表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
曙光  作者: 萌千兎さら
6/6

06. 曙光

05.曙光




夜明け前、小さなケトルでお湯を沸かし、珈琲を淹れる。


淹れたての珈琲の湯気が白く立ちのぼる。

カップを両手で包み、熱い珈琲で冷えた指を温める。


キャンプ場の空はまだ灰色を帯びていて、山の稜線の向こうに、わずかな光が滲み始めていた。


鷹村さんがカメラを肩にかけたまま立ち上がる。


俺も後に続いて、朝露に濡れた草を踏みしめながら一歩前に出る。


やがて、鈍色の雲の切れ間から朝の光が降り注いだ。



「――すごい……」


思わず、声が漏れた。

冷たい空気を吸い込むと、胸の奥まで澄んでいく。


シャッターを切る音に振り返る。


鷹村さんは何も言わず、その光景に見惚れる俺の方にカメラを向けていた。


思わず顔を赤らめる。


「ほら、いい感じ」


写真の中の俺は、頬が紅潮し、温かい息をして、まるで生きてるように見える。





それから、俺は東京の陸上競技場に通って、トラックを走る選手の真剣な姿をカメラのレンズで追う日々が続いた。


風を切って走る脚のしなやかさ。

吸い込む息と胸郭の動き、跳ね返る汗の粒。


素人のつまらない写真かも知れないけど、何かに心を砕けるようになったこと――それが嬉しかった。


初夏の日差しが眩しく降り注ぎ、トラックの白線を照らす。


――まだ遅くなんかない。


鷹村さんは、俺のそんな話を聞くたびにその若さが羨ましいと笑っていた。


そういえば、鷹村さんは何歳なんだろう。

今度、あのアトリエを訪ねたときに聞いてみようと思う。




99. The Light That Lies




その日、アトリエの鍵は開いていたのに、中には誰もいないようだった。

しんと静まり返る室内に足を踏み入れる。


作業台には試し刷りされた写真や印刷用紙なんかが無造作に置かれている。

自分の靴音だけが耳障りに響いて、悪いことをしているようで気持ちが悪い。


俺はつい興味が勝って、作業台の上の写真に手を触れると、一枚ずつめくっていく。

また屋外撮影に行ったのか、廃墟の写真たち。


――ふと、手が止まる。

知らない若い人を写した写真。高校生くらいの人が絞りを開いてぼかされた逆光のなかに浮かんでいる。


その瞬間、アトリエの奥のドアが開く音がした。

俺は咄嗟に顔を上げる。

気付かれないように、そっと、その写真を元あった場所に戻す。


「あれ……雄大(ゆうだい)くん」


鷹村さんの目が俺を捉えると、すぐにいつもの穏やかな顔を作る。


どうしたんだろう、鷹村さんの目が赤い。


「今日はどうしたの?」

「いえ………別に。近くに寄ったので」


「そう」


鷹村さんの視線が一瞬、作業台の淵にかけた俺の手に移った気がして、息を飲む。


「雄大くん、家、来る?」


――え?


