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春風

作者: 中村雅
掲載日:2026/03/14

春になると、風の匂いが変わる。

冬の冷たい空気の奥に、ほんの少しだけ、やわらかい匂いが混ざる。

その風が頬をなでるたび、山崎晃介は思い出す。


春風ゆあのことを。

あの日、病院の屋上で吹いていた風を。



 

病院の屋上は、街を見渡せる場所だった。

白いフェンスの向こうには川が流れていて、その向こうに、長く続く桜並木が見える。


ベンチに座るゆあの髪が、ふわりと揺れた。

屋上は風通しが良く、少しひんやりとしていた。

ゆあの体調を気にした晃介はゆあにコートをかける。


「寒くない?」

「ううん」


それから目を細めて、空を見上げた。


「春の風ってさ、やさしいよね」


その声は、顔はいつもと同じだった。

穏やかで、やわらかくて、少し嬉しそうで。

 

でも、腕には点滴のチューブがつながっている。

カーディガンの袖からのぞく手首は、前よりもずっと細くなっていて、晃介は、それを見ないふりをした。


見てしまうと、晃介はすぐ顔に出てしまう性格だ。

そして、ゆあは鋭くて、そういうことにすぐ気づく人だった。


「晃介、今日仕事大丈夫だったの?」

「大丈夫。ちゃんと有給取った」

「ほんと?」

「ほんとほんと」


ゆあはじっと晃介を見つめ、少し笑っていた。

その顔はちっとも信じていない顔だ。


「晃介ってさ……嘘つくの、下手だよね」

「うるさい」


そう言うと、ゆあはくすっと笑った。

病院にいることを忘れてしまうくらい、いつものゆあの笑顔だった。


「私……晃介が笑ってくれるのならそれだけでいいの」


ゆあは、昔からそういう人だった。


自分のことより、他人のことを先に考える人。

コンビニでレジが混んでいれば、「店員さん大変そうだね」と言い、雨の日に誰かが傘を忘れていれば、自分の傘を差し出すような人だった。


だから、病気が見つかった時も。

最初に言った言葉は、こうだった。


「晃介、ごめんね」


病気を患ったゆあの方がよっぽど辛いはずなのに、自分ではなく、晃介を気遣う一言。

晃介は、今でもその意味が分からない。

どうして謝る必要があったのか。

病気うんぬんよりその一言を言われた方が晃介にとっては辛かった。


 


