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ぼくが何も言わないのを見て、斉藤は図星だと気付いたらしかった。悠然とした態度で、さっきよりも余裕の笑みを浮かべている。
「正直に言えよ。夏目がいじめられていたって聞いたとき、本当はお前、がっかりしたんだろう?」
斉藤の言葉を聞いた途端、理性の歯止めが利かなくなって、無意識のうちに殴っていた。勢いよく繰り出したぼくの右手が、斉藤の頬へ見事に命中した。人生で初めて決めた右ストレート。ボクシングを習ったこともない、ましてや人を殴ったこともないぼくが、初めて同級生を――それも友達を殴ってしまった。
ふと我に返ったときには既に遅く、斉藤は後ろ向きに倒れていた。机が横倒しに倒れ、女子の悲鳴が上がる。斉藤の唇の端から血が滲み出ているのが見えて、殴った右手がひりひりと痛んだ。
斉藤はぼくの突然の行動に反論することもなく、ただじっとこちらを睨んでいた。鋭い眼光でぼくを射る斉藤が、本気で怒っているのがわかる。
やがて、斉藤がおぼつかない足取りでふらりと立ち上がったのを見て、ぼくは咄嗟に危ないとは思ったものの、動くことができなかった。
案の定、一瞬の間も置かず斉藤の拳が目の前に飛んできた。瞬時に目を閉じ、歯を食いしばる。鋭い痛みが左の頬を切り裂いた。衝撃に足が耐えきれず、斉藤のときよりも派手に床へ倒れる。
「おい、やめろよ!」
と誰かが叫んだが、それでもまだ怒りが収まらないのか、斉藤は緩慢な動作でこちらへ近づいてくると、ぼくの胸ぐらを掴んだ。無理矢理身体を引っ張られるが、もはやぼくには抵抗する気力もなくなっていた。斉藤の荒い呼吸が間近で聞こえる。
勝手に告白の現場を見たことなのか、いきなり殴ったことなのか、何が気に喰わないのかわからないが、殴りたいなら好きなだけ殴ればいい。しかし、殴られる前に聞いておきたいことがあった。
斉藤が何か言う前に、先に口を開く。口の中が切れているのか、血が唾に混じって溢れそうになるのを飲み込んだ。
「なんで皆に言ったんだよ」
かすれた声は、聞こえないのではと思うほど小さなものだった。しかし、ちゃんと斉藤には聞こえたようだった。
「決まってるじゃん」
と斉藤がわずかに口角を上げて言う。
「おもしろいからだよ」
ぼくは夏目のことなんて何も知らない。だけど、これだけはわかる。人の辛い過去を、こんなふうにおもしろおかしく噂をしてはいけないということを。それは夏目のことを抜きにしても言えることだった。
互いに胸ぐらを掴んで睨み合う。まさに一触即発の状況に、幸か不幸か担任が駆け込んできた。
「葉山、斉藤、何してるんだ! やめろ!」
急いで呼んできたのだろう。息を切らした瑞枝が担任の横で、涙目になりながら立っていた。
学生時代にアメフトをしていたという担任の大山先生は、その自慢の図体でぼく達のあいだに立ちふさがると、よく通る声で言った。
「詳しい話は別室で聞く。今すぐに来い」
言われなくても逃げられないのだから従うつもりだが、先生は強引すぎる力でぼくらの腕を掴んで連れて行こうとする。ずるずると引きずられるまま教室を出ようとしたそのとき、ある顔と目が合った。
いつからそこに居たのだろう。顔を真っ赤にした夏目貴子が、じっとぼくのことを見ていた。斉藤でも、他の誰でもない。黒々とした瞳がしっかりとぼくを捉えている。その顔は羞恥に耐える表情のようにも、怒りに耐える表情のようにも見えた。
初めて夏目と目が合った瞬間だった。
ぼくはばつの悪い思いをしながら、不自然に目を逸らした。