少女は涙を流す
華恋は気づいたらまた屋上にいた。さっきとは違って柵に背中を預けて座っていた。さっきとは違う表情をしていた。さっきとは違う人間になっていた。
そしてさっきは見えなかった夕日が今は鮮明に見えていた。
彼女の頭の中には色んなことが飛び交っていた。
私はどんな人間だったのか。
居場所をなくして逃げ出した人間だったんじゃないのか。
美由ちゃんみたいに自殺しようとしていたのか。
このまま記憶が戻ってしまっていいのか。
私の記憶が戻ることを願っている人がいるのか。
この世界は私の記憶が戻ることを許すのか。
「もう……いやだ……」
さっきはどんな自分であったとしても受け入れる、と決意したがやはり怖いらしい。怖くて怖くてたまらない。怖くて怖くて逃げ出したい。そんな気持ちが華恋を支配していた。
彼女はおもむろに立ち上がった。目の前にはとても硬そうな地面が広がっていた。
この病院の屋上の高さは六階相当。飛び降りたらほとんどの確率で死ぬだろう。
いっそここから飛び降りて人生をやり直そうか。新しい『華恋』という人間を探そうか。
そうしたらどれだけ気が楽になれるだろうか。
彼女は無意識に自分の顔の高さほどの柵に手をかけて飛び越えようとしていた。
「か、華恋ちゃん!」
屋上のドアが勢い良く開いた。そこには涙を浮かべた美由が息を切らしながら立っていた。
ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、精一杯に喋ろうとした。
その涙は夕日の色を反射してキラキラと輝いていた。そして重力に従って彼女の頬を渡って、屋上の床に跳ね返った。
「あんな事言ってごめんなさい!」
美由は華恋を止めには行かずその場で頭を下げて謝った。そして華恋が何を言えばいいのか戸惑っている間にすぐに言葉を続けた。
「でも、でも逃げないで欲しい!」
美由はそう言ってから華恋に近づいていった。華恋はその言葉を聞いて自分で柵から離れた。
「もしかしたら本当に華恋ちゃんは家出少女かもしれない。このまま記憶が戻らないで新しい自分を探した方がいいのかもしれない。でも、でもそれじゃ本当の華恋ちゃんがいなくなっちゃうんだよ!」
美しかった。
今の美由の姿は美しかった。
流す涙はもっと美しかった。
友達を必死に守ろうとしている。
自分もとても苦しいのに、そんなことを気にせずに守ろうとしている。
華恋はそのことがとてもうれしかった。
「私は、本当の華恋ちゃんを知りたい! どんなに想像と違う華恋ちゃんでも! 本当の自分を隠したまま生きていくなんて、無理だよ!」
「……」
華恋は柵にかけた足を床に戻した。そして美由が涙を流しながら近づいてきた。
そして、抱きしめる。
強く、強く、離すものかと言うように抱きしめる。
二人はしばらく何も言わずに抱き合っていた。何も言わなくても二人はわかっていた。二人のやるべきこともわかっていた。
二人の友情がとてもとても深まったことはずっと輝いている夕日が証明してくれるだろう。
泣きすぎて赤い目になった二人は病室に戻ると、美由の大切な写真を捜すことにした。
「やっぱりないなぁ」
「そうだねー」
「……たぶん私のリュックには写真が入っていることは無いと思うよ」
美由はいまだに華恋のリュックを探していた。美由は華恋の言葉に対して可能性はゼロじゃないから調べた方がいいよと言い張って探し続けた。
「あっ奥に隠しポケットを発見!」
美由がテンションを上げながらそんな事を言った。華恋は美由がつかんだものを見てみた。
「なんか鍵つきの小物入れかな」
「そうだね。もしかして写真とか入ってるかな?」
美由はわくわくしながら華恋に確認する。しかし普通の写真を入れられるほどの大きさはなかった。鍵は暗証番号式で四桁の数字を並べるタイプだった。
美由はなんとしてでも開けようといろんな番号を試すがそう簡単には開かなかった。
「四桁だから全部で何通りだっけ?」
「わかんないけどきっとたくさんあると思う」
「華恋ちゃんの誕生日って……わかるわけないか」
「うん、ごめんね」
どうしようもないので華恋の鍵つき小物入れは放置という方向に決定した。
そのあとも捜索を続行したが美由の写真は見つからなかった。
「だめだ、あきらめよう」
さすがの美由も体力が尽きていた。探し物に夢中で気づかなかったがすっかり夜になっていた。
そしてちょうど愛美が晩御飯を運んでやってきて、美由と長話になって、婦長によって強制ログアウトとなった。
翌日も美奈子はお見舞いに来ていた。
前日に美由の秘密を聞いたこともあり、二人だけにしてあげようと思って華恋は病室から出て行った。
今日は天気が悪くなるらしいので、あまり屋上に足は進まなかった。ならば病院内を探検しようということに決めた。
華恋は屋上にしか行ったことが無いので、未知なる探検だ。
なので少しドキドキしながら不自然な動きで歩いていた。
「あっ愛美さんだ」
たまたま通りかかったナースステーションに愛美が居たので声をかけてみた。愛美もすぐに気づいてナースステーションから出てきた。
「とうとう美由の地獄のお喋りに耐え切れなくなったか」
「ち、違いますよっ!」
愛美と華恋が笑っていると、一人の看護婦が近づいてきた。
北元さん、どうしたんですか? と愛美は言っていたので、愛美の同僚なのだろうか。
「あのー、君は昨日ここに運ばれてきた女の子だよね?」
「そ、そうです」
急にそんなことを言われるとは思っていなかったので、返答に戸惑いが生じた。
華恋はこんな人と面識はないので、何の用だろうと不思議がっていた。
「実はここに運ばれてくるときにあなたのリュックから外れたアクセサリーを拾ったの。だけど途中であせってたからどこかに落としちゃったのよ。それでずっと探して、やっと見つけたのよ。はい、これ。遅れちゃってごめんね」
北元はそういって、右ポケットから少し大きめの黄緑のアクセサリーを取り出した。
「もしかしたら君の大切なものかもしれないと思ったから必死に探したのよ」
「あ、ありがとうございます」
北元は大事にしなさいよ、と言い残して自分の仕事に戻っていった。
そして華恋はじっとアクセサリーを見つめていた。
「このアクセサリー、可愛いね。たぶんお母さんからのプレゼントとかじゃない?」
愛美はそう華恋に問いかけたが、答えが返ってこない。不思議に思った愛美は再び華恋を見た。
そこには金縛りにかかったように動かない華恋がいた。瞬き一つもしていない。
まるで立ったまま死んでいるようだった。
「か、華恋ちゃん?」
「……」
華恋は何も言わずにそのまま後ろに倒れかけた。愛美が何とか反応してとっさに彼女を支えた。
「ちょ、ちょっと!? 華恋ちゃん! しっかりして!」
華恋は目を閉じていた。そして愛美の呼びかけに答えることも無かった。
その様子に気づいた他の看護婦たちが駆けつけて大騒ぎになった。