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それは国語の授業中のことだった。春の陽光が窓から入り込み、教室内は煌めく光で満ちていた。
窓際に座っていたぼくは眩しさに目を細めつつも、頬を撫でるような温もりに微睡んでしまい、これはもう授業どころではないな、と思った。
昨日は徹夜で数学の宿題をこなしたのだから、眠いのは仕方ない。ここで眠ってしまえば、次は国語の宿題をするときに手こずるのは目に見えていたが、頭では理解していても、瞼は自然と閉じていき、眠りに落ちるのは時間の問題に思えた。そのときだった。
硝子のように透き通った声が耳に届き、ぼくは反射的に顔を上げた。
一番後ろの席で、先生に指名されたひとりの女子が朗読を始めたのだ。
「では、おれが引剥ぎをしようと恨むまいな」
彼女は羅生門に出てくる下人の台詞を淡々と言ってのけると、静かに席に着いた。
大声ではないのに、教室の隅々まで響くその声には、物語に登場する人物の魂が宿っているかに思われ、ぼくは本当に身を剥ぎ取られるのではないかと息を呑んだ。
夏目貴子は物静かな少女だった。彼女は女子にしては身長が高く、またそれに比例するように恐ろしく長い黒髪をしていた。後ろで一つに纏めていてもなお、鬱陶しそうなその髪と、今どきとは思えないほどに長いスカートの裾は現実離れしている。しかし、そのような外見をしていても、古臭いとは思わないから不思議だった。
去年の秋ごろに転校してきた夏目とは、今年から同じクラスになったが、教室で見る彼女の姿といえば、常に一人で読書をしている姿だけだった。誰かと仲良く話すところを見たことがないので、特定の友達はいないように見えた。それほど夏目貴子という少女は、外見とは裏腹に目立たない存在だった。
だから、そんな彼女が朗読を始めたとき、ぼくは言いようのない違和感をおぼえた。ぼくはどこかで彼女を、動かない石のような存在だと思い込んでいたのかもしれない。ロボットが博士の手によって、命を吹き込まれたかのようで、ぼくは彼女から目が離せなかった。
それからかどうかはわからないが、いつの間にか自分でも知らないうちに、ぼくは彼女を目で追っていた。それが哀れみからくるものか、親近感からくるものかは自分でもわからなかった。ただ、彼女の一挙一動を見逃すまいと、目が勝手に彼女を捉えようとするのだ。
その日もぼくは、教室の隅で静かに本を読む夏目を盗み見ていた。今日もまた一人でいるにもかかわらず、まったく浮いていない。それどころか風景と同化していた。まるで風景が彼女に合わせているかのように自然だった。
授業を受け読書をするだけの毎日なんて楽しいのだろうか。自分で自分が悲しくならないのだろうか。いや、しかしそれは自分も同じではなかったか。
ぼくの日常もまた孤独なものだった。友達と呼べるのかどうかも怪しい奴らとつるんでは、心の隙間をどうにか埋めようとする毎日。話す相手がいるかいないかの違いで、少なくともぼくはクラスメイトとの軽口の叩き合いに、心から楽しいと感じたことはなかった。たしかに話は面白い。だけど、たまに心がしんどくなるのだ。
「おい、誠。聞いてるのかよ」
肩を軽く小突かれて我に返ると、バラエティ番組の話をしていたはずの斉藤が怪訝な顔でこちらを見ていた。
斉藤慶介はクラスでもよく話す友達の一人だった。小学生の頃からの友達と斉藤の仲が良かったから、ついでにぼくまで仲良くなったのだが、いつの間にかぼくと斉藤の仲のほうが良くなっていたという、お決まりのパターンだ。
慌てて笑顔を作って、その場を取り繕う。
「ごめん。なんだって?」
「やっぱり聞いてなかったんだな。さっきからずっとさんまちゃんの話してたのによ」
斉藤はぼくの言葉に怒りながら、呆れた口調で言った。
「お前、このあいだからずっと様子が変だぞ」
「気のせいだよ」
「知ってるぞ。お前、夏目貴子のことが好きなんだろう」
「どうしてそうなるんだよ」
あまりにも唐突な斉藤の言葉に、自分でも驚くほど大きな声が出た。教室中の視線がぼくに集まる。
これは面倒なことになったものだ。
この場をどう切り抜けようか考えていたときだった。
「誰が誰を好きなの?」
と聞き慣れた高い声がした。驚いて振り返ると、今どきにしては珍しいおかっぱの相沢瑞枝が立っていた。小首を傾げて、不思議そうな顔をしている。
瑞枝はぼくの幼なじみだ。幼稚園の頃からずっと一緒だった瑞枝とは、学年が上がるにつれて口を利くことが少なくなった。それなのに、瑞枝から話しかけてくるなんて珍しい。
怪訝に思っているぼくをよそに、斉藤が楽しそうに話し出す。
「それが、こいつあの夏目のことが好きなんだって」
「夏目さん?」
瑞枝は驚きの声を上げた。得体の知れない物を見るように、まじまじとぼくを見つめる。
「誠、夏目さんのこと好きだったんだ」
「そうそう。意外だろ?」
「ちょっと待てよ」
勝手に話を進めている斉藤を遮る。赤面になっていないことを願いながら、努めて冷静に言った。
「誰も好きだなんて言ってない」
「そんなの、好きだって言っているようなものだろ」
いい加減白状しろよ、と斉藤が呆れ顔で言うが、ぼくの言っていることに偽りはない。だいたい、よく見ているからといって、その相手のことを好きだと決めつけるのは間違っていると思う。
「夏目のことなんてよく知らないし」
「でもしょっちゅう見ているじゃないか」
それだけは譲れないのか、斉藤は珍しく食ってかかってきた。
この場に彼女がいなくてよかったと安堵しながら、ぼくは斉藤に適当に返事をする。
「馬鹿。話したこともない奴を好きになるかよ」
斉藤と瑞枝はぼくの言い分に納得したのか、それ以上は何も言わなかった。しかし、自分の言い分が的確だったのにもかかわらず、ぼくは内心腑に落ちないでいた。
夏目のことが好きじゃないのなら、ぼくのこの気持ちはいったいなんなのだろうか。