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てっきり職員室に連れて行かれるとばかり思っていたのだが、大山先生が入った部屋は、こぢんまりとした多目的室だった。あまり使われていないのか、窓から射す光で大量の埃が舞っているのがわかる。
「――それで、お前らはなんで喧嘩していたんだ?」
部屋に入って扉を閉めるなり、大山先生が言った。
斉藤は俯いたまま何も言わない。斉藤が何か言うまで、ぼくは絶対に口を割らないつもりだった。斉藤の口から夏目の件について言えばいいのだ。
「話したくないなら話さなくてもいいぞ。その代わり、お前らのせいで授業が遅れることになる」
いつまでも沈黙を守るぼく達に、いい加減嫌気が差したのか、先生はぼく達を脅しにかかった。
「言っておくが、話すまで帰さないからな」
折りたたみ式の長机に手をつきながら、声を落として言う先生の言葉に、焦りをおぼえないわけではなかった。中学三年ともなれば、そろそろ受験のことを考えて、真面目に勉強に取り組まなければ時期だ。それをぼく達のせいで従業が遅れたとなっては、皆から恨まれても仕方ないと思う。しかし、それと同時に、そうなれば困るのは先生なのではないかとも思った。
授業が遅れれば、保護者からクレームが来るのは目に見えている。そのことを覚悟したうえでぼく達を説教しているのだとしたら、心苦しくて負い目を感じるが、ぼくの口からは意地でも言いたくなかった。
頑なに口を閉ざしたままのぼく達を見て、早々に諦めたのか、「もういい」と先生はため息をついて、どこへ行く気か、部屋から出て行こうとした。そのときだった。
「最初に殴ってきたのはこいつです」
斉藤はぼくに目を合わせないまま、こちらを指さした。
自分のしたことを棚に上げてよくそんなことが言えたものだ。
怒りに震えて、反論しようとしたときだった。それを遮るように、「でも」と斉藤が言葉を噤む。
「だけど、その前にぼくが夏目さんの噂をしていました」
その瞬間、あからさまに先生の顔が曇った。
「夏目って夏目貴子のことか」
「そうです」
「何について噂していたんだ」
先生は改まった口調で言うと、ぼく達に目線を合わせるようにやや背を屈めた。
斉藤は最初のうちは言うのを渋っていたが、顔を上げてはっきりと言った。
「夏目さんの前の学校についてです」
告白のことを省いていたが、ぼくもそのほうがいいと思って、あえて訂正しなかった。
先生はそのことについて知っていたのか、やっぱりな、というように深くため息をついた。
「斉藤、お前が言い出したのか」
「そうです」
さっきよりもきっぱりと言い切る斉藤に、驚いて目を丸くする。それを言い出したのは瑞枝ではなかったのかと視線で訴えるも、斉藤は毅然とした態度を崩さない。
どうして瑞枝のことを庇うのだろう、と首を傾げていると、知らぬ間に矛先はぼくに向けられていたらしい。
「だからって、どうしてお前が手を出すんだ」
と先生がもっともな問いをぼくに投げかける。
普通に考えて、周りから見ればおかしいと思うのは当然だろう。だけど、ぼくだって夏目のことが好きだということにさっき気付いたのだ。自分でもまだよくわからないのに、それを人に――ましてや学校の先生に言えるわけがない。
これは厄介なことになったな、と嘆息しながらも簡潔に答える。
「腹が立ったからです」
動じずに言えたつもりだったが、顔がやけに熱いのが自分でもわかる。ゆでだこのように赤くなった自分の顔を想像しながら、これはばればれだなと思う。
案の定、大山先生は気を遣ったのか、それ以上追及はしなかった。
「もういいや。わかったよ」
と本日何度目かのため息をついた。
そのあと、ぼくと斉藤は大山先生だけでなく校長からも厳重注意を受けた。処分は反省文だけで済んだが、そのあいだずっと、真っ赤になった夏目の顔が頭にこびりついて離れなかった。
今思えば、ぼくはなんてことをしてしまったのだろう。
先生は斉藤が殴った時点でおあいこだと思ったみたいだが、まずぼくは噂された本人ではない。ぼくには怒る権利など始めからないのだ。それをただの自己満足で斉藤を殴り、事の騒ぎを大きくしてしまった。夏目が怒るのも無理はない。
それだけじゃない。斉藤の言葉をはっきりと否定できなかった自分が、何よりも悔しかった。
斉藤の言葉を反芻する。
『正直に言えよ。夏目がいじめられていたって聞いたとき、本当はお前、がっかりしたんだろう?』
斉藤の言うとおりだ。たしかにぼくはがっかりした。いつの間にか、ぼくの中で夏目貴子は神聖化されていた。夏目貴子を勝手に孤高な少女という存在に決めつけていた。だから、皆の言っていることが信じられなかったのだ。常に一人でいることが好きな人なんて、いるはずないのに。
いくら悔いても、絶対に時間は元には戻らない。だけど後悔せずにはいられなかった。そして、そんなぼくに天罰を下すかのように、その日の授業は最悪だった。
嫌な予感はしていたが、まさか誰にも話しかけられないとは思わなかった。
先生に教室へ戻るように言われたあとも、斉藤はまだ納得していないらしく、ぼくとはずっと口を利かないままだった。ぼくは当然の結果だと思っているが、それでも謝る気は起きないでいた。
二人で教室に入ると、教室中の視線が痛いくらい突き刺さった。そのときは自習の時間だったのだが、いつもなら騒がしい教室も、そのときに限って針を落とした音さえ響き渡りそうなほど、静まり返っていた。
音もなく席に着くと、タイミングよく現れた大山先生によって皆の視線から解放される。
ぼくは夏目の顔を見るのが怖くて、視線を合わすまいと必死で授業に専念した。