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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

儚くは

作者: 入江 涼子

 ある初秋の日、若い女が荒れ狂う海に面した断崖絶壁の端に佇んでいた。


 ざっぱんと何度も激しく波が打ち付ける。風が強く吹き、女の腰まである長い髪を乱す。着ている衣の裾も巻き上げられそうだ。女はそれを両手で押さえる。


(……まさか、遮那王様が兄君に疎んじられるなんて。このまま、落ちのびていっても。あたしは見捨てられるわね)


 女は諦めの境地で荒れ狂う波や風の中、小さくため息をつく。そして、両膝を曲げ、力いっぱいに跳躍した。途端に崖から真っ逆さまに落下していく。悲鳴もあげずに女は高い波に飲まれるのを許した。ざぱっと小さく、海水の中に体が打たれる音が響いたが。すぐに小柄で華奢な体は揉まれ、海中に沈んでいった。


「……ゆ、夢乃。目を覚ましてくれ!」


 女こと、夢乃は聞き覚えのある低い男性の声で意識が浮上した。が、瞼や体が異常に重苦しい。それにかっかと頭や全身が熱くて不快さが満点だ。仕方なく、ゆっくりと瞼だけは開く。


「……うん?」


「あ、夢乃。意識が戻ったか」


 そう言って覗き込んできたのはまだ、二十歳を幾つか越えたくらいの若い男性だった。夢乃にとっては意外で。けど、慕わしくも懐かしい人物だ。


「……しゃ、なおうさま?」


「そうだ、俺だ。遮那王だ!」


 夢乃はあまりの事に頭がぼうとした。声が出ない。男性もとい、遮那王は背中の真ん中まで伸ばした真っ直ぐな黒髪を後ろで一つに束ねている。淡い藍の下襲に白い水干を重ね、濃い蘇芳の指貫と言った出で立ちだ。

 きりっとした眉や目元、軽く日に焼けた肌がなかなかに精悍さを放っている。誰もが感嘆する美丈夫だ。こんな才に恵まれた方に平平凡凡な自身が助けられるとは。あまりの情けなさに泣きそうになる。


「わたしをなぜ、たすけて……」


「……お前な、俺が見つけなかったら。溺れてあの世行きだったんだぞ。そんな助けてほしくないとか言わないでくれ」


「……だって」


「夢乃、今はとにかく休め。水や薬師が処方した薬を持ってくるから」


「わ、かりました」


 頷くと、遮那王は夢乃の頭を軽く撫でた。大きな手の温もりに不思議と安心する。とろとろと眠気が次第にやってきた。


「ゆっくりと休んだら良い」


 遮那王の優しい声に小さく頷く。夢乃は眠りや彼の手の温もりに身を委ねた。


 次に目が覚めると辺りは薄ぼんやりと明るくなっている。夢乃は目だけを動かす。きょろきょろと見回すが、ちょっと誰の邸なのか見当がつかない。

 不意にがらりと障子戸が開けられた。入ってきたのは昨夜と同じく、遮那王その人だ。


「ああ、夢乃。目が覚めたみたいだな」


「……はい」


「丁度良い、水と薬を持ってきた。大丈夫そうなら、汁物か葛湯でも用意しよう」


「分かりました」


 頷くと遮那王は側近くに来て座った。両手にはお盆があり、木の椀や薬包が三つばかり載せられている。傍らにそれを置く。夢乃は遮那王に助けられながら、起き上がった。


「さ、水だ。持ってくれ」


 夢乃は返事の代わりに受け取る。次に口を開けるように言われ、従う。遮那王は慣れた手つきで薬包の一つを取り、開けた。


「これは化膿止めだ、痛み止めや熱冷ましもある。まずは化膿止めからな」


 夢乃は小さく頷く。遮那王は開けた口にさらさらと薄い茶色の粉薬を入れた。全てを包みから出し切ると手が離れる。夢乃はすぐに水を飲んだ。口を閉じて飲み込む。


「……!?」


「よし、飲めたな。痛み止めや熱冷ましも一緒にな?」


 涙目になりながら、頷いた。後の二つもちゃんと服用したが、あまりの苦さに悶絶する。


「……ちょっと、葛湯を用意してくる。夢乃は横になれよ?」


「はい、何から何まですみません」


「礼はいい、代わりに休んでいろ」


 夢乃は言葉に甘えて横になった。遮那王は木の椀を取るとお盆に戻す。持って立ち上がり、部屋を出て行った。また、じわじわとくる眠気に抗わずに瞼を閉じた。


 夕方になり、夢乃は再度目を覚ました。遮那王が側にいて、両手にはお盆がある。ほかほかと湯気が立ち上っていた。


「夢乃、葛湯を持ってきた」


「あ、遮那王様。今は何の刻限ですか?」


「……確か、とりの刻だな。もう、夜も更けてきた」


 酉の刻と聞いて、夢乃は驚いた。もう、そんな刻限とは。確か、昨夜辺りは熱が出ていたか。水を飲ませてもらったり、薬も服用するのを彼は助けてくれた。下級貴族の出身でありながら、遊び女に身を落とした自身には過ぎた扱いだ。