屋上に、風が吹いた。

やわらかい春の風だった。


「ねぇ」

「ん?」

「来年の春、桜見に行こうよ」


ゆあの言葉に晃介の胸が、きゅっと締めつけられる。

医者の言葉は聞いていた。


……長くて半年。

その言葉が、頭の奥で何度も響く。

でも晃介は笑った。


「いいね。どこ行く?」

「川沿いの桜並木」


ゆあがフェンスの向こうを指さす。

遠くに、小さく見える桜の並木。


「あそこ?」

「うん」

「人多いよ?」

「いいの……私にぎやかなの好き」


風が吹きゆあの髪が、ふわりと揺れる。

ゆあは小さく手を差し出した。


「約束ね」


晃介は、その手を握る。

細くて、少し冷たい手だった。


「約束」


それが、二人の最後の約束になった。




冬の初め。

ゆあは、静かに息を引き取った。

外は雪が降っていて、シンシンとしていた。


病室には、晃介と看護師が二人。

ゆあは眠るみたいに目を閉じていた。


苦しそうな顔は一切しておらず、穏やかな顔だった。

晃介が手を握ると、ゆあはゆっくり目を開けた。


「……晃介」

「うん」

「いつもありがとう」

「それ、俺のセリフ」


ゆあは少し笑い、ゆっくり息を吸った。


「ねぇ」

「なに?」


ゆあは、かすれた声で晃介に話す。


「ちゃんとご飯食べてね」


晃介は、何も言えなかった。

最後まで、自分のことじゃなく、晃介のことだった。

晃介は声を震わせながら答える。


「わかってる」

「約束だよ」


ゆあはそう言って、目を閉じた。

それが、最後だった。

24歳とあまりにも早すぎる生涯だった。





翌年の春。

川沿いの桜並木は満開で、風が吹くたび花びらが舞う。

子どもたちが走り回り、

カップルが写真を撮り、

家族が笑いながら弁当を広げている。


みんな、幸せそうだった。


桜のトンネルの下を晃介は、一人で歩いていた。

本当は、隣にゆあがいるはずだった。


「人多いね」


そう言って笑うはずだった。


「写真撮ろうよ」


そう言ってスマホを向けてくるはずだった。


でも、いない。

隣には、誰もいない。

晃介は立ち止まった。


胸の奥が、急に苦しくなる。

ふと、風が吹いた。

桜の花びらが一斉に舞い上がる。

空いっぱいに、淡いピンクが広がった。


その瞬間。

晃介のスマホに一つの通知が。


ゆあからだった。

晃介は急いで画面を開いたら、そこにはゆあの録音メッセージが添付されていた。


「晃介へ……

これを聞いてるってことは、たぶん私はもう隣にいないね。ごめんね。最後までちゃんとお礼を言えなくて……

本当は、ちゃんと話そうって思ったこともあったんだよ。

でもね、晃介の顔を見たら……どうしても言えなかった。

私が最後の挨拶みたいなのをしてしまったら、晃介ずっと気にして顔に出ちゃうでしょ?だから、最後まで普通でいようって決めたの。晃介と笑って、晃介と歩いて、晃介と同じ時を過ごして。

それだけで、私はすごく幸せだった……。

ねえ晃介。

私ね、晃介が笑ってる顔が一番好き。だから、もし今泣いてたら……ちょっとだけ困るな。もちろん、泣いてもいいよ。

でも、ずっとはだめ。

ちゃんと笑ってね。

晃介は優しいから、きっと私のこといっぱい考えてくれると思うけど……

私より、もっと大事なものを見つけてほしい。

晃介の未来とか、晃介の夢とか、晃介の幸せとか。

全部ちゃんと、大事にしてね。

それが私の一番のお願い。

あとね、春になったら桜、見に行ってほしいな。

私たちがよく歩いた、あの川沿いの道。

覚えてる?風が吹くと、花びらがいっぱい舞う場所。

私、あそこ好きだった。

春の風って、なんだか優しいでしょ。

だからきっと、晃介がそこに行ったら……

私のこと、少し思い出してくれる気がする。

その時はね、悲しい顔じゃなくてちょっとだけ笑ってほしい。

“ああ、こんなやついたな”って。

それで十分だから。

晃介。

出会ってくれてありがとう。

好きになってくれてありがとう。

隣にいさせてくれて、本当にありがとう。

私ね、晃介と過ごした時間……全部、大好きだった。

じゃあね。晃介。

春の風が吹いたら……たまに、思い出してね。

——春風ゆあより。」

 



録音メッセージが終わった後、本当にゆあの声が聞こえた気がした。

 

——春の風ってさ、やさしいよね。


晃介の視界が滲む。

涙が止まらない。

人がいるのに。

子どもみたいに泣いた。

肩を震わせながら。


「……ゆあ」


名前を呼んだ。


「約束、守ったよ」


誰もいない隣に向かって言う。

風が吹く。

やわらかい春の風。


その時、晃介は気づいた。


ゆあが好きだったのは

桜じゃなかった。


この風だった。


やさしくて、あたたかくて、

背中を押してくれる風。


晃介は涙を拭いた。

空を見上げる。

桜の向こうに、青い空が広がっている。


「……ちゃんと、ご飯食べてるよ」


小さくつぶやいた。

それから、ゆっくり歩き出す。

桜のトンネルの向こうへ。


風が吹く。

やさしい春風だった。

晃介は、ふと思い出す。


ゆあのフルネームを。


春風ゆあ。


晃介は、少しだけ笑った。

そして、空を見上げて言った。


「そっか……ずっと一緒に来てたんだな」


春風が、そっと吹いた。

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