おかえりとおやすみ
今日のバイトを終え、俺は奈海の居る家に帰宅する。家のドアを開けると、「おまえり〜」と言うのんびりとした声。そして、俺は奈海がぽてぽてと玄関にやってくるのを待つ。
俺の恋人、伊勢野奈海はカタツムリの人外だ。人型になっても丸っこくてぽってりした手足のあるカタツムリくらいにしかなれない奈海は、俺が帰ってくるたびこうやって律儀に出迎えてくれる。
玄関に現れた奈海はボディスーツ越しに俺をハグした。俺はむちっとした体に沈んだ。口元の小触角が髪を擽る。
「今日は早かったね。伊吹」
「仕事がちょっと少なくてさ。上司がごめんて言ってた」
「でも、僕は伊吹が早く帰ってきてくれるの嬉しいよ。本当はずっと家に居ていいのに」
「それだと俺が堕落しちゃうだろ」
「僕、伊吹のそんな所も好き。あ、夜ご飯作ったよ。冷めないうちに食べよ?」
奈海は人間と同じものは食べられない。特に、しょっぱいものと熱いものは駄目だ。それなのに俺がバイトを初めてから奈海は俺に食事を作ってくれるようになった。恋人になって気づいたが、奈海の優しさは底なしだ。
靴を脱いで、荷物を置く。そして、手を洗って食卓に着いた。加湿器は稼働中。部屋の湿度は九十パーセント。空気清浄機もばっちりだ。
「今日もレシピ通り作ったし、塩分濃度も測ったから味は大丈夫だと思うけど……」
今日のメニューは鮭の塩焼きに厚焼き玉子、豆腐、小松菜の味噌汁に白いご飯。向かいの奈海は生野菜に殻付きゆで卵。カルシウムパウダーの瓶。
「今日も美味そうだよ。……いただきます」
「いただきます〜」
果たして、今日も味付けは完璧だった。卵焼きは出汁が効いてふわふわで、味噌汁の塩気も丁度いい。本当に奈海には頭が上がらない。
「今日はどこまで書いた?」
「そうだな〜。探偵が犯人に狙われて危機一髪!のところ。もう少しでひとまず書き上がりそうだよ」
奈海は売れっ子の小説家だ。作品のジャンルごとにペンネームをいくつも持っている。あまりにも売れるから、本当は雨の日しか活動しないカタツムリの人外なのにこうして毎日働いているのだ。
奈海が人参を齧る。ごりごりと歯舌で削り取る音がする。次はキャベツ。ばりばり。仕上げに殻付きゆで卵。ぱきむしゃ。口元の小触角がふよふよと動く。
俺は奈海がもしょもしょと食事をする様子を見るのが好きだ。なんだか可愛い。人間のマナー的には音を立てて食事をするのは良くないけど、奈海は人外だからかちっとも気にならない。
「ごちそうさまでした〜」
「ご馳走様」
洗剤を使う食器洗いは俺の役目だ。流しに運んだ食器や調理器具をさっと洗う。二人暮しだから大した量じゃない。
「じゃあ僕はもう少し書いてくるね」
「分かった。風呂出たら声掛けるわ」
奈海は、ぽてぽてと仕事部屋の書斎に歩いていった。
基本、俺はシャワーで済ませてしまう。俺一人の為に湯船にお湯を張るのがもったいなく感じてしまうからだ。シャワーを浴びた俺は、湯船に水を張りカルキ抜きを測って注ぐ。腕で水をぐるぐるかき混ぜたら、これで奈海の分の準備が整った。
風呂場を出てタオルで髪と頭を拭く。パジャマ代わりの部屋着を着てから、書斎に奈海を呼びに行った。
「風呂出たぞ」
「はーい」
俺は洗面所までついて行き、奈海がボディスーツを脱ぐのを手伝った。ボディスーツは肌の乾燥を防ぎ皮膚呼吸を妨げない防水透湿素材で、完全にカタツムリの時に腹足で移動しやすいよう腹側がラバー素材になっている。奈海の肌にぴったりと沿うこれは、脱ぐのも着るのも一人では難しい。
風呂場に入り水浴びを始めた奈海を尻目に、俺はボディスーツを洗濯機に放り込む。洗濯機が回るのを眺めながら、俺は奈海と出会った時の事を思い出していた。
五年前、俺は都会に憧れて故郷を出てきた十八歳のガキで、ネカフェに泊まりながら下宿付きの仕事を探していた時見つけたのが、作家の日常生活の補助だった。条件は一つ。カタツムリの人外が平気な方。それだけで何ヶ月も放置されていた求人。
早速求人に申し込み、三日後には雇い主の家で面接を受けることになった。そこは閑静な住宅街にある立派な平屋の家だった。