「夢乃、刻限を気にするようになるまでは回復したみたいだな。けど、お前が入水して助け出した夜からだと。既に二日は過ぎているぞ」


「え、本当ですか?!」


「ああ、今日で丸々それくらいは経つな。薬師に診てもらったが、頭を打ってないだけでも運が良い方だ。しかも、全身に打ち身やすり傷などが無数に出来ている。冷たい水の中に長くいたから、体も冷えきっていた。お前の衣を脱がせて温めるのには苦労したぞ」


 夢乃は最後の言葉に二の句が継げない。ぱくぱくと口を開いたり、閉じたりを繰り返す。下がった熱もぶり返しそうになった。


「……なっ、遮那王様がその。私の体を温めてくださったんですか?!」


「ああ、他に誰がいる。着替えはさすがに女房にやらせたがな」


「い、いえ。あの、やはり衣を……?」


「……剥ぎ取って温めた、何か問題でも?」


「ありませんけど」


 夢乃は顔に熱が集まるのがありありと分かった。やはり、元は恋仲だが。それでも、異性に肌を見せるのは抵抗があった。しかも、たぶん遮那王自身も衣を脱いで温めたのは確実だ。


「……まあ、遮那王様とは何度も夜を共にした仲ですけど」


「夢乃、それよりは。早く葛湯を飲んでくれ」


「はい!」


 慌てて、夢乃は返事をした。木の椀に入った葛湯を受け取り、ゆっくりと味わう。遮那王はそれを微笑ましげに眺めていたのだった。


 あれから、甲斐甲斐しく遮那王は夢乃の看病を続ける。半月もしたら、夢乃は普通に食事をとれるようになっていた。まだ、外に出たりは出来ないが。代わりに部屋の中を歩き回ったり、軽く舞の動きのおさらいをした。夢乃は本来、白拍子しらびょうしと呼ばれる類の遊び女だ。男装して舞や歌を披露し、請われたら枕席ちんせきにも侍る事がある。

 ある夜に宴席に呼ばれ、舞などを披露していたら。熱心に見つめていたのが遮那王だった。彼に後で声を掛けられ、夜を共にしたが。そうして請われて遮那王の住む邸で暮らすようになった。

 が、幸せな時間は短かった。遮那王がこの成和国せいわこくを治める兄君から、謀反を疑われたのだ。すぐに彼は無実を訴えたが、聞き入れられなかった。結局、遮那王は蟄居を命じられる。夢乃もそれを聞いて行動に移す。自身がいては彼の足枷になる。だから、身を崖から投げたのだった。


 けれど、何故か夢乃は生きて遮那王と一緒にいる。


「どうした、怪訝な顔をして」


「あの、遮那王様は蟄居をなさっていたはずですよね?」


「ああ、そうだ。ちなみにここは四条大宮の邸ではない。都の外れの小野にある邸だ」


 やはりと思う。なら、遮那王には多大なる迷惑を掛けてしまった。


「遮那王様、私はもう体調も戻ってきました。今なら、小野のお邸を出てお暇も出来ると思います」


「何故だ、ここにいたら良いではないか」


「そう言う訳にはいきません、私がいたら。あなたに迷惑を凄く掛けますし、足枷にもなりかねないです。分かっておられるでしょう?」


「構わん、言いたい奴には言わせておけば良い。夢乃、何が嫌なんだ?」


「私は。遮那王様には相応しくありません、正妻には絶対になれないですし」


 夢乃が涙ぐみながら言うと。遮那王は大きく、ため息をついた。


「それを言うなら、俺が夢乃の足枷になるな。お前を自由にしてやりたいが」


「はあ」


「けど、お前を手放したくない。許してくれるなら、ずっと共にいたいんだ」


「え、遮那王様?!」


「駄目か?」


 遮那王は普段では見られない柔らかな笑顔で夢乃の返事を待つ。夢乃は今度こそ、泣きながらも頷いた。


「……私は構いません、けど。ずっと、蟄居のままでいるかもしれないですよ」


「それは仕方ないと思ってくれ、出来る限りは夢乃を困らせないように尽力する」


「分かりました、これからよろしくお願いします。遮那王様」


「ああ、夢乃。いや、静子。よろしく頼む」


「はい」


 夢乃は両親が名付けてくれた静子という真名しんなを遮那王が呼んだ事に驚く。


「いや、お前の姉君に後で詳しい話を聞いてな。夢乃の真名も教えてくれた、本当に姉君には感謝しているよ」


「……私の真名を、もう呼んでくれる人はいないと思っていたわ」


「そうか、姉君は洛西にある小さな庵で暮らしている。また、機会があったら一緒に行こう。姉君も喜ぶと思うぞ」


「ええ、姉様にまた会えるなんて。遮那王様、ありがとう」


「静子、礼は良いって言ったろう。お前には今後、頑張ってもらわないといけないしな」


 にっと遮那王は笑った。静子はまた、顔に熱が集まるのが分かる。けど、嫌ではない。代わりに意趣返しとばかりに遮那王に抱きついたのだった。


 ――完――


 

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