四
ナナには四つ年上でデパート勤務の姉がいる。紳士服及び紳士雑貨売り場での接客販売を担当して五年、今ほどその職歴をありがたいと思ったことはなかった。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」
松浦との食事から帰宅するなりナナは姉の部屋に飛び込み、いったい何事かと驚く彼女に紅潮した顔で質問をぶつけた。
「三十二歳の男の人って何プレゼントしたらいい?」
「……三十二歳限定かい」
姉は冷静にツッコミを入れると、まずはナナとどこまでの関係なのかを問いただした。
すでに彼氏なのか。付き合う一歩手前なのか。今からアプローチをしたい相手なのか。
「そっ、そういうんじゃないよ! ただご飯ごちそうになったからお礼したいだけ。誕生日プレゼントも兼ねて」
「だったらブランドもののタオルでもあげときなさい」
「タオル……」
その時ナナが感じた不満を姉は正確に見抜き、少々きつく苦言を呈した。
「それじゃ物足りないって思うってことは、あんたにとってはただのお礼じゃないのよ。プレゼントって意思表示なの。十歳も上なんでしょ? あんたの気持ちをもらって相手がどう思うかもちゃんと考えなさい」
姉に訊けばきっと素敵なプレゼントのアイデアを出してくれるはず。そんな安直な考えは今やズタボロになって、松浦に誘われ有頂天になっていたナナの気分まで腐らせた。
『A市にある鍾乳洞、行ったことある?』
ゴールデンウイーク中の休みの日を確認すると、彼はそう言って遠出を提案した。それは県境近くにあるわりと大きな鍾乳洞で、地元の人間なら一度は訪れるだろうという有名な場所だ。ナナも子供の頃家族と行ったことがある。
『俺、こっちに転勤して三年になるんだけど、まだ一度も行ってないんだ。ゴールデンウイーク中は暑くなるっていうしさ、涼みに行かない?』
『松浦さん、暑がりですもんね』
場所がどこであろうとナナは喜んで受け入れただろう。ストローのバラのコツを教えてもらうだけでも充分なのに、日帰り旅行に格上げになったのだから。
お返しに何かプレゼントしたい。
それは純粋なお礼の気持ちのはずだった。でも姉に下心を指摘され、ナナには返す言葉がなかった。
――本当は私、期待してるんだ。何かが始まるんじゃないかって。ううん、実はもう始まっていて、だから彼は誘ってくれたんじゃないかって。
でもやっぱりそんな簡単にはいかないのかな。
姉に言われた「十歳も上なんでしょ」という言葉が胸に突き刺さっていた。
最初にどこまでの関係なのかと訊いたぐらいだから、決してあり得ないこととは思っていないのだろう。しかし心理的になかなか超えられない壁であることも知っているのだ。
『あんたの気持ちをもらって相手がどう思うか』
ナナは脳裏に浮かぶ松浦の映像に向かって問いかけた。
――私の気持ちをもらったら迷惑……?
電車とバスを乗り継ぐこと二時間、鍾乳洞前の停留所に降り立ったとき、日はすでに高く昇っていた。洞窟入り口の前にある広場には、土産物屋や食事処の並びから少し離れて休憩スペースが設けられている。ちょうど空いていた木陰の席に腰を下ろし、ナナは持参した弁当を広げた。
「すごいな、これ全部ナナちゃんが作ったの?」
「おにぎりは私ですけど、おかずはお母さんに手伝ってもらっちゃった」
ぷっと吹き出した松浦は「正直だね」と言い、卵焼きを摘んで口に放り込んだ。
「ん、美味い! お母さん最高!」
「それは私が作ったんです!」
口を尖らせるナナを可笑しそうに見つめ、不意に何か思い出したように表情を変える。
「そういえば昨日カレンダー見てて思ったんだけどさ。ナナちゃん、七夕が誕生日なんだよね」
「そうですよ」
「もしかしてナナって名前、漢字で『七々』って書くんじゃない?」
あ、やっと気づいたんだ。
「松浦さん、安定のハワイ時間ですね」
お返しとばかりにすまして答えると、彼は徐ろに手を伸ばし、ナナの額を人差し指で軽く突いた。
「だんだん生意気になってくるなあ」
今日はずっとこんな調子で松浦と会話している。友人たちとのお喋りとはもちろん違うけれど、とりたてて年齢差を感じることもない。
それはナナだけなのだろうか。彼が気を遣ってこちらに合わせてくれているのだろうか。
――十年の差はそんなに大きいものなの?
