ジョジョの奇妙な生活
すごくベタで王道なボーイ・ミーツ・ガールをお楽しみ下さい。
数日前から、僕のお尻には腫れ物ができている。原因は何か分からない。
虫に刺された記憶もないし、変な物を食べた自覚もない。今のところ痛みもないので、放っておけば自然に治るだろうと楽観していた。
けれどお尻の腫れ物は段々と大きくなってきて、下着を穿くのに邪魔になり、座った時に感じる違和感も無視できなくなってきた。これはそろそろ病院に行った方がいいかなと思った頃だった。
それは、ある朝の出来事だった。
「起きなさいよ、健一! いつまで寝てんのよ!」
出し抜けに、僕を起こす女の子の声が聞こえた。おかしいな、僕はアパートの一人暮らしで、僕を起こしに来るような女の子の友達もいない。空耳の類かと思い、僕は二度寝を決め込んだ。
「あんたバカァ!? どうしてそこで布団に戻るのよ? せっかく私が親切にも起こしてあげてんのよ、さっさと起きなさいこのクズ!」
何者かにクズ呼ばわりまでされて、流石に僕も目が覚めた。万年床から体を起こしてアパートの部屋を見渡してみたけども、おかしな事に誰も視界に入らなかった。うん、いつものアパートだ。
……やっぱり、幻聴だったのだろうか。そんな事を思っていると、姿なき声は続けて僕の耳に聞こえてきた。
「ようやくお目覚めね。まっ、この私が起こしたんだから、当然でしょ! さあ、目が覚めたならさっさと朝ご飯を作って食べなさい! 日曜だからってダラダラしてると、将来ろくな男にならないわ!」
謎の声に急かされるまま、僕はトーストを焼く。少しでも反論しようものなら途方もない罵声が飛んでくるので、僕は言いなりになるしかないのだ。……我ながら、押しに弱い性格だと思う。
トーストの焼ける良い匂いが漂う。寝起きでうまく回らない頭も、この頃になってようやく動き始めた。
「……すっかり聞くのを忘れてたけど、君は一体誰なんだ? 姿も見えないし、どこかに遠隔スピーカーでもあるのかい?」
僕の質問に、相手のあきれ返る雰囲気が伝わった。
「……普通、そういう事はもっと早く聞くんじゃない?」
仰るとおりで。
「ま、いいわ。私も自己紹介忘れてたから、人の事言えないわね。初めまして、かしら。私の名前はジョゼフィーヌ=ジョラーガよ、よろしくね」
「よろしく。ジョジョさん」
僕は親しみを込めて、彼女をそう呼んだ。
「ジョジョはやめて。ジョゼフも不許可ね。ジョゼでお願いするわ」
完全に裏目だった。
「あんたの事は、よーく知ってるわ……春日健一。大卒の就職浪人で、今はしがない三十路前のフリーター。将来の夢も希望もなく、漫然と日々を過ごす……言わば、社会の難民層ね。親しい友人も恋人もなく、趣味はテレビゲーム。お尻に大きな蒙古斑が残っているところがチャームポイント……というには、少し苦しいかしら」
「な……なぜ、君がそんな事まで知っているんだ!」
特に蒙古斑なんて、親にしか知られてない事なのに! 初対面の相手に赤裸々に個人情報を把握され、僕は空恐ろしくなった。
「き、君は……一体、何者なんだ」
「あら、悪いようにはしないわ。それどころか、私はあんたの味方よ。なぜならば……あんたと私は一心同体なんだからね」
どういう事なんだろう。一心同体?
