砂海を越えて
遥かなる砂の大海原を、巨大な影がゆっくりと横切っていく。
その中心にあるのは、白木と鋼鉄で組まれた優美な船体――旧時代の技術で造られた砂鯨けん引型オーシャンライナー《アウロラ》である。
砂鯨とは、大地の下を泳ぐ巨大な生き物だ。
その脈動する皮膚から伝わる地鳴りのような呼吸音は、時おり船底を通じて乗客の足元にまで響いてくる。
巨大な帆と観測塔、そして三層構造の甲板を備えた《アウロラ》の姿は、まるで古の海洋文明の残響そのものだった。
今やこの船は、今や帝国が支配する国境の町ベルネスと、商業都市国家モス・サンドリアンを結ぶ唯一の合法的交通手段である。
帝国の監視下に置かれながらも、国際協定によって運航が保証されたこの定期船は、旧王国の遺民、帝国の役人、流浪の商人、そして亡命者たちを乗せて、広大な砂海を渡る。
コウ・タナベは船尾のビーチデッキに立ち、遥か遠く、地平線のかなたに霞む砂嵐の兆しを静かに見つめていた。
「生き物に船を引かせるなんてな……どうやって砂漠を渡ってるんだ?」
背後から、戦術支援AIの冷静な声が応じた。
『不明です。高度な魔導波制御の可能性もありますが、これはロストテクノロジーと推定されます。現在運用されているものは、旧時代の遺物と見られます』
「……これも、滅びゆくものか」
タナベの目に笑みはなかった。
その視線の先、《アーク》の視覚センサーが捉えた映像には、整備員を装う不審な男の姿が映っていた。
『大尉。件の人物、通路D-4より機関室後方へ移動中。航行許可証との矛盾を確認。偽装率85%。帝国所属の可能性が高いと判断されます』
「帝国の追跡者か……やはり来たか」
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その頃、最上階のサンデッキでは。
白い日除けの下、リゼは穏やかな風を受けながら遠くを眺めていた。
隣ではエルティナがつき、他愛のない会話に花を咲かせている。
「船旅って、もしかすると初めてかも。昔はよく旅行したのよ。王都の外れにある海辺の避暑地へ。母と妹と一緒に……あの夏の日差しと風の匂い、今でも忘れられないの」
リゼは目を細め、懐かしむように微笑んだ。
「リゼ様は国外へ出ることはなく、国外でのご経験はまだでございましたね」とエルティナが応じる。
「そう。父も、母も、弟も、妹も……今はもう誰もいない。国を取り戻すまでは、私は死ねない」
リゼの言葉は静かで、しかし強い決意を孕んでいた。
「もし叔父の協力が得られたなら、解放軍を旗揚げする。あの男――タロウは、力を貸してくれると思う?」
「わかりません。彼には、どこか得体の知れないところがあります。でも……私は、どこまでもリゼ様についていきます」
「ありがとう、エルティナ」
ーーーー
夜。船内が静まり、雑音もほとんど聞こえなくなった頃。
男の足音が金属板の床に乾いた音を刻む。肩を震わせながら、浅い呼吸を繰り返していた。
周囲に満ちるのは、船体の軋みと、時折響く砂鯨の呼吸音だけ。
やがて行き止まりに追い詰められた男は、足を止めた。
「なぜ気づいた?」
「バレバレだろう。日焼けしてない船員なんているか? お前、本当にプロか?」
「……」
「帝国憲兵総局第7部か」
「なぜそれを……?」
「国境の町で本国に通信していたな。」
(アークのSIGINTをもってすれば、この世界の傍受は朝飯前だな)
「……」
「目的は俺じゃないな。リゼか?」
「リゼ? ああ……知らなかったのか。彼女はリゼリア・ノワール・ド・ラルナスタ。旧ラルナスタ王国の第一王女で、直系の継承者だ。帝国は彼女を探している」
(アークの催眠波の誘導でずいぶん口が軽くなったな。リゼが旧王国関係のただ者じゃないのは分かっていたが……想像以上か。さて、どうするか)
「王国は滅びたんだろう。今さら、なぜ彼女を?」
「俺には分からん。ただ……上からの命令だ。それだけだ。……もう、いいだろ」
タナベは静かに息を吐き、短く命じた。
「……やれ」
『了解。対象、処置完了』
翌朝。
陽光が甲板に差し込み、《アウロラ》はモス・サンドリアンの外縁に近づいていた。
砂鯨の足取りが、わずかに重くなる。旅の終わりが近づいている。
朝の光を浴びながら、リゼはつぶやいた。
「……生き延びてここまで来た。」
その言葉を背後で聞きながら、タナベは何も答えず、煙草に火をつけた。
その眼差しは、遠く広がる砂の彼方を見つめていた。