「そのサンプル、興味あるならレタッチデータ見せてあげるよ」


「ちょうど昨日家で作業したくて、持ち帰っててさ」


いつもと少し、雰囲気が違う。

俺が口篭っていると鷹村さんが困ったように笑った。

「やめとこうか?」


「い……行きたいです」

声が上擦る。



――


アトリエから車で10分ほどの住宅街。

低い建物が並ぶ静かな一角に、鷹村さんの部屋はあった。


ドアを開け部屋に入ると、空気が重く感じた。

窓はカーテンで半分ほど閉じられていて、昼なのに部屋全体が灰色がかっている。


テーブルの上には、コーヒーの空き缶と、インスタント食品の容器。

パソコンのモニターには、レタッチ中の画像が開かれたまま止まっている。


色のない光が、モニターの中だけで瞬いていた。


「ごめんね、片付けてなくて」

靴を脱ぐ鷹村さんの声が、少し強張っている。


俺は小さく首を振る。


「そこ、座って。すぐデータ出すから」

言われた通り、ソファの端に腰を下ろす。

座面が少し沈む。


鷹村さんの指先がキーボードを軽やかに叩く。

液晶の白が、暗い部屋に溶けて、その横顔を照らす。


――冷たい色の光。


あのキャンプ場で見た山から登る朝日。

あのときの光は温かかったのに、今は眩しさの中に漠然とした不安が影を落とす。


鷹村さんが振り向き、口角を上げる。


「ほら、これ。さっきのレタッチ」


一人分、隣に詰めて座り直す。

鷹村さんの身体がすぐそこにある。


「前にキャンプしたとき、僕が言ったこと覚えてる?」

俺はその意図を図れず、黙って画面を見つめる。


「忘れるって、覚悟がいるんだよ」


「雄大くんは辛いこと、忘れられたかな?」


――なんか、いつもと違う。



「あ、俺……そろそろ帰らなきゃ」


ソファから立ち上がろうとしたそのとき、鷹村さんの手が俺の手首を掴む。

そのまま、力いっぱい肩を押され、ソファに押し倒された。


呼吸が深く震える。


キスをされ、舌を押し込まれ、俺の舌をなぞり、絡めとる。


――嫌だ。


喉の奥で息が絡まる。

手が、這うようにトレーナーの下の肌を登ってくる。


――声が出ない。

恐怖で瞬きできない、呼吸が荒くなって止まらない。


鷹村さんの瞳の中には俺がいない。


「や……やめろっ!!」


手首を捻り、俺は持てる力全てで鷹村さんを突き飛ばし、振り返らずに、部屋を飛び出した。


非常階段を駆け下りる。

外の光が急に目に刺さって、世界が歪む。

胸の奥からざわざわと不快なものが迫り上がってくる。


どうしよう。

車で連れて来られたから道がわからない。

追いかけてきたらどうしよう。

自分を探しているかもしれない。


怖い、怖い……。


脈打つ音が耳の奥で暴れて、呼吸の仕方がわからなくなる。肺に空気が入らない。


通りを抜け、横断歩道も無視して角を曲がる。

人の声が聞こえた気がして、反射的にそっちを見る。


――公園。


子どもと母親が数人、滑り台のそばにいた。

その穏やかな光景に吸い寄せられるように、気付けば公園の中へ駆け込んでいた。


足が止まった途端、全ての音が遠ざかっていく。

胸の鼓動も、息の音も。

静かで、穏やかな場所。


ずっと走ってきたから息が苦しい。

陸上をやっていた時はこれくらい何ともなかったのに。


水飲み場で口を濯ぐ。


吐き気がする。


どうして俺ばっかり――


足下で小さな子どもが転ぶ。

泣き出す子どもに慌てて母親が駆け付ける。


あやされて、撫でられて、庇護してもらえる。

欲しいものを与えてもらえる。



俺は……



同じだ。



公園を出るころには、空の端がゆっくりと朱に染まっていた。


街路樹の枝のあいだから、沈みかけた陽が覗いている。

風が通り抜けて、頬の汗をさらっていく。

湿った土の匂い、遠くで鳴く鴉の声。


西の空は、深い橙から群青へと滲み、

街の屋根やガードレールに、最後の光がかすかに残っていた。


どんなに陽が落ちても、

世界は、明日の朝を待っている。


俺は、ただその中に立っていた。

まだ何も変わっていないけれど、それでも、息をしている。


「……帰らなきゃ」



電車で、スマホが震える。


「ごめんね」


短いひと言。


そのままスマホをポケットにいれる。

電車の窓に映る自分の姿をみて、酷い顔だと思う。

けど、不思議と涙は出ない。


それから少し迷いながらも、もう一度スマホを取り出す。

画面に指を滑らせ、鷹村さんのアカウントを表示する。


――このユーザーをブロックしますか?


俺は画面を叩くと上を向く。

電車の蛍光灯の白が俺を照らしている。


乗客はまばらだけど、子供を連れた母親や、サラリーマン、老人、学生――いろんな人がいる。


きっと誰も、寄りかかる場所なんて与えてくれない。

それが悔しくて、自嘲する。


みんなのように、自分で歩きたいと思う。



――



春、父親の勧めで専門学校で電気主任技術者の資格の勉強を始めることにした。


新しいテキストのインクの匂い。

シャープペンシルが、真っ白なノートを擦る音。

小さな日常の音が、少しだけ優しく感じる。


……正直、未来のことはまだ何も描けない。


それでいいのかもしれない。


カメラは棚の上で、静かに眠っている。

時々レンズを拭いているから、窓から差す光を受けてまだ輝いている。


今は、自分を信じられるようになる途中だから。


カメラの形をなぞる。


もう一度、誰かを信じたいと、そう思えるようになったら。そしたらまた撮ろう。


日常に差す光の中で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
また一方的な感想になってしまいますが、気持ちを吐き出したく……。雄大の心情を思うと本当に悲しかったですが、鷹村さんの台詞がとても良かったです。相手の心に踏み込みすぎずに寄り添う言葉をかけてあげれられる…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