「――もう、鈍いわね! 私はあんたのお尻なのよ、お尻! あんたのお尻の腫れ物が変じたのが、この私なのよ! あんたの体の一部なんだから、あんたをよく知ってて当然でしょ?」
「……な、何だってー!? 君が……僕のお尻!?」
驚き、慌てて手鏡で臀部を確認しようとした。すると、静止がかかる。
「待って! お願い、私を見ないで! だって私、何も着てないんだもの……。乙女の裸を見るだなんて、そんな変態行為はやめなさいよこのスケベ!」
ジョゼはぷりぷりと怒った。尻だけに。
「いや、だって。僕のお尻でもあるわけだし……。どうなってるかぐらい、確認してもバチは当たらないでしょ?」
僕が言い返すと、ジョゼは猛然と抗議をした。
「あんた最低! どうしても私の裸を見たいのね? 男として最悪よ最悪、いいえゴミムシだわ! 豆腐の角に頭ぶつけて死んじゃえこの人でなし! いやあぁ犯される汚されるううぅ!」
自分のお尻にゴミムシ人でなし呼ばわりされ、少し落ち込む僕にジョゼは畳み掛けてくる。
「いい事? どうしてもあんたが私の裸を見るなら、こっちも考えがあるからね! 私はあんたのお尻なのよ、あんたがトイレを使うような時……どうなっても、知らないからね」
それを聞いて、僕の背筋に寒気が走った。そうなのだ、彼女は僕のお尻なのだ。ジョゼがその気になれば、僕は便意を催すたびに思いもよらない方法で彼女の制裁を受けるのだ。……悪夢だ。
正直、僕が彼女に逆らう勇気はもうなかった。
「分かった、分かったよ。じゃあ君の姿は見ない。その様子じゃ、病院に行く……というのも、ダメだよね?」
「もちろんよ。医者とはいえ、他人に裸を晒したくないもの。もし病院に行ったら、行かなきゃ良かったと後悔するような目に遭わせるからそのつもりでね」
「――はい、分かりました。ジョゼさん」
僕は、自然と敬語になっていた。僕よりお尻の方が上、という力関係は歴然としていた。
「……で、ジョゼさん。僕は何をすればいいんでしょう」
この自我を持ったお尻が、何を目的としているのかは是非知らなければならない。身の保全のためにも。
「良い心がけね。安心なさい、私はあんたの味方と言ったでしょ? 私の目的はね、あんた自身よ」
「僕……自身?」
「そ。日曜の朝っぱらから布団でゴロゴロするようなダメ人間を、私が更正してやろうっての。感謝しなさいよね」
「でも、貴重な週一の休みですし。寝不足で疲れてますし」
「つべこべ言わないの! あんたが就職してエリートになり、暮らしも立派になれば私の待遇もよくなるんだからね。今のような和式便所で安物トイレットペーパーを使う日々からおさらばして、最新式のウォシュレット便座で優雅に高級トイレットペーパーをたくさん消費する毎日を目指すのよ!」
ははあ、つまり待遇改善か。仕方ないよなあ、みんな貧乏が悪いんや。
「そのついでに、あんた自身も立派になれば……その……」
ジョゼが言い淀んでいる。何だろう? 僕が不思議そうに悩んでいると、また彼女から罵声が飛んできた。
「べっ、別にあんたの為じゃないんだからね!? 勘違いしないでよ、このバカ!」
そりゃ、誰だって自分の為に動くよなあ。勘違いするなと言われたので、僕はますます彼女が恐ろしい野心家に思えてきた。どうしよう、僕のお尻は下手したら世界を統べる器なのかもしれない。
ともあれ、こうして僕とジョゼの奇妙な共同生活が始まったのだった。
ジョゼとしばらく暮らしていて、分かった事がある。ジョゼは僕には強く出るけども、案外優しい心の持ち主かもしれないという事だ。
僕が公園で散歩しているとき、野良猫と遭遇した。野良猫のワイルドな視線だけで僕はもう負けた気分になって、その場を去ろうと思ったのだけれど、ジョゼは反対した。しまいには猫に触った事がないという彼女のリクエストに応えて、僕はお尻を猫に近づける羽目になったのだ。いつ引っかかれるかとドキドキしたけども、ジョゼには逆らえないので仕方ない。
すると意外にも猫はジョゼに懐き、ゴロゴロと喉を鳴らしてすり寄って来たのだ。これなら僕もいけるかな、と手を出したら、案の定引っかかれた。凄く痛かったし、「猫心が分かってないわ」とジョゼに馬鹿にされた。けれども帰宅後、「傷を見せなさいよ、ドジ」とけなされつつ彼女は傷の手当てを指示した。まあ、実際に治療したのは僕だけど。
また、彼女は読書も好きらしい。なかでも恋愛小説が大好きで、流行の恋愛小説を買えとせがまれて、ついには購入させられてしまった。僕が視覚情報として本を読めば彼女も同じ内容を読めるそうなので、僕は好きでもない読書を強要された。僕はそもそもこの小説に書かれているような立派な人間じゃないので、全然感情移入できなかったが、、ジョゼは感動したようでしきりに泣いていた。僕の意思とは無関係におならが出たので、ひょっとしたらジョゼのしゃっくりか何かだったのかもしれない。
その後もジョゼとの生活は続いていたが、僕を立派にするなんて言っておきながら、特訓めいたものは何も無かった。むしろ、ジョゼとの相手ばっかりに一日を費やしているような気もする。
こんな日々でいいのか少し気になったけど、彼女の相手をしてる限りジョゼは上機嫌のようだし、藪を突いて蛇を出したくなかったので特に口に出すような事はしなかった。僕もしんどいのは嫌だし、この生活も慣れてしまえばむしろ楽しかった。
だけど、終わりの日は突然にやって来た。
最近流行の食中毒である、ノロウイルスにかかってしまったらしい。あの日のアサリが原因だったかもなと思いつつ、僕は猛烈な嘔吐感と腹痛に襲われた。急いで公衆便所に駆け込んだ時、ジョゼの声がした。
「健一、健一! 大丈夫!? しっかりしなさい、あんた男でしょ!?」
「はは……無理だよ。僕は猫にも負けるような人間だもの」
「弱音吐くんじゃないわよ、バカ! ノロウイルスなんかに、あんたを殺させてたまるもんですか……!」
便器の上でうずくまり、腹痛に悶える僕を見かねたのか、ジョゼな何か行動を起こしたようだ。僕の腹部から下肢に渡り、何か違和感がする。
「ジョ、ジョゼ……? 君は、一体何を……!?」
「あたしの力で、あんたの体内のウイルスを全部駆逐してやろうじゃないの……!」
もごもごと蠕動する僕の腸内。何となく、自分がクリーニングされている感じだ。腹痛も、心なしか治まってきている気がする。
「ジョゼ……。君、こんな事もできたんだね」
いつも威張ってばかりだったので、僕は少し彼女の事を尊敬した。実際、彼女の助力は非常にありがたい。
でも、対するジョゼの声は暗かった。
「ええ……。でもね、私はこの力と引き換えに消えてしまうわ。さよならというわけね、健一」
「え、ええ!?」
僕は驚いた。ジョゼが消えるって……!?
