6 美味しいものの真理 〜 Michiru side
パンケーキのご招待で、気持ちのリセットが出来た気がする。
ハードルの高い男女のお付き合いも、私なりにやっていくしかないから。
翌週からのゼミも、波風立てることなく参加できた。
あの時の話題は、ちょっとキツかったけど、そんな恋愛談義には、普通ならない。グループとしてはやりやすいし、メンバーにも恵まれている。
そうして、十月も半ばに入って。
いつもは一佳ちゃんと一緒の木曜一限の社会学を、その日は、たまたま一人で受けていた。
ごめん、起きられなかったと講義中に一佳ちゃんからメッセージが来た。前日にバイト先で飲み会があったそうだ。
この選択科目は、前に付き合っていた松田将暉も取っている。去年は講義が結構被っていたけど、今期は、これだけ。
あんまり接点がないから、気まずさの点でも助かっていた。
講義終了と同時に、教室を出ようとした時、
「みちる!」
呼びかけられた。
そのまま出ようとしたけど、不意に腕を取られて立ち止まる。
「ちょっと待てって」
将暉が回り込んで来た。
「来て」
将暉は、有無を言わせず、そのまま私の手を引いて歩き出す。
そういう接触じゃないけど……なんだか、気持ち悪い……。
「離して」
「離すと、無視してどっか行こうとするだろ」
「離して」
「お前、メッセージも拒否ってるし。ちょっと話したいだけだから」
「わかった、から。離して」
ずんずんと教室から連れ出され、やっと将暉に手を離してもらえたのは、校舎棟の裏手、テニスコートの金網の側まで来てからだった。
近くのコートには練習している学生もおらず、人通りも少ない。
「なあ、みちる」
将暉は、言った。
「考えなおそう」
今さら?
「今んとこ、誰とも付き合ってないみたいだしさ。だったら、俺、お前が無理なとこ直すし」
「……無理だよ」
「だから、何が無理なのか、言ってくれないと」
やっぱり納得できないと、将暉は言う。
将暉とは……一年の後期から、英語のレポートを何人かで一緒にやったり、ドイツ語のテスト対策でも一緒になったりして、仲のいい友達って感じになって。
その前の彼氏と別れた時に、付き合おうと言われた。迷いながらも、いい友達だったから、だから、大丈夫かもしれないと承諾して。
「俺ら、楽しかったじゃん。みちるは、そうじゃなかった?」
「……楽しかったよ」
付き合い始めるまでは。
「だったら、なんで」
「言いたく、ない」
だって、そんなの、理不尽過ぎる気がして。
「なんで!?」
将暉が、縋るようにまた私の腕を取った。
ぞわっと悪寒が走り、私がビクついたのが彼に伝わってしまったようで、
「みちる……もしかして」
将暉が手を離す。
将暉は、それでも友達だったから、別れたばっかりの私に気を遣ってくれていたんだろう。すぐには友達以上の接触に進もうとしなかった。
だから、しばらくは付き合えたんだけど……。
「無理、って、そういう……」
将暉が口籠る。
初めて手を繋いだ時。将暉は、嬉しそうだったから、なんとか耐えた。体調が悪くなったと言って、その日はデートを切り上げて帰らせてもらって。
耐える、なんて。ごめん。本当に無理としか言えない。
「だって、こんな彼女、無理、でしょう?」
手を繋げない。もちろんキスもそれ以上も。
「みちる……」
将暉の目が戸惑いに揺れている。それがわかるほど顔が近いことに気づいて、愕然とすると同時に、
「嫌!」
思いっきり将暉の身体を押しのけていた。
数歩後ろに下がった将暉が、
「そ、っか。そういう無理……」
と呟いた。
「ごめん……」
「なんで、みちるが謝るの」
「だって、将暉は悪くない」
将暉から、それまでの思い詰めたような切迫感は抜けていて、
「……じゃあ、泣くな」
そっと両手を伸ばしてきた。けれど、その手は、触れる手前で止まり。
「そんな顔で泣かれたら、抱きしめたくなる」
思わずまたビクついた私に、将暉はさっと手を引っ込めた。
「わかった、から。……無理なんだな」
「うん」
「もう、問い詰めたり、しないから」
「……うん」
