三
その週末の日曜日はゴールデンウイークの二日目で、気のせいか図書館の利用者がいつもより少なかった。旅行に出かける人が多いのかもしれない。
カフェは図書館の休館日に合わせて店を閉めるため、祝日の続くゴールデンウイークにはほぼ毎日営業する。ナナは飛び石で二日ほど休みをもらっていたが、予定は何も立てていなかった。これから暇な友人を探すのもなんだか面倒くさい。
この日ナナは休憩時間になるとひっそりとした書架を回り、重厚な古い書物の群れを眺めた。いつもはたいてい雑誌の最新号を読むのだが、今日はなんとなくそんな気分になれない。
新聞社年鑑が並ぶ棚でナナはふと立ち止まった。背表紙の年号を指で追い、自分が生まれた年で止める。でも棚から引き出すでもなく、そのまま更に古い方へと指を動かした。
彼と自分の年の差は何冊分になるんだろう。載っている統計データを全部頭に詰め込んでも、追いつくことはできないのかな。
「何か調べ物?」
突然かけられた小さな声に驚いて振り向く。そこにはストローのバラの人が立っていて、優しげに微笑みを浮かべていた。
「えっ? な、なんで……!」
二週間に一度のローテーションに従うなら今日は来ないはずなのに。
唇の前に人差し指を立てて彼は「しっ」と言い、ゆっくり近づいてきた。そして顔を寄せ、声を潜めてナナに尋ねた。
「仕事終わるの何時?」
「え、あ……六時です」
「よかったら一緒にご飯食べない?」
ええっとまた高い声を上げそうになって、とっさに口を押さえる。すると彼はこちらの慌てぶりをクスッと笑い、更に顔を耳元に近づけて言った。
「この間、ナナちゃんに失礼なこと言っちゃたから」
こんなに近い距離で囁かないで……!
バクバクし始めた胸に手を置いてナナはなんとか舌を動かした。
「松浦さんは悪くないです……あの……私が子供っぽいのは……本当のことなので」
「子供なんて思ってないよ。でも『あの言い方はないよ』って、あの後あいつらにすごく怒られちゃってさ。お詫びさせて?」
「お詫びなんてそんな」
食事なんて困る。ストローのバラの人のままでいいって思ったばかりなのに。きっと、もっとこの人のこと知りたいって思うようになる。
すんなりと承知しないナナに、松浦は面目なさそうな表情で頼んだ。
「実を言うと今日俺の誕生日なんだ。一人で食事するの味気ないから、ナナちゃんが付き合ってくれると嬉しい」
「誕生日? でも……私でいいんですか」
「ナナちゃんがいいんだよ」
笑顔でそんなこと言われたら。断ることなんかできない。
六時に迎えに来ると言って去っていくストローのバラの人を、ナナはふわふわと天にも昇る心地で見送った。
「今日はガッツリ肉を食いたい気分」の松浦に連れられて入ったのは和牛肉専門のステーキハウスだった。和牛と言えば高級肉だが、店はカジュアルな雰囲気で、普段着に毛が生えたような服を着ている身としてはありがたい。
驚いたのは、テーブルに着いてから松浦が「ナナちゃん、肉食べられる?」と訊いたことだった。ナナは一瞬呆れ、苦笑しながら問い返した。
「あの……ここまで来てそれを訊くんですか?」
「俺ね、気がつくのが遅いってことがよくあるんだ。いい年して恥ずかしいんだけどね」
「松浦さん、今日でいくつになったんですか?」
わずかな間を置いて彼は「三十二」と答えた。
十歳差か……
それは実際にはどれぐらいの差なのだろう。すでに来た道を振り返ればいい松浦には、ナナがどんなに子供かということがわかるけれど、ナナにとってその行程は未知であり、彼がどれくらい大人なのかは想像すらできないのだ。
「どれもこれもそそられるなー、うーん、どれにしよ」
真剣に悩んでいる様子に微笑んでナナもメニュー表を覗き込む。黒毛和牛とか霜降りなどの単語が目を引く一方、気になる値段はというと、さすがにファミレスのステーキセットなどとは比べ物にならない金額が並んでいる。
……いいのかな。彼の誕生日なのに。こっちは何も用意してないのに。
結局ナナが選んだのは一番値段の安い料理だった。注文を復唱して確認した店員が去ったあと、松浦はお見通しといった目でそれに決めた理由を当ててみせた。
「こんな店に連れてきて逆に遠慮させちゃったかな」
「えっ、いえ、そういうんじゃ……」
「別に若い女の子にいいところ見せようとか思ったわけじゃないんだ。一緒に美味しいものが食べたかっただけ」
一緒に美味しいものが食べたかった。
その言葉にはきっとこっちが意識するほどの意味なんかない。
心が跳ねようとするのを押さえつけるため、ナナは自分にそう言い聞かせた。そして一年に一度の特別な日の食事相手として選んだことを後悔させないよう、楽しかったと言ってもらえるような夜にしようと思った。
まずは乾杯と、先に運ばれてきたワインを互いのグラスに注いだ。そのとき「ナナちゃん、ワイン飲める?」と松浦がまたしてもタイミングの遅い確認をし、ナナは軽口を叩いてからかった。
