表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

奈落シリーズ

エリス=マギア〜風はあの日、母を貫いた〜

作者: teikao

本作は長編『奈落の果ての冒険譚』に登場するキャラクター、エリスの過去を描いた短編です。本編を知らなくても読めますが、読後に本編を読むとより深く楽しめます。

 朝の陽差しが、街路に並ぶ白い石畳を優しく照らしている。

 サンライズシティの五区──喧騒から少し離れたこの一角には、小さな薬屋マギアドラッグがあった。


 手書きの薬草図と「営業中」の札が風に揺れている。

 扉を開ければ、薬草とハーブが混じり合った香りがふわりと鼻をくすぐる。


「はい、お待たせ。胃薬ね、これを朝晩、食後に一粒ずつ飲んでください」


「ありがとうねえ、奥さん。ここの薬は、本当に効くわ」


 エリスの母が笑顔で薬を渡すと、客のおばあさんは安心したようにうなずいた。

 店の隅では父が鼻歌まじりに調合をしている。棚から瓶を取り、薬草を刻み、色の変わるガラス器を楽しげに覗き込んでいた。


 その奥のカーテンの向こう、裏庭では…


「ミリス、それはまだ早いわ。葉の縁が赤くなる前が摘みどきなの」


「えへへ、わかった! じゃあ、これと、これと……」


 エリスと妹のミリスが並んで、薬草を摘んでいた。

 朝露に濡れた若葉は、光を受けてキラキラと輝き、どこか魔法のような気配さえまとっている。


「お姉ちゃん、こっちの葉、触ったらちょっとピリってした。たぶん、毒あるよ」


「…すごいわ、ミリス。お母さんもまだ見抜けなかったのに」


 ミリスは照れくさそうに笑った。小さな手のひらには、摘みたての薬草がいくつも並んでいる。


「ねえ、お姉ちゃん。今日のごはん、なにかなぁ?」


「たぶん、お父さんがキノコのスープ作るって言ってた。こないだ失敗してたから、リベンジらしいよ」


「また変な味になったら、わたしがハチミツ入れてあげるね!」


 ふたりは顔を見合わせて、くすくすと笑った。


 裏口の窓からは、母が料理をしている様子が見える。鼻歌を歌いながら、湯気の上がる鍋にスプーンで味見をしている。

 その背後では、父がふざけて後ろから抱きつき、軽く叱られていた。


 薬屋は忙しい。でも、笑顔が絶えない。


 ミリスが小さな鉢に水をやると、エリスは草かごを持ち上げ、摘み取った葉を一枚ずつ仕分けていく。


 小鳥のさえずり。通りから聞こえるパン屋の鐘の音。

 草の匂いと、ミリスの笑い声。それらすべてが混じり合って、この場所は()()という名の優しい時間に包まれていた。


 …すべてが、変わってしまうまでは。


 ある日、母が薬棚に手を伸ばしかけ、ふらついた。


「…最近ね、目がぼやけるの。ちょっと、立ちくらみもしてて……」


 最初は疲れかと思った。診察続きで無理をしていたからだろうと、父もエリスも深くは考えなかった。


 だが、数日後。母は倒れ、ベッドから起き上がれなくなった。

 目の焦点が合わず、皮膚には黒い斑点。呼吸は荒く、なにより、夜になるとどこか獣のような気配を感じた。


「お姉ちゃん……お母さん、こわい……」


 ミリスが震えながら布団にしがみついてくる。


 エリスは気づいていた。

 ()()()

