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しかし、最悪な授業はこれだけでは終わらなかった。
体育館で響き渡るボールの音に、思わず耳を塞ぎたくなる衝動に駆られる。いつもなら二人組を作ることなど簡単なことだったが、今回は違う。今までは当然のように斉藤と組んでいたけど、斉藤はきっと別の人と組むだろうし、そうなれば当然のようにぼくは一人になる。今日だけじゃない。これからもそうなるだろう。
そういえば、体育の時間に二人組を作るとき、夏目はいつも先生と組んでいたな、と前の体育の時間でのことを思い返す。二人組を作る時間がこんなにも苦しいものだったなんて、自分がそうなるまでわからなかった。夏目のことを見ていたようで、本当は全然見えていなかったことを思い知る。
ぼくの状況を察した大山先生が気を利かして、今回は複数のチームに分かれてバレーをすることになったが、それはそれで、穴が合ったら入りたくなるほど恥ずかしいものだった。ぼくが今までどれほど斉藤に甘えていたかを、改めて痛感させられた瞬間だった。
その日の体育の時間は、ほとんどボールが回ってこなかったとはいえ、問題なく終わった。今日の授業はこれで終わりだ。
ほっと一息ついて、体育館から出ようとしたときだった。鈍器で殴られたかのような衝撃が頭を襲った。
咄嗟に地面へ手をつくが、守りきれずに後ろへ倒れる。床がフローリングだったおかげで擦りむくことはしなかったが、それでも強く肘を打ってしまった。
「いってえ……」
痛みに耐えながら、ゆっくりと身体を起こす。目の端にボールが転がっているのを捉えたぼくは、そこでやっと自分がボールで頭を狙われたのだと知る。
「ああ悪い。当たっちまった」
誰がこんなことをしたのかと、犯人を捜す間もなく、誰かが言った。ろくに話したこともない、クラスメイトの男子がこちらを見下ろしていた。
覚えておけよ、と心の中で凄むが、決して奴らには届いていないことだろう。下卑た笑いをこぼしながら、数名の男子が体育館から出ていく。その中に斉藤がいないことに、少なからず安心している自分がいた。
力の入らない足を叱咤して起き上がると、ぼくは体育館から出て裏庭へ向かった。今日一日いろんなことがありすぎて、ホームルームに出られるような気分ではなかった。
体育館へと続いている非常階段の一段目に座る。しばらくのあいだ、その場にじっと蹲っていると、目の前が何者かに遮られた。
先生かと思ってゆっくりと顔を上げるが、そこにある姿に思わず息を呑んだ。驚いたことに、夏目が手を差し伸べていたのだ。周りを見渡すと他には誰もおらず、いつの間にか体育館にはぼくと夏目の二人だけしかいなかった。
「大丈夫?」
と黒々とした瞳が心配そうにこちらの様子を窺っていた。
もしかして、さっきボールをぶつけられたのを見られていたのだろうか。
そう思ったら、途端に顔が真っ赤になった。情けないことに、言葉が詰まって何も言えない。
夏目はそんなぼくを特に気にすることもなく、出した手を引っ込むと言った。
「避けようと思ったら避けられたんじゃないの?」
「え……」
一瞬何の話かと思ったが、すぐにボールの話だということに思い当たる。何を勘違いしているのか知らないが、ぼくはそんなに運動神経は良くない。むしろ悪いほうだ。
「今のはどう考えても不意打ちを狙ったんだよ」
苦笑しながら言うと、夏目は少し怒ったような呆れたような、いろんな感情が入り混じった顔をした。
「そうじゃなくて、斉藤くんと喧嘩したとき。その頬、斉藤くんに殴られたんでしょう?」
そう言われて、そのときも彼女に見られていたことを思い出す。
ぼくは自分の頬に軽く触れてみた。一応、保健室で手当てはしてもらったが、それでもまだ痛む。完全に治るのにはまだまだかかりそうだった。きっと、斉藤も同じだろう。
「あのときは身体がうまく動かなかったっていうか」
ぼんやりとそう言うぼくに、夏目は少し笑って言った。
「早く治るといいね」
唇の端を持ち上げただけの小さな笑みだったが、ぼくは初めて見る彼女の表情に思わず目を奪われた。
「昔、おばあちゃんが教えてくれたんだけど、あのおまじない、なんていうんだったかなあ」
まさか自分の笑みに、目の前の男子が見惚れているなんて思ってもみないだろう夏目は、思案するように独り言を言っていたが、やがて何か思い出したのか、両手を軽く叩いて言った。
「くわばら、くわばら」
――くわばら、くわばら? 馬鹿にしているのかと思ったが、夏目はしごく真面目そうで、ふざけているようにはとても見えない。
「それって雷を避けるおまじないじゃなかったっけ」
「え、そうだっけ?」
夏目はそのおまじないの意味を本当に理解していなかったようで、ぼくの言葉に目を丸くしていた。
ぼくの傷が早く治るおまじないを言いたかったのだろうかと思ったら、自然と笑みがこぼれた。
それを見て、夏目も笑って言った。
「まあ、傷の分だけ強くなるって言うし、大丈夫だよ」
それを言うなら涙の分だけではないかと思ったが、ぼくが口を開く前に、夏目は何か用事でも思い出したのか、踵を返していた。
「ごめん、わたしもう行かなきゃ。また明日ね」
ぼくに何か言う隙も与えず、夏目は既にこちらへ背中を向けて、どこか急いだ様子で足早にその場を去っていく。一つに結った長い黒髪が風で煽られていた。
いったい、なんだっていうのだろう。
くるくると急変する夏目の言動に、ぼくは驚かされてばかりだったが、実際に彼女と話してみてわかったことがある。
本当の夏目は、全然大人びてなんかいなくて、物静かなでもないということだ。少し天然で、夢見がちで、笑うと涙袋ができて可愛い。ぼくらと同じ中学生の普通の女の子だった。
このときなって、ようやくぼくは本当の恋に落ちた。