7 無自覚の領域 〜 Ao side
三限目から出るつもりで、レポートを纏めた後、図書館から出ると。
そこに、みちるがいた。
俺に会ったことに、何故かすごく驚いたようで、
「な、んで、いるの……?」
と聞かれた。
「なんでって」
たまたまだろ。と、返そうとして……みちるの声が、震えていたことに気づく。
「……みちる? どうかした?」
様子が、ちょっとおかしい。
「なんか、あった?」
と聞いたけど、それに返事はなくて。そのかわり、
「この後、空いてる?」
と唐突に尋ねられた。
少し前まで、泣いていたように見えた。だから、
「いいよ」
と返事した。後の予定は、なんとかなるだろ。
「……ロープウェイ、乗りたい」
「いきなり?」
「うん」
それからみちるは、ハーブ園でラベンダーソフトが食べたいと言った。決定事項らしい。
大学を出て、駅までの道を下る。
なんで泣いていたのか、気にならないと言えば嘘になるけど。
みちるが、その理由を振り切ろうとしているなら、ただその手助けができればと思う。
他愛ない話を挟みながら、駅まで降りて、いつもと違うバスに乗る。ここからは、ちょっとした非日常。
バスは、山手幹線を西に走る。座れはしないが、それほど混んでもおらず、隣に立って十分余りでロープウェイ乗り場に着いた。
夢風船という名の赤いゴンドラが一列に並ぶ様は、秋の空に映える。
滑らかな動きは意外に早く、ゴンドラがすっと目の前にやってくる。行き先には、ハーブ園。
赤いゴンドラに乗り込むと、
「強風だとすぐ止まるんだよ、これ」
と、みちるは得意げに言った。
「じゃあ、今日は、天気も良くてラッキーだな」
眼下に、すぐに海が広がってくる。
空も海も、青くて。ゴンドラの窓越しに海を見ている彼女の、横顔にもう涙はない。
「綺麗だな」
景色じゃなくて。
「うん」
そしてゴンドラは、頂上駅に着いた。
ハーブ園をまったり周りながら、
「6月とかなら、ラベンダーがいっぱいだったのかな」
と、みちるは季節が違うことを少し残念がっていたけれど。
ハーブ園は季節の花々にあふれていた。
お昼は軽めにパスタで済ませたあと。
オープンカフェで、みちるは、お目当てのラベンダーソフトを頼んだ。
俺はハーブ園のオリジナルブレンドをホットで。
「なんでソフトにしなかったの?」
みちるが言うけれど、普通の倍くらいの高さのソフトクリームなんて、
「その量はいらん」
だろ。
「そんなに食べると、冷えるぞ」
と言ってやると、みちるは、
「じゃあ、アオが半分食べて」
クリームの渦巻きに刺さっていたスプーンで、アイスを掬って差し出す。
……いやいやいや。
俺に、これをどうしろと。
「お前な……そういうとこ、だろ」
と言いつつ、脱力した。
「だって、アオだったら、わかってるし」
変な誤解もしないでしょう、と見上げてくる。
……はあ。
誤解は、しないが。みちるは、自分の威力をわかってない。
上目遣いのみちるから目を逸らし、俺は、強引にみちるからスプーンを奪い取った。もう一度スプーンをソフトクリームに差し込み、大量のアイスを乗せる。
山盛りのクリームを一口で食べると、
「アオ、取りすぎ!」
みちるが憤慨した。もともと差し出したのはそっちのくせに。
「ん、いける」
ラベンダー味も美味い。
それからやっとラベンダーソフトを口にしたみちるが、
「……美味しい」
と顔を綻ばせた。
「食べられて、よかったな」
「うん」
素直だな。
みちるは幸せそうにソフトクリームを食べて、満足したようだった。
「帰りは、街まで歩きでいい?」
「いいよ」
ロープウェイも片道分しか払ってなかったし。
花々の小路をゆっくりと歩く。
段々畑のように広がる緑の丘と花と、ドイツロッジ風の建物が点在している。
「あのね」
みちるは、言った。
「アオに、会う前。将暉に……あ、この前別れた人なんだけど、捕まっちゃって。それで」
ちょっと待て。この前の、男だよな?
「無理だって言ったのが、やっぱり納得できないって」
いつまでも、引っ張る奴だな。
「理由は言いたくなかったんだけど……結局バレちゃって」
バレた、って。なんか、された、のか?
「それ……大丈夫だったのか?」
「うん……腕を、掴まれた」
……!