「どうも、初めまして。求人に応募した黒岩っす」
「いらっしゃい〜。僕は作家やってる伊勢野奈海だよ」
それが、俺と奈海の出会いだった。
面接といっても応募した時点でほぼ決まりのようなもので、30分ばかり雇用条件の確認と軽い雑談をしたくらいだった。
「黒岩君は僕の見た目が平気なんだね?」
「昔カタツムリ飼ってた事があるからっすかね。平気っすね」
「有難いなあ。家事とかは少し出来るんだもんねえ。僕、この服の脱ぎ着とか洗剤使うのとか苦手で」
「はい、任せてくださいっす」
そういう訳で、俺は奈海と暮らすことになったのだった。
俺が奈海に雇われていた間、俺は奈海を先生と呼んでいた。
「先生、俺の夕飯作るのにキッチン借りて良いっすか?」
「いいよ〜。あ、そしたらゆで卵も三つ作ってくれる?殻は剥かないで欲しいな」
「了解っす」
奈海の食事の準備とボディスーツの脱ぎ着の手伝いが俺の仕事で、それは主に朝と夜に集中していた。昼間は自由時間で、俺は都会暮らしを満喫した。
そうして日常を過ごすうち、俺は段々と自覚の無いまま奈海を好きになっていった。口元の小触角がふよふよ動いたり、食事中もにょもにょと動く口を可愛いと思うようになり、穏やかな口調に安心感を覚えるようになった。
俺がそれを自覚したのは、大学生の遊び仲間との会話の中でだった。
「お前カタツムリ人外の家に住み込みで働いてんだろ?おれだったらキモくていくら給料良くても無理だわ」
「そうか?」
俺はその言葉に酷く不快になった。先生はキモくない。可愛くて、優しくて、そこらの人間よりよっぽど魅力的だ……。とそこまで考えて、俺はようやく自分が奈海を好きになっていることを自覚したのだった。
「俺、もう帰るから」
俺は無性に先生に会いたくなった。会って好きだと伝えたくて堪らなかった。
家に帰ってすぐ、俺は先生の書斎のドアをノックした。
「すんません先生。どうしても話したい事があって……」
「どうぞ〜」
「失礼します」
俺は軽く頭を下げて書斎に入った。
「どうしたの、伊吹君。今日は随分早かったね」
「あの、その……。俺、どうしても先生に言いたいことがあって。先生に雇われるの、もう辞めたいんす。俺、外でバイトとかするから、でも、先生のお世話は今まで通りしたくって、つまり雇用関係じゃなくて対等な関係になりたくって……」
「それってどういう?」
「先生、俺と恋人になってくださいっ!!」
それを聞いた先生は随分と戸惑った様子でこちらに目を向けている。小触覚と口元も、もごもごと落ち着かなさげだ。
「え、え……?伊吹君、僕なんかでいいの?バイトするってつまり、僕の稼ぎじゃなくて僕自身を好きになってくれたってことだよね……?」
「俺は先生じゃないと嫌っす。先生だから好きになったんすよ」
「嬉しい、嬉しいな!君が僕のこと好きだって!……名前、呼び捨てにするから伊吹もそうしてよ」
「それって……!」
「うん、僕たちもう恋人。これからは、苦手な敬語も辞めてよね」
こうして、奈海と俺は恋人になったのだった。
洗濯機はまだ回っている。奈海が風呂場の戸を開けて出てきた。潤ったつぶつぶを連ねたような素肌がつやつやと明かりを写している。
「じゃあ、僕先寝るね」
奈海はそう言ってスリッパを履いてぽてぽてと歩いていった。俺は奈海のボディスーツの洗濯が終わるのを待ち、ボディスーツを取り出して洗面所に干した。そして、俺も寝るために寝室に向かった。
恋人になってから俺たちの寝室は共通だ。寝室に入ると、奈海はもうベッドの上で殻に入っていた。頭が少し覗いている。
「伊吹、いつものあれしてよ」
「はいはい、いつものね」
俺は奈海の頭、大触覚の間にそっと口付けを落とした。
「おやすみ、奈海」
「伊吹、おやすみ。いい夢見てね」
奈海は完全に殻に入り、殻口には膜が張って乾燥を防ぐ。おれは奈海の隣に横になり、ひんやりとした殻に頬を寄せた。奈海のゆっくりとした心臓の拍動を感じる。奈海も、俺も、違うようでいて同じ所は沢山あるのだ。
頬を寄せるだけでは物足りなくて、俺は奈海の殻に腕を回す。そしてそっと呼びかける。おやすみ奈海。俺の大好きなカタツムリ。




