二
月曜日は市立図書館の閉館日なので、当然のことながらカフェも定休日となる。でも朝寝をしたりダラダラ過ごしたりしたくても、家事をする母親に追い立てられてしまうことが多い。ゆっくり羽を伸ばすなど至難の業だ。
この日は午後になって母に用事を言いつけられ市の中心街へと赴いた。目的地に着くためには繁華街を抜けていくのだが、近くにはパチンコ店やゲームセンターがあって、昼間から出入りしているような人がふらふら歩いていたりしてあまり好きではない。遠回りしようかと迷ったが、新しい靴を履いたせいでかかとにできた靴ずれが、近道を取るほうを選ばせた。
足を庇いながら歩いていると、いきなり馴れ馴れしく話しかけてきた男がいる。
「ねえねえ、何してんの?」
全身これチャラ男、といった印象のその男は、ナナが無視しているにもかかわらず話し続けた。
「買い物? よかったら付き合うよ」
どうして見込みがないってわからないかなあ。こんなに察しが悪いのでは、この男のナンパ成功率は相当低いに違いない。
内心で値踏みするぐらいの余裕がこの時点ではまだあったが、一向に相手にされないことに腹を立てた男がいきなり腕を掴んだ時には、さすがにビクッとして声を上げた。
「は、離してください!」
「ちゃんと口利けるんじゃん。こっちが話してんだからさあ、返事ぐらいしろよ」
男はナンパを諦めたのか、代わりにインネンをつけ始めた。たぶんゲームかパチンコで金をすって面白くなかったのだろう。そんなことで八つ当たりされてはたまったものではないが、今や凄みを利かせて迫ってくる男にどう対処したらいいのかわからず、ナナは恐怖心を募らせた。
どうしよう。謝ったら許してくれる? でもこっちが悪いことしたわけじゃないのに。
そのとき影が差しかかって、ナナとインネン男との間に太い声が割って入った。
「この子嫌がってるだろ。離してやれよ」
突然現れた男性にナナは目を丸くした。袖を肘までめくったワイシャツにネクタイと、初めて見る姿だったけれど、間違いなくこの人は。
――ストローのバラの人だ……!
こんな場所で会ってしまった偶然にナナは状況も忘れてぼうっとした。一方、インネン男のほうは咎められても開き直ることに決めたようである。
「てめえは関係ねえだろうが。引っ込んでろ」
しかしストローのバラの人は暴力的な言葉の脅しに屈することなく、背後を親指で指し示した。少し離れた場所にスーツを着た男性と女性が立っていて、女性のほうは携帯を耳に当てている。
「あれね、俺の仲間。今警察に電話してるところだけど、どうする?」
このまま残ってやってきた警察に事情説明するのか、それとも。
インネン男は警官と知り合いになるほうは選ばず、今も昔も変わらない捨て台詞を吐いて足早に去っていった。最初から最後までテンプレな男である。
「大丈夫?」
ストローのバラの人が優しくナナを気遣う。その声は緊張の糸を切り、目から涙を溢れさせた。
「あーあー、泣かせちゃって」
「俺が泣かせたんじゃない!」
「バカね、わかってるわよ。怖かったのよね?」
近寄ってきた彼の連れの女性がそっと肩に手を触れた。ナナは涙を拭きながらうんうんと頷いた。
急いでいないんだったら、一緒にお茶していかない?
