五
鍾乳洞に行った日から一ヶ月半が過ぎた。すでに梅雨の季節に入り、はっきりしない天気が続いていたが、ナナの心はいつも浮き立っていた。好きな人と毎週会っているのだから無理もないと思う。
土曜か日曜、カフェのアルバイトが終わる時間に松浦はナナを迎えに来る。食事をするのが基本だが、簡単に済ませて映画を見たりボウリングをする日もある。
先日は友人の言葉を覚えていた彼に、「どんな風にシャウトするのか聴きたい」と言われてカラオケに行った。『天城越え』を熱唱して得た反応は涙が出るほどの大笑い。少しむくれたけど、彼が尾崎豊の『I LOVE YOU』をとても素敵に歌うものだから、機嫌はすぐに直った。
「でもさあ、ナナちゃん高校生の時から『天城越え』歌ってんの? 渋いよなー」
「カラオケ行くとお母さんそればっかりだから、覚えちゃったんだもん」
「家族でカラオケ行くの? 仲いいんだね」
他に文化的な趣味がないだけのような気がする。その代わり、県外からも観光客が大勢やってくる、年に一度の祭りにかける情熱は半端ない。
「有名だもんなあ。ナナちゃんも参加するの?」
「するする。お祭りが近づくとね、地元民のDNAが騒ぐの」
じゃあ今年のお祭りは絶対見逃せないね。松浦はそう言って笑った。
そして。彼とは一度だけキスをした。
休みをもらった土曜日、レンタカーでドライブに行った帰り。自宅の前に停めた車の中で、見つめ合っていたら自然に唇が重なった。次第に激しくなって大人のキスに変わり、キス自体が初めてだったナナは無我夢中で彼に応えた。
「……好き」
「うん。俺も」
好きな人の腕の中。今までの人生で一番幸せな時間だった。
――付き合ってるって思っていいんだよね。
交際をきちんと申し込まれたのではないが、想いを通じ合わせたのだから同じことだ。そう結論づけると、キスの場面を何度も脳裏で再生しては幸せを噛み締めた。
その日以来、松浦は一度もナナに触れていない。そうそう二人っきりになるわけではないから仕方ないのだけど、そろそろまたしたいな、なんてね。
今日は日曜日。仕事のあとに彼と会う約束をしているから、ちょっとお願いしてみようか――
この日作ったバラは会心の出来だった。すっかり腕を上げたナナに、ストローのバラの師匠も惜しみなく賞賛を送ってくれる。
「上手になったなあ。もう俺を超えたんじゃない?」
「えへへ」
「花束作れるぐらい集まった?」
「うん。でも失敗するかもしれないからもっと作る」
松浦は微笑んで「そうか」と言い、それから手元に置いてあった携帯を取り上げてちらと画面を見た。
「まだ時間あるな。どうする、どこか行く?」
すぐに思い浮かんだ場所があった。二人きりになれるところ。でもここではちょっと口に出しづらい。
「行きたいところがあるんだけど……」
「どこ?」
「お店出てから言う」
湿度の高い夜だった。肌にまとわりつく空気の不快さに、松浦は外に出たとたんげんなりした顔になった。
「あっつー。ナナちゃんの行きたいところってクーラー効いてるよな?」
「それは自分に訊いて」
「え?」
「松浦さんの部屋に行きたい」
瞬時に強ばった彼の表情。てっきり喜んでくれると思っていたのでナナは逆に驚いた。
「お家に行ったらだめ……?」
「……だめってわけじゃないけど、今から行ってもとんぼ返りだよ。俺、明日朝早いし」
ナナは明日休みだが、彼には仕事があるのだ。わがままは言えない。
じゃあまた今度。
そう口にすると松浦はわずかに微笑み、「送るよ」と一言告げて踵を返した。その後をついて歩きながら彼の示した意外な反応を思い返す。
部屋に行きたいというのはそんなに困った願い事だろうか。
――彼女だったら普通だよね。
次に会ったらもう一度頼んでみようとナナは心に決めた。
そのチャンスはすぐにやってきて、翌週の土曜に松浦とデートの約束をした。しかも休みを取ったので昼間から会えるのだ。
どんな服にしようかな。ナナはウキウキしながらその日を待った。
「……なにそのカッコ」
約束の土曜日。待ち合わせ場所に現れるなり松浦は非難めいた言葉を吐いた。時間をかけて選んだコーディネートだったので、失望が自然とナナの口をついて出てくる。
「ホットパンツ、可愛いと思ったんだけど……」
「短すぎるんだよ。盗撮するヤツなんかいくらでもいるんだぞ。女のほうで自衛すべきなんじゃないの?」
それは論理が逆だと思った。盗撮するほうがおかしいのであって、どうして女の側が自己規制しなければならないのか。
でもケンカはしたくない。ナナは「次から気をつけるね」と松浦の意に沿った答えを返した。
それからはいつ切り出そうかと彼の様子を窺っていたが、どうもいつもと違う。なんだかイライラしているような、他のことに気を取られているような。
――会社で何かあったのかな。
だったら気の乗らないデートをするより、家でリラックスするほうが良いのではないだろうか。本を読んだりのんびりしたかったらすればいいし、何があったのか話したければこちらは喜んで聴く。
松浦の自宅に行く理由をこじつけているだけかもしれないが、恋人として彼を心配するのは当然のことだと開き直った。
「ね、今から松浦さんの部屋に行ってもいい?」
突然言い出したせいか彼はひどく驚いた。でも土曜日の午後なんだし、部屋に行きたい理由を話せばこの間のように断られはしないだろう。
「たまにはおうちでゆっくりするのも、」
「自分がどんな格好してるかホントにわかってんの?」
松浦は最後まで言わせなかった。苛立ちも露わにきつくたしなめる言葉をぶつけてくる。
「そんなんで男と二人きりになったら、襲ってくださいって言ってるようなもんなんだよ?」
「……松浦さんだったら襲われてもいいもん」
また服装のことで咎め立てをされた悔しさにナナは言い返した。それに強がったわけでもない。彼とはいずれそういう関係になるのだと思っていた。
「……どうしてそんなにうちに来たいの?」
大きく溜息をついて彼が尋ねる。
「彼女が彼氏の部屋に行きたいって思ったらおかしい?」
もはや家でリラックス云々のこじつけも忘れ、ナナは堂々と訊き返した。
――そうよ。付き合ってるんだもん。好きな人の家に行って何が悪いの? どんな格好していようが二人きりなら構わないじゃない。
ところが松浦は視線を避けるように顔を背けた。しかもこちらの求める答えを口に出そうとしない。その様子はナナの心に突如として不安を生じさせ、今まで疑ってもみなかった問いを吐き出させた。
「……私たち、付き合ってるんだよね?」
それでも彼は答えなかった。
「だって、好きって言ったし、……キスだってしたのに」
これまでの人生で一番の幸せと感じたひととき。あれが嘘だったなんて思えない。
しかし松浦はうるさそうに顔を上げて言った。
「キスぐらいで大げさに言うなよ。だから子供だって言うんだよ」
子供……
信じていたものが音を立てて崩れていき、ナナの唇の間からこぼれ出ていった。
「十年なんて小さいって言ったくせに」
次第に厚くなっていく涙の膜で視界が覆われる。初め歪んでいたように見えた彼の表情も、もうぼんやりとしてわからない。
「嘘つき!」
その一言を松浦にぶつけるとナナはくるりと背を向け、ただ彼から遠ざかりたい一心で走り出した。