「嘘じゃないわ。今も消えていく自分を感じるもの……」
「じゃ、じゃあ止めようよ! 君を失ってまで、食中毒を治したくないよ!」
僕は慌ててジョゼを止める。けれども、ジョゼは悲しそうに首を振ったような印象を受けた。
「ごめん、それは聞けないわ。私はあんたのお尻よ、あんたの体の事はよく知ってるもの。このまま食中毒が進めば、免疫力の低いあんたは肺炎や胃腸炎を併発して死に至るわね。だから、私が止めなきゃいけないの……!」
「そんな、ジョゼ……!」
ああ、こんな事になるなら極貧生活で食費を切り詰めるんじゃなかった! それもこれも、貧乏が悪いんや。おのれ貧乏!
「……そんな悲しそうな顔をしないで、健一。私は消えるけど、それでもお尻としてあんたとずっと一緒にいるんだから」
ジョゼが珍しく僕を慰めてくれる。でもそれが逆に、この会話が最後の挨拶だという事を僕に悟らせ、ますます悲しくなった。
「ジョゼ……。思えば、僕は君に色んな物をもらってばかりだった。まだ、僕は君に何も返せていないんだよ。立派になるという約束だって、果たしていないままで……」
「ああ……そういえば、そんな話もあったわね。でも、そんな事はもういいの。これからは、あんたが好きなように生きるといいわ」
その時、僕にはジョゼが笑っているように思えた。涙もろい彼女は、泣きながら笑っていると……。
「あんたと過ごした数週間、悪くなかったわ。出来の悪い弟を持ったみたいで、楽しかった……」
ジョゼの声は、どんどん小さくなっていく。
「僕はむしろ、罵倒される度に心臓が止まりそうだったけどね」
彼女を引き止めるために、柄にも無い冗談を言ってみた。ジョゼはくすりと笑い、「お望みなら何度でも罵ってやるわ」と言ってくれたけど、声のボリュームは小さくなっていくばかりだ。もはや、止められそうにない。
「ジョゼ……!」
「最後だから言っておくけど、私ね。最初からあんたの事が……」
ジョゼの言葉は、そこで途切れた。腹痛は、もうとっくに止んでいる。僕は大きな喪失感に襲われて、叫んだ。
「ジョゼ……! ジョゼフィーヌ! 返事をしてくれ!」
けれど、それに答える声はもう返ってこなかった……。
その日以来、ジョゼは僕の前から姿を消した。お尻の腫れ物も引いていて、病院に行く必要もなくなったようだ。けれども、この胸にぽっかり空いた寂しさは、治りそうもなかった。
ジョゼ。彼女と出会ってから、僕は本当の意味で生きていたような気がする。毎日が充実し、楽しかったとさえ思う。……もう、あの日々には戻れない。
今の僕に出来る事は、ジョゼが望んでいたように、少しでも僕自身が立派になる事だと思う。そのためには、毎日の積み重ねで少しずつ自分を磨いていくべきだ。今は資格試験に向け、勉強中だったりする。
こんな話を人にしても笑われるか、信じてもらえないだろうけど。僕は、ジョゼとの出会いを忘れない。誰が何と言おうと、彼女が僕を変えてくれたのだから。
でも、あの日から僕は毎晩お尻を手鏡で確認しているんだ。また、不思議な腫れ物ができていないかと期待して。
おしまい
――いやぁ、ノロウイルスは恐ろしいですね!
皆さんも、食中毒には気をつけましょうね★