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 ――あ、来た。


 店の入口に彼が現れたのを目敏く見つけると、ナナは頬を緩ませた。早くも半袖シャツを身につけたその姿はいかにも涼しげで、まるでそこだけ一足早く夏がやってきたみたいだ。

「いらっしゃいませ」と近づき、答えはわかっているけれど、マニュアルどおりの質問を口にする。

「お一人様ですか?」

「はい」

「あちらのお席にどうぞ」

 指し示したのは窓際の二人がけのテーブルで、店内では上席の一つだ。そろそろ来るかなと思って空けておいたのだが、ナナがこんな特別待遇をしていることを、彼はもちろん店の者も誰一人として知らない。


 お冷やとおしぼりを持って行くと、テーブルにはいつものように本が二冊。半年ぐらい前に話題になった小説だが、予約がいっぱいで長いこと借りられなかったと聞いている。今日やっと順番が回ってきたのだろうか。

 ナナがお冷やとおしぼりを置くのを待って彼はいつもの注文を告げた。

「アイスコーヒーください」

「かしこまりました」

 一礼してテーブルを後にする。二週間ぶりの来店で心はすでに期待でいっぱいだ。

 ――今日は作ってくれるといいな。

 


 ナナが市立図書館に併設のカフェでアルバイトを始めたのは、年が明けて間もない頃だった。地元の短大を卒業後就職した会社が一年もたたないうちに倒産して、何もしないでいるよりはと求人に応募したのだが、思ったより居心地が良くて、しばらく続けてみる気になった。

 何より場所が場所だけに静かだ。ガラスの壁面の向こうには書架が並び、静謐のなかで人々は本を探し、立ち止まり、手に取る。

 カフェにやってくるのは、貸出手続きを終えた本を早速読もうという人、勉強や調べ物の合間に休憩する人、図書館は利用せず飲食だけが目的の人と様々だが、場所への敬意を払ってか、騒ぐような客は滅多にいない。飲み物で一息ついたり、ひとときのあいだ本の世界に浸ったりすると、静かに店を出て行くのだ。


 彼もまたそんな利用客の一人だった。貸出期間である二週間ごとに来店しては借りたばかりの本をしばらく読んでいく。年齢は三十代前半だろうか、少し地味な感じだが、カッコいいと言えないこともない。

 面白いのは太っているわけでもないのに暑がりらしく、冬場でも決まってアイスコーヒーを頼むことだ。一口飲んだあとの表情は、まるで「あー、生き返った」と言ってるみたいにスッとしていて、そんなに暖房が効いてるかな、と思うほどだった。

 でもそれだけなら特に目立つ特徴というわけでもなく、その他大勢の客の一人として、ナナの心に引っかからずに素通りしていっただろう。二週間に一度の来店を楽しみにするようになったのは、彼がテーブルに残していったある物が原因だった。



「バナナ」

 その声はそれほど大きくなかったが、周囲の注意を引くには充分だった。読書やスマホいじりを中断してふと顔を上げ、また元に戻す数人の客。ナナは気後れを感じながら聞き覚えのある声の主を振り返った。

 高校時代の友人が笑顔で手を振っている。気づかなかったのは他のスタッフが接客したのと、彼女もずっと下を向いて本を読んでいたからだろう。でも久しぶりで懐かしいのはわかるが、何もこんな場所で、当時の愛称で呼ばなくてもいいではないか。

 気遣いのなさは少々気に障ったが友人は友人である。仕事中なので一言挨拶だけと思い、ナナは彼女のもとに近づいた。


「久しぶりー。なに、ここでバイトしてたの?」

「うん。まだ四ヶ月くらいだけど」

「バナナがウエイトレスなんて冗談かと思ったよ。化粧もしちゃって、ずいぶん化けたねー。あ、ほんとにバナナみたい」

 一応声はひそめているが、もともと静かな店内なので周囲には丸聞こえである。ナナは友人の耳に口を近づけ、ヒソヒソ声で諌めた。

「ちょっと、こんなとこでやめてよ! もう仕事に戻るからね!」

「あ、ごめん。ね、今度またカラオケ行こうよ。久しぶりにバナナのシャウト聞いて大笑いしたい」

 その時ぷっと吹き出したような音が背後から聞こえた気がした。位置的に見て彼のテーブルの辺りではないだろうか。ナナは恥ずかしさで顔を赤く染め、振り返って確かめることなくその場を離れた。


 化けたね、か。

 友人には当時のナナの記憶がばっちり残っているのだろう。それにしたって卒業から三年、いつまでも高校生のままじゃないんだから。

 ナナが通った高校は女子校で、男性の目を気にする必要なく三年間を過ごした。同級生たちも似たり寄ったりだったが、なかでもナナは「お笑い担当」とか「女芸人」とか呼ばれるほど、恥じらいを忘れて行動することが多かった。クラスでウケることが何よりも重要で、女らしさなどは二の次だったのだ。

 でも短大、就職と社会との関わりが増すに連れ、それも自然と変わっていった。意識する男性ができるとやっぱり自分の見た目が気になるものだ。その人とは結局何も始まらないまま終わってしまったけれど、次に恋をする時は、もう少し大人の自分を見せることができたらいいなと思っている。


 次っていつだろ。

 窓際の席にちらと目を遣ると、彼はもう本を読んでいなかった。代わりに両手を顔の前で盛んに動かしている。

 ――あ、もしかして。

 期待を込めて見つめていたら、空になったアイスコーヒーのグラスに手を動かしたのを最後に席から立ち上がった。

「ありがとうございました」

 会計を済ませ、彼が店を出て行く。それを見送るやナナは他のスタッフが先にグラスを片付けてしまわないよう、急いで窓際のテーブルに近づいた。

 ――あった!


 目当ての物がストローの飲みくちに挿してあるのを見つけて頬を緩める。それは小さな小さなバラの花で、ストローの袋を使って作られたものだった。

 ナナはバラをそっと指で摘むと、こよりをよる要領で細くねじった茎の部分を持ち隅々まで眺めた。細かく表現された花びらの層は見事という他ない。ストローの袋でこんなものが作れるなんて、と初めて見た時にはひどく驚いたものだ。

 その後見つけるたび小箱に収めては、カウンターに私物として置かせてもらっている。だって捨てるなんてもったいない。

 たくさん集まったら花束にしたいな。自分はそんなに手先が器用じゃないけど作れるだろうか。


 小さなバラへの感心はやがて製作者に対する関心へと膨らみ、どんな人が作っているのかを知ってからは、彼が来店するのが楽しみになった。冬場のアイスコーヒーの注文ももうなんとも思わない。むしろ大歓迎。もちろん毎回バラを作るわけではないけれど、期待がかかる分、見つけた時の喜びはすごく大きい。

 こっそりと彼につけた呼び名は、国民的少女漫画に出てくるキャラクターをもじって、『ストローのバラの人』。絶対に笑われるから誰にも話していないけど。


 ナナは小さなバラを潰さないようトレーの端に載せてテーブルを片付けた。窓の外は公園に面していて、芝生の緑と花壇に咲く色とりどりの花が鮮やかに目に映る。彼のバラを勝手にもらう代わりに考えた特別待遇。

 ――気に入ってくれたかな。

 胸の中でほんのり色づいている淡くふわふわとした何かは、きっと憧れだと思う。年上で落ち着いた大人の男性に抱きがちな感情。どうせ客と店員以上の関係に発展することはないのだから、こっそり憧れるくらい構わないよね。

 バラを小箱にそっとしまうと、ナナは新たに入ってきた客の応対をしに、カウンターを離れた。



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