なかなか弁当に手を付けないナナに松浦が言う。
「ナナちゃんも食べなよ。あ、それとも毒でも入れた?」
「入れてませんよっ」
一言返しておにぎりにかぶりつき、口いっぱいに頬張った。
「美味しい! 自画自賛だけど!」
彼の指先が触れた部分が熱い。まるでほんの一瞬の感触を忘れまいと、細胞がフル活動しているみたいだった。
鍾乳洞に足を踏み入れるや、冷やっとした空気が身体にまとわりついた。外とはまるで別世界であるかのような低い気温である。
「うおー、涼しい」
「寒いぐらいですよ」
二人とも上着を取り出して身につけ更に中へと進む。時折頭をぶつけそうなほど低い天井をくぐっては、せり出した奇怪な形の岩に感嘆の声を上げた。
子供の頃に来たときはただ洞窟探検をするのが楽しかった。でも今、ライトアップされた鍾乳石や地底湖は幻想的なまでの美しさでナナを圧倒し、気温とは関係なくまさに別世界だと思わせた。
「ロマンチックですね」
「お、ナナちゃんの口からロマンチックなんて言葉が出るとは」
「もう、仕返ししなくたっていいでしょ」
二人は更に先へ進み、この鍾乳洞のハイライトとも言うべき巨大な鍾乳石の下にやってきた。何万年もかけて形成された自然の驚異。それを見上げながらナナは大きく溜息をついた。
「気が遠くなりそうな時間ですね。数万年でこれってことは、百年ぐらいじゃ全然小さいのかな」
「一センチに七十年っていうから……こんなもんか」
松浦の親指と人差し指の間にできた小さな空間にナナはまた溜息をつく。百年でたったこれだけ。
「……じゃあ、十年だったら?」
それは口の中で消えてしまうほどの呟きに近い問いかけで、静かな洞窟内でなかったら彼の耳には届かなかったかもしれない。
松浦は二本の指を近づけて、あるかないかのわずかな隙間を作った。
「こんなもん」
「……そんなに小さいんだ」
「十年なんてちっさいちっさい」
目の奥に感じる熱さを気取られないようにナナは笑顔を作った。でもちょっと無理やりだったから、泣き笑いみたいな顔になったかもしれない。
「行こっか」
込み上げてくるものを抑え、出口に向かう彼の後を追う。洞窟を抜けて外の光を浴びたとき、もう年齢のことで悩むのはやめようと思った。
鍾乳石と人間のタイムスケールを同じに考えてはいけないけれど、ストローのバラの人がそう言うのなら、自分もそうだと信じられる。
出口の脇にある鍾乳洞資料館を見学していると、松浦が「こんなものがあるよ」とナナを呼んだ。来館者が自由に所感を書き込める分厚いノートだ。『すごくきれいだった』とか、『涼しかった』とか、『お腹がすいた』なんてのもある。
彼はボールペンを手に取ってその最後に何やら短く書き入れた。
「俺たちがここに来た印」
何てことはない、今日の日付と名前を書いただけである。でもその名前を見てナナは思わず吹き出した。「これなら他の誰にも間違えようがない」というそれは。
『マツケン&バナナ』
もし、もしもまた二人でここに来ることがあったとしたら、このノートのページをめくって彼の字を探すだろう。十歳の年の差は超えられる壁だと、信じることにした日だったと思い出すだろう。
――そんな未来が来るといいな。
その日の夕食の席でナナは再びストローのバラに挑戦した。結局上手には作れなかったけれど、悲観的にもならなかった。
「じゃあまた会おうか」
自分の期待する未来が開けていくかもしれない予感を抱いて、ナナは大きく頷いた。