女性に誘われるがまま彼らと近くの喫茶店に入った。少し落ち着きたいと思ったし、またすぐ一人になるのは怖かったということもある。彼女もそれをわかっていて気を遣ってくれたんだろう。
でも四人掛けのテーブルの向かいにストローのバラの人が座ったとき、そんなのは口実で、本当はこの人と一緒に居たかったんだということに気づいた。
彼はナナが靴ずれを起こしていると知るや、三人を先に行かせ、自分はドラッグストアで靴ずれ用の絆創膏を買ってから喫茶店にやってきた。「これ使いなよ」という台詞とともにテーブルの上に箱を滑らす。それを見たとき、ナナの胸がきゅんと疼いた。
「あ……ありがとうございます」
どうしよう、どきどきしてきた。
洗面室で絆創膏を貼りながらナナはふと思う。そういえば「アイスコーヒーください」「どうも」「ごちそうさま」以外の言葉を彼から聞くのは初めてだ。
テーブルに戻ると注文した飲み物はもう運ばれていた。二つのホットコーヒーと二つのアイスコーヒー。彼に倣って同じ物を頼んでしまったのはある期待をしていたからなのだが、彼らが休憩中と聞いて、それでは無理は言えないと残念だったが諦めることにした。
三人はシステム開発会社に勤めるシステムエンジニアで、煮詰まってくると時々こうしてリフレッシュしにくるそうだ。それぞれの名刺までもらってしまいナナは恐縮したが、ストローのバラの人の名前を知ることができるなんて、自分は一年分の幸運を今日使ってしまったんじゃないかと思った。
松浦賢司。それが彼の名前。
同僚からは「マツケン」と呼ばれているそうで、これは小学校から変わらないあだ名らしい。
「何でかなー、『マツケン』とか『マエケン』とか、こういう名前だとたいてい同じように呼ばれるからつまんないんだよね。それに比べて『バナナちゃん』の可愛いこと」
松浦がにやにやと笑い、ナナは一瞬で真っ赤になった。
――やっぱり昨日聞かれてたんだ。
「なに、『バナナちゃん』て」
「彼女の名前」
「えっ、バナナって名前なの!?」
ナナは焦って「ちがっ、違いますっ!」と叫んだ。
「それはあだ名で、本当はナナって名前です」
「ナナだから『バナナちゃん』なの?」
「というか……」
たぶん笑われるんだろうな。内心で溜息をつきつつ、自分の苗字が大場であると告げる。
「ひらがなで書くと『おおばなな』で、『おお、ばなな』って読めるから……」
なかには「オウ、バナーナ!」と悪ノリしてネイティブみたいに発音する級友もいた。ついでにそのことも教えると、予想どおり三人は爆笑した。
「そっ、それで『バナナ』だったのか! 俺、てっきり今流行りのキラキラネームの先駆けなのかと思ってた」
「そんな名前つけたら一生親を恨みますよ! 今だって、なんでもっとよく考えてくれなかったのかって思ってるんだから」
不満を口にしたナナを松浦は優しくなだめる。
「そんなことないよ。『ナナ』ってすごく可愛い名前だよ」
胸がどきんと大きく鳴って、それまで淡く色づいているだけだった何かが色彩を強めていった。
私、たぶん、この人のこと――
ところが今まさに自覚しかけたそのとき、松浦がしかつめらしい表情で口を開いた。
「でもさ、学校はサボっちゃだめだよ。ちゃんと行かないと」
学校? ――何言ってるんだろう。
きょとんとしたナナを襲ったのは強烈な追い打ちだった。
「高校生が昼間からこんなところにいたら、補導されちゃうよ?」
実年齢より若く見られれば普通は嬉しいものだ。でも相手と状況次第でいくらでも変わることをナナは初めて知った。
自分の顔つきは確かに少し幼いかもしれないが、見た目を決めるのはそれだけではない。服装や全体の雰囲気も判断材料となるだろう。ナナだって年相応に見られるよう、それなりに気を遣ってきたのに。
――高校生だって。
『ごめん。最近の高校生って化粧してるから、よく年がわかんなくて』
松浦はそう言って謝ったが、ナナにとってどれだけショックだったかは想像さえもしていないだろう。若く見えると言われて怒る女はほとんどいないのだから。
しょせん高校生程度にしか見られていないという事実は、胸の中で膨らみ始めていた想いをぺしゃっと潰した。でも考えてみれば当たり前なのだ。あちらはナナよりずっと大人で、周囲にいるのも大人の女性だ。友人、同僚、――そしてたぶん恋人も。
その存在を考えた時にチクリと胸に走った痛みをナナは無視した。松浦賢司という本名も、マツケンというあだ名も、システムエンジニアという職業も、すべて忘れることにした。
ストローのバラの人はやっぱりストローのバラの人のままでいい。二週間に一度やってきて、アイスコーヒーを頼んで、気まぐれに小さなバラをストローに挿していく。
――ただそれだけでいいんだ。