナのせいだ。
離れていたって好きな人のことを毎日毎日考えていたら、他の人に目なんか向かないと今なら心から思えるのに。
早く帰ってきて。嘘つきって言ったことを謝りたいの。それから――
ナナはペンを短冊の紙の上に走らせ、祈るような気持ちで笹の葉に吊るした。
そして週が終わり、七夕を翌日に控えた日曜日。待ち人がついに現れた。