「それと……すごく、近づかれて」
って、それ!!
「思わず思い切り押しのけちゃって」
セーフか、セーフだったんだよな?
「で、バレちゃって……もう、こんなのごめんとしか言えないよね」
……わざと軽く言ってるだろ。
「で、まあ、向こうも納得するしかなかったというか……ちゃんと、さよならできました」
そっか。
「アオにはね、最初っから醜態晒してるから。けじめがついたよって、報告しとかなきゃって」
「それ、……よかった、って言っていいのか?」
じゃあ、なんで、泣いてたんだ? 触れられたのが、嫌すぎた……とか?
「うん……一区切り」
「そっか」
何故かモヤモヤしたものの、みちるの、どこかすっきりとした表情を見ていたら、頷くしかなかった。
ハーブ園を出て、緩いハイキングコースとも住宅街とも言えるような山の手をさらに下る。
「試してみよっか」
俺が言うと、
「なに?」
みちるは不思議そうに首を傾げた。
「付き合ってない状態だったら、どうなのか」
自分でも、なんでそんな事を思ったのかわからないけど。
なんとなく……なんとなく、面白くなくて。
隣を歩くみちるの手を取る。
手を、繋ぐ。
その瞬間、伝わる震え。
「無理?」
手は離さないまま、聞く。
少し俯いたみちるの顔は見えない。でも、立ち止まることはなく。
「……大丈夫、そう」
小さな声が聞こえた。
なに、これ。
なんか、凄く……。
「アオは、友達だから、かな?」
みちるの言葉が、震えた心に水を差す。
友達が、手を繋ぐのか?
いや、付き合ってない相手だったら大丈夫かどうかを試してみたわけで。だったら、これが正解?
「わかったから、もういいでしょ」
みちるが俺の手を振り切って、
「アオも、こういうの誤解を招くよ」
と子供を叱るように言う。
「誰の?」
「んー……彼女さんとか?」
茶化すように言うみちるに、何故か少しイラッとする。
「あれ以来、彼女いないから」
不機嫌が声に出て、
「なんか、ごめん」
みちるを謝らせてしまった。
話しながら降りてきて、周りの景色が住宅街から段々街中のそれに変わってきた。
あと少し歩けば、懇親会の後みちるを送った駅に着く。
「今日は、ありがと」
みちるが言った。
ああ、駅まで、だな。
大学から、ハーブ園を回って。まだ午後の早い時間だけど。俺に引き留める理由はないし。
「急だったのに、一緒に行ってくれて」
「ああ」
「また、ゼミでね」
「ん」
そういえば、接点は、ゼミだけだった。
「じゃあ」
改札前で手を上げ、みちるが、改札にICカードを翳すのを見ていた。
振り返らない彼女が、エスカレーターに消えるのをぼんやり見送る。
……俺は、何をしてるんだか。
三限は、もうそろそろ終わる時間だった。今から戻っても、間に合わない。
必修科目だったので、とりあえず教務課に電話し、やむを得ず欠席する旨と、教授への連絡をお願いした。
結局、教授からは、後でレポートを提出するのと、その日の講義内容を自習して、それも追加レポートで出せと言われた。
講義資料はダウンロードしたが、細かい内容は聞くしかないので、同じ講義を取っている和哉に頼んだ。
「アオが抜けるなんて珍しいよな」
と言いながら、和哉は翌日の空いた時間に講義内容を教えてくれた。
「一番めんどくさい教授の必修なのに。なんかあった?」
「……別に」
大学生協のコワークスペースで、和哉に講義ニュアンスを聞き、メモデータを転送してもらう。
「もしかして女?」
「なんで」
「アオがそういうの、珍しいから……女の子絡みだったら、余計」
どれだけ珍しいを言うんだコイツは。
「女子絡みだったら、なんだよ?」
「アオが必修放り出して動くほど、って初めてだろ」
……泣いてたからな。
「アオにもやっと、そういう気持ちが芽生えたかと思うとさ」
なんだか妙にしみじみと言われた。
ん?
「そういう気持ち?」
俺が聞き返すと、
「え?」
和哉は、びっくりしたように俺の顔を見た。
「気づいてなかった?」
気づく?
「あーーー、アオ、もしかして、いっつも告られて付き合ってた?」
だから?
「これだから顔のいいヤツは……。いいよ、もう。気づいて、苦労しろ」
和哉は、呆れたように言って、
「データは、アオの遅い初恋のご祝儀にしといてやるよ」
と肩を叩いていった。
恋……なのか? まさか。