 ──モンスター化を引き起こす、治療不能の奇病。その兆候が、母に出始めていることを。


 父は否定した。


「違う、これは疲労だ」と言い張った。


 けれど、彼の目も、どこかで理解していた。


 ──それでも、信じたかったのだ。家族を。


 そして、運命の夜が訪れる。


 調合室の床に、濃く生々しい血の跡。

 裏口の扉が破られ、ガラスが割れ、煙のような獣臭が漂う。


 父を呼んでも、返事はなかった。


 エリスが裏口に駆けつけたとき、そこには――赤黒い床と、肉片と、()()がいた。


 それは、母の面影をかろうじて残していた。


 髪は逆立ち、肌は灰色に乾き、口元からは獣のような牙が覗いていた。

 目は白濁し、知性は感じられない。

 けれど、娘を見て、一瞬だけ、動きが止まった。


「……っ、か、かあ……さ……ん……?」


 返事はなかった。

 代わりに、それは血に濡れた手を振りかざし、唸り声を上げた。

 エリスは本能で、壁にかけてあった細身の剣を掴んだ。


 視界が揺れる。心臓が張り裂けそうだった。

 目の前の()()は、母だ。

 誰よりも優しく、強く、誇り高かった、母だ。

 だけど――


 殺さなければ、ミリスも、誰も、生き残れない。


「やめてよ……っ、やめてよおおおおおおッ!!」


絶叫とともに、エリスは傍らの杖を掴み、構えた。


 母から受け継いだ、薬師用の古びた魔導杖。

 本来は調合や治療に用いるそれに、彼女はそっと魔力を込める。


「……ウィンドッ!!」


 風が、唸った。


 放たれた衝撃波が、母の身体を貫いた。

 呻き声が上がり、灰色の皮膚が裂け、吹き飛ぶように倒れ込む。


 それは、ただの初級魔法だった。


 けれど、込められた想いは、刃より鋭かった。


 ()()は音もなく崩れ落ちた。

 風魔法ウィンドの余波が薬棚を倒し、部屋の奥に舞い散る薬草がひらひらと落ちていく。


 エリスは、その場にへたり込んだ。

 手には杖。かすかに震えている。

 視界がぼやけて、呼吸が浅くなる。何も考えられない。思考が、止まった。


 倒れているのは母だった。

 かつて毎朝、自分の髪を梳いてくれた母。

 失敗しても怒らず、何度でも薬の調合を教えてくれた、あの母。


 その胸を、自分の魔法が貫いた。


 そしてもう一人。父の姿が、どこにもない。


 見慣れた調合エプロンが血にまみれて落ちている。

 奥の床にべったりと付着したものは、間違いなく、父の命の跡だ。


「お父さん……っ、お母さん……っ……なんで……」


 感情が堰を切ったようにあふれ出し、嗚咽が漏れる。

 涙が止まらない。自分の中にあった何かが、音を立てて壊れていく。

 気づけば、彼女は額を地に押しつけて泣いていた。声も出せず、ただ苦しげな呼吸を繰り返しながら。


 助けられなかった。

 見捨てた。



 わたしが、殺した。



 誰が責めなくても、自分が自分を責め続けていた。


 そのときだった。


 小さな足音と、温かい腕が、背中に回る。


「お姉ちゃん……もう、やめて……」


 ミリスの震える声が聞こえた。

 背中に感じる体温が、心の底まで染み込んでくる。


「……ごめんね、ミリス……わたし……お母さんを……お父さんも……わたしが……っ」


「ちがうよ、お姉ちゃんのせいじゃないよ……」


 ミリスの声は、涙混じりで、それでも強かった。


「お姉ちゃん、すごいよ。こわかったのに、守ってくれた」


「お父さんも、お母さんも、きっと……お姉ちゃんがいてよかったって、思ってる」


 震える手が、エリスの手を握った。

 その手は、かすかに温かく、確かに生きていた。


「わたし、お姉ちゃんがいなきゃ、もう……なにもできないもん」


 エリスは、はっと顔を上げた。


 泣きはらした瞳の向こうで、ミリスが笑っていた。

 その顔は、いつかの母にそっくりだった。


「…私たちと同じ思いをする人が、もう出ないように。お姉ちゃん、一緒に特効薬を作ろう」


 エリスの中に、静かに火が灯る。


 失ったものは大きい。

 もう、二度と元には戻らない。

 でも――自分にはまだ、守るべき存在がある。


 ミリスの命が、未来が、ここにある。


 夜が明けてゆく。


 エリスはそっと涙を拭い、ふらつく足取りで立ち上がった。

 そばには、魔導杖とミリスがいる。


 父と母が命をかけて繋いだ、家族の絆がまだ、自分の中に残っている。



 あれから数年。


 サンライズシティの五区にある薬屋マギアドラッグは、今も変わらず開いている。

 表に吊るされた看板も、母が手書きした薬草図も、そのままだ。


「お姉ちゃん、ちゃんと帰ってくるんだよ」


「うん。店は、お願いね」


 ミリスは笑って頷いた。

 調合台の前に立つ姿は、あの頃の母に少し似てきた気がする。


 ──あの夜から、すべてが変わった。

 父と母を失い、深く心に傷を負いながらも、二人で支え合ってここまで来た。


 妹は、奈落には行かせない。

 あの闇の深淵は、自分だけで立ち向かえばいい。


 白衣の上に、冒険者用のコートを羽織る。

 背中には母の形見の杖。

 薬袋は、ミリスが夜なべして作ってくれたものだ。


「お母さん。お父さん。見ててね」


 風が吹く。

 あの日、自らの手で母を倒した風の魔法ウィンドは、今や彼女にとって、罪と共にある力だ。


 それでも、歩き出す。

 同じ苦しみを、もう誰にも味あわせないために。


 目指すは()()

 奈落病。瘴気症。変異熱。原因不明の呪毒――


 あらゆる病を解き明かし、人を救う。そのための戦い。


 それが彼女、エリス=マギアの選んだ道。


 薬屋マギアドラッグの扉が、カランと軽く鳴った。

 その音に見送られて、彼女は静かに歩き出す。


 背中には、杖と使命。

 胸には、妹の笑顔と再生の誓い。


 ──これは、一人の薬師が奈落へ挑む、希望と贖罪の物語。


ーーー 完 ーーー

ここまで読んでくださりありがとうございました。

本作の続きとなるエリスの現在は、本編『奈落の果ての冒険譚』にて描かれています。ぜひご覧ください!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