エリス=マギア〜風はあの日、母を貫いた〜
本作は長編『奈落の果ての冒険譚』に登場するキャラクター、エリスの過去を描いた短編です。本編を知らなくても読めますが、読後に本編を読むとより深く楽しめます。
朝の陽差しが、街路に並ぶ白い石畳を優しく照らしている。
サンライズシティの五区──喧騒から少し離れたこの一角には、小さな薬屋があった。
手書きの薬草図と「営業中」の札が風に揺れている。
扉を開ければ、薬草とハーブが混じり合った香りがふわりと鼻をくすぐる。
「はい、お待たせ。胃薬ね、これを朝晩、食後に一粒ずつ飲んでください」
「ありがとうねえ、奥さん。ここの薬は、本当に効くわ」
エリスの母が笑顔で薬を渡すと、客のおばあさんは安心したようにうなずいた。
店の隅では父が鼻歌まじりに調合をしている。棚から瓶を取り、薬草を刻み、色の変わるガラス器を楽しげに覗き込んでいた。
その奥のカーテンの向こう、裏庭では…
「ミリス、それはまだ早いわ。葉の縁が赤くなる前が摘みどきなの」
「えへへ、わかった! じゃあ、これと、これと……」
エリスと妹のミリスが並んで、薬草を摘んでいた。
朝露に濡れた若葉は、光を受けてキラキラと輝き、どこか魔法のような気配さえまとっている。
「お姉ちゃん、こっちの葉、触ったらちょっとピリってした。たぶん、毒あるよ」
「…すごいわ、ミリス。お母さんもまだ見抜けなかったのに」
ミリスは照れくさそうに笑った。小さな手のひらには、摘みたての薬草がいくつも並んでいる。
「ねえ、お姉ちゃん。今日のごはん、なにかなぁ?」
「たぶん、お父さんがキノコのスープ作るって言ってた。こないだ失敗してたから、リベンジらしいよ」
「また変な味になったら、わたしがハチミツ入れてあげるね!」
ふたりは顔を見合わせて、くすくすと笑った。
裏口の窓からは、母が料理をしている様子が見える。鼻歌を歌いながら、湯気の上がる鍋にスプーンで味見をしている。
その背後では、父がふざけて後ろから抱きつき、軽く叱られていた。
薬屋は忙しい。でも、笑顔が絶えない。
ミリスが小さな鉢に水をやると、エリスは草かごを持ち上げ、摘み取った葉を一枚ずつ仕分けていく。
小鳥のさえずり。通りから聞こえるパン屋の鐘の音。
草の匂いと、ミリスの笑い声。それらすべてが混じり合って、この場所は家族という名の優しい時間に包まれていた。
…すべてが、変わってしまうまでは。
ある日、母が薬棚に手を伸ばしかけ、ふらついた。
「…最近ね、目がぼやけるの。ちょっと、立ちくらみもしてて……」
最初は疲れかと思った。診察続きで無理をしていたからだろうと、父もエリスも深くは考えなかった。
だが、数日後。母は倒れ、ベッドから起き上がれなくなった。
目の焦点が合わず、皮膚には黒い斑点。呼吸は荒く、なにより、夜になるとどこか獣のような気配を感じた。
「お姉ちゃん……お母さん、こわい……」
ミリスが震えながら布団にしがみついてくる。
エリスは気づいていた。
奈落病
──モンスター化を引き起こす、治療不能の奇病。その兆候が、母に出始めていることを。
父は否定した。
「違う、これは疲労だ」と言い張った。
けれど、彼の目も、どこかで理解していた。
──それでも、信じたかったのだ。家族を。
そして、運命の夜が訪れる。
調合室の床に、濃く生々しい血の跡。
裏口の扉が破られ、ガラスが割れ、煙のような獣臭が漂う。
父を呼んでも、返事はなかった。
エリスが裏口に駆けつけたとき、そこには――赤黒い床と、肉片と、それがいた。
それは、母の面影をかろうじて残していた。
髪は逆立ち、肌は灰色に乾き、口元からは獣のような牙が覗いていた。
目は白濁し、知性は感じられない。
けれど、娘を見て、一瞬だけ、動きが止まった。
「……っ、か、かあ……さ……ん……?」
返事はなかった。
代わりに、それは血に濡れた手を振りかざし、唸り声を上げた。
エリスは本能で、壁にかけてあった細身の剣を掴んだ。
視界が揺れる。心臓が張り裂けそうだった。
目の前のそれは、母だ。
誰よりも優しく、強く、誇り高かった、母だ。
だけど――
殺さなければ、ミリスも、誰も、生き残れない。
「やめてよ……っ、やめてよおおおおおおッ!!」
絶叫とともに、エリスは傍らの杖を掴み、構えた。
母から受け継いだ、薬師用の古びた魔導杖。