「さよなら、みちる」
「さよなら」
将暉が、去っても。
テニスコートの金網に寄りかかってしゃがんで、私はしばらく動けなかった。
「どうかされましたかー」
テニスコートから、声がかかった。
「大丈夫ですかー」
しばらくしゃがんでいたのを、具合が悪くなったと思われたようで、奥のコートから練習していた人たちがこちらを見ていた。
「大丈夫ですー」
ちょっと声を張って立ち上がり、こちらに来ようとしていた人を制して、
「もう、行きますねー」
軽くお辞儀した。
それからテニスコートから離れて、校舎棟を周り、図書館の前まで来た。
今さら講義に出る気も起きず、もう帰ろうかと思っていたんだけど。
彼を、見つけた。
図書館から、出て来たところ。
「な、んで、いるの……?」
思わず溢すと、
「なんでって」
困ったように彼は笑う。
「……みちる? どうかした?」
聡い彼は、私の様子がちょっとおかしいのにすぐ気づいてしまう。
近くまで来て、
「なんか、あった?」
と聞く彼に、
「この後、空いてる?」
と尋ねてしまった。
アオは、少し考える風だったけど、
「いいよ」
と言ってくれた。
「……ロープウェイ、乗りたい」
「いきなり?」
「うん」
「オッケー、付き合いましょう」
ちょっと偉そうに丁寧めかしてアオは言って、私の気持ちを軽くする。
「で、ハーブ園でラベンダーソフト食べる」
「決定なの?」
「うん」
前から食べたいと思ってて。まだ行けてなかったから。
それから、アオと二人で大学を出て、駅へと続く道を下る。
アオは、きっと泣いていたことをわかってる。わかってて、もう何も聞かない。
大学の最寄り駅から出ているバスに乗って、ロープウェイの発着駅まで行って。
「ハーブ園、そういえば行ったことないな」
「彼女と行かなかった?」
「んーー、意外と?」
「そうなんだ」
軽い会話をしているうちにやって来た、赤いゴンドラに乗り込む。
「強風だとすぐ止まるんだよ、これ」
知ったかぶりを披露すると、
「じゃあ、今日は、天気も良くてラッキーだな」
アオは、ちゃんと応えてくれた。
眼下には、どんどん小さくなる街並み。そしてすぐに海が広がってくる。
青い空と。青い海と。きらきらしていて、眩しい。
「綺麗だな」
「うん」
そしてゴンドラは、頂上駅に着いた。
ハーブ園をまったり周りながら、
「6月とかなら、ラベンダーがいっぱいだったのかな」
と季節が違うことをほんの少し残念に思ったけれど。
それでも、コスモス、セージ、オータムローズと色とりどりの花が迎えてくれて。そこかしこに漂う香りはふんわりと甘く。
昼食を軽めに済ませ、オープンカフェで、お目当てのラベンダーソフトを頼む。綺麗な薄紫で、ラベンダーとミルクの優しい香りがした。
アオはというと、こんなところまで来て、なぜかコーヒー。ハーブ園のオリジナルブレンド。パンケーキを食べていたから、甘いものが苦手ってことはないはずだけど。
「なんでソフトにしなかったの?」
尋ねると、
「その量はいらん」
端的なお答え。
私は手に持ったラベンダーソフトを改めて見る。確かに、かなりの大きさではある。
「そんなに食べると、冷えるぞ」
母親のようなことを言う。
「じゃあ、アオが半分食べて」
クリームの渦巻きに刺さっていたスプーンで、アイスを掬って差し出す。
アオは、一瞬固まって、
「お前な……そういうとこ、だろ」
と言いつつ、脱力した。
「だって、アオだったら、わかってるし」
変な誤解もしないでしょう、と見上げると、アオは私からスプーンを奪い取った。
そしてもう一度スプーンをソフトクリームに差し込み、私が乗せていたより大量のアイスを乗せる。
山盛りのクリームを一口で食べると、
「アオ、取りすぎ!」
私の批難も意に介さず、
「ん、いける」
との感想をくれた。まだ私が食べてもないのに。
それからやっとラベンダーソフトを口にすると、爽やかでふんわりとした香りが抜けていった。ミルクと相性が絶妙。
「……美味しい」
思わず漏らすと、
「食べられて、よかったな」
アオは、すごく優しい目をして、そう言った。