「松浦さんの体内時計って絶対遅れてますよ。毎朝ネジ巻かないと」
「デジタルだから正確だよ。ただハワイ時間に合わせてるだけ」
二つの笑顔の間でグラスが軽く音を立てる。
「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
なんだか夢みたい。ストローのバラの人にお祝いを言うなんて。
グラスを口に近づけながら憧れの人を盗み見る。アイスコーヒーを飲む時とは違う表情でワインを味わう彼。すると伏せていた目がふいにこちらを向いて二人の視線が合わさった。
ナナは慌てて目を逸らし、ワインを口に含んだ。店員に勧められたそれは飲みやすかったけれど、バツの悪さをごまかすためとはいえ、グビグビ飲んだのはみっともなかった。
何やってんの、私。こんな不審な態度を見せたら、彼だって困るじゃない。
しかし松浦は何事もなかったかのように、グラスを置いたナナに問いかけた。
「ナナちゃんは今年二十二って言ったっけ。いつが誕生日?」
「七月七日です」
「七夕かあ。ロマンチックだね」
意表を突かれて押し黙ると、彼は「なに?」と怪訝そうな顔になった。
「男の人からロマンチックなんて言葉を聞くとは思わなかったので……」
「男はみんなロマンチストなの」
決めつけるように言って、女のほうがずっと現実主義だよなあ、と付け加える。
「そうかもしれないですね。私なんて、なんで彦星と織姫は他の恋人作らないのかなって思っちゃいますもん」
「それは夢がない! なさすぎる!」
「だっていつでも会える人のほうがいいじゃないですか」
松浦は一瞬驚きの表情を見せ、それから困ったように笑った。
「――そうだね」
和牛ステーキはとろけるほどに柔らかく、ナナが一口食べるそばから感激の言葉を漏らすのを松浦は楽しそうに眺めた。でも何と言ったらいいのだろう、目はこちらを見ているけれど心は他の場所を向いている、そんな感じを受けた。はしゃぎすぎて引いてしまったのだろうか。
どうしよう。こんなこと頼んだらもっと引かれるかな。
願い事を口にするかしないか、食後にアイスコーヒーが運ばれてきてもナナはまだ迷っていた。しかし彼がストローに手を伸ばすのを見た瞬間、とっさに自分の手を重ねて止めた。
突然の行動に目を丸くする松浦。彼を困らせるのを覚悟の上でナナは口を開いた。
「松浦さん、お願いがあるんです」
「なに?」
「ストローのバラの作り方を教えてくれませんか」
人間の眼差しとは瞬間にこうも変わるものかと思う。ストローのバラの人のそれは、驚きと歓喜、それから困惑へと慌ただしく色を変えた。
「……気づいてたんだ」
「はい」
「でもあんなの、ただのストローの袋だよ。ゴミと同じだ」
「ゴミじゃありません!」
あんなに繊細な花びらを作れる人が、どうしてそんなこと言うの。
「初めて見た時にすごいって思ったんです。それからずっと集めてるんですよ?」
「集めてるの? あれを?」
ナナははいと大きく頷き、たくさん作って花束にしたいのだと伝えた。
「きっと可愛いバラの花束になりますよ」
松浦は言葉もなくこちらをじっと見つめると、やがて一言「参ったな……」と呟いた。そしてストローを手に取って端を切り落とし、慎重に中身を抜き出した。
「別に難しくないよ。すぐにできるようになる」
「教えてくれるんですか?」
「ナナちゃんがそんなに言うんなら」
「ありがとうございます!」
ナナもストローを抜き、松浦が説明しながら実際に作るのを真似し始めた。ところが向かい合わせに座っているためどうもわかりづらい。
「そっち行っていい?」
え、と思う間もなく彼が四人掛けのテーブルを回って隣にやってきた。壁側のソファ席なので距離を縮めようとすればいくらでも縮まる。肩や腕が触れるぐらいに近づかれて、ナナは緊張のあまり手がこわばった。
バラは要するに、袋を少しずつ折りながらくるくると巻いていくのだが、折る角度を誤るとガタガタの花びらになる。両端に残した部分を最後に一つにし、細くねじってこより状の茎を作ると、出来上がったのはなんとも不格好なバラの花だった。
「……私ってやっぱり不器用なのかも」
「初めてなんだから仕方がないよ。何度もやればそのうちきれいに作れるようになる」
松浦はそう言って慰めてくれたが、ナナには先行きが思いやられた。これでは花束を作るまでに何十杯もアイスコーヒーを飲むことになりそうだ。
「……また今度、教えてあげようか」
少しためらいがちなその声に驚いて隣を見上げた。すぐ近くでこちらを見つめる二つの瞳に目が吸い寄せられる。
今度? 今度って、それって……
確信が持てず、自問さえ形にすることができないナナに、ストローのバラの人は先にその答えとなる問いを唇の間から滑らせた。
「ゴールデンウイーク、休みはある?」