本来は調合や治療に用いるそれに、彼女はそっと魔力を込める。
「……ウィンドッ!!」
風が、唸った。
放たれた衝撃波が、母の身体を貫いた。
呻き声が上がり、灰色の皮膚が裂け、吹き飛ぶように倒れ込む。
それは、ただの初級魔法だった。
けれど、込められた想いは、刃より鋭かった。
それは音もなく崩れ落ちた。
風魔法の余波が薬棚を倒し、部屋の奥に舞い散る薬草がひらひらと落ちていく。
エリスは、その場にへたり込んだ。
手には杖。かすかに震えている。
視界がぼやけて、呼吸が浅くなる。何も考えられない。思考が、止まった。
倒れているのは母だった。
かつて毎朝、自分の髪を梳いてくれた母。
失敗しても怒らず、何度でも薬の調合を教えてくれた、あの母。
その胸を、自分の魔法が貫いた。
そしてもう一人。父の姿が、どこにもない。
見慣れた調合エプロンが血にまみれて落ちている。
奥の床にべったりと付着したものは、間違いなく、父の命の跡だ。
「お父さん……っ、お母さん……っ……なんで……」
感情が堰を切ったようにあふれ出し、嗚咽が漏れる。
涙が止まらない。自分の中にあった何かが、音を立てて壊れていく。
気づけば、彼女は額を地に押しつけて泣いていた。声も出せず、ただ苦しげな呼吸を繰り返しながら。
助けられなかった。
見捨てた。
わたしが、殺した。
誰が責めなくても、自分が自分を責め続けていた。
そのときだった。
小さな足音と、温かい腕が、背中に回る。
「お姉ちゃん……もう、やめて……」
ミリスの震える声が聞こえた。
背中に感じる体温が、心の底まで染み込んでくる。
「……ごめんね、ミリス……わたし……お母さんを……お父さんも……わたしが……っ」
「ちがうよ、お姉ちゃんのせいじゃないよ……」
ミリスの声は、涙混じりで、それでも強かった。
「お姉ちゃん、すごいよ。こわかったのに、守ってくれた」
「お父さんも、お母さんも、きっと……お姉ちゃんがいてよかったって、思ってる」
震える手が、エリスの手を握った。
その手は、かすかに温かく、確かに生きていた。
「わたし、お姉ちゃんがいなきゃ、もう……なにもできないもん」
エリスは、はっと顔を上げた。
泣きはらした瞳の向こうで、ミリスが笑っていた。
その顔は、いつかの母にそっくりだった。
「…私たちと同じ思いをする人が、もう出ないように。お姉ちゃん、一緒に特効薬を作ろう」
エリスの中に、静かに火が灯る。
失ったものは大きい。
もう、二度と元には戻らない。
でも――自分にはまだ、守るべき存在がある。
ミリスの命が、未来が、ここにある。
夜が明けてゆく。
エリスはそっと涙を拭い、ふらつく足取りで立ち上がった。
そばには、魔導杖とミリスがいる。
父と母が命をかけて繋いだ、家族の絆がまだ、自分の中に残っている。
あれから数年。
サンライズシティの五区にある薬屋は、今も変わらず開いている。
表に吊るされた看板も、母が手書きした薬草図も、そのままだ。
「お姉ちゃん、ちゃんと帰ってくるんだよ」
「うん。店は、お願いね」
ミリスは笑って頷いた。
調合台の前に立つ姿は、あの頃の母に少し似てきた気がする。
──あの夜から、すべてが変わった。
父と母を失い、深く心に傷を負いながらも、二人で支え合ってここまで来た。
妹は、奈落には行かせない。
あの闇の深淵は、自分だけで立ち向かえばいい。
白衣の上に、冒険者用のコートを羽織る。
背中には母の形見の杖。
薬袋は、ミリスが夜なべして作ってくれたものだ。
「お母さん。お父さん。見ててね」
風が吹く。
あの日、自らの手で母を倒した風の魔法は、今や彼女にとって、罪と共にある力だ。
それでも、歩き出す。
同じ苦しみを、もう誰にも味あわせないために。
目指すは奈落。
奈落病。瘴気症。変異熱。原因不明の呪毒――
あらゆる病を解き明かし、人を救う。そのための戦い。
それが彼女、エリス=マギアの選んだ道。
薬屋の扉が、カランと軽く鳴った。
その音に見送られて、彼女は静かに歩き出す。
背中には、杖と使命。
胸には、妹の笑顔と再生の誓い。
──これは、一人の薬師が奈落へ挑む、希望と贖罪の物語。
ーーー 完 ーーー
ここまで読んでくださりありがとうございました。
本作の続きとなるエリスの現在は、本編『奈落の果ての冒険譚』にて描かれています。ぜひご覧ください!