光の記憶8
隣のダリアがしっかり眠ったのを確認したアルベリッヒは、そっとそばを抜け出し、足音を潜めて寝室を出た。その足で歩き慣れた太子宮の回廊を辿り、中庭の四阿へ向かう。
月光に浮かぶ白い石造りの椅子に腰掛けてやっと、堪えていた溜め息を吐いた。そして、すかさず持ってきた煙草に火をつける。思いっきり吸い込んだ苦い煙を、長い時間をかけて吐き出しながら、暗い夜空を見上げた。
真夜中の一服。
ダリアの目を盗んで、たった一本の煙草を吸うこの時だけが、今アルベリッヒが唯一心休ませられる時間だった。
それ以外の時間、アルベリッヒはダリアのそばを片時も離れない。約束通り、いつも彼女の目の届く場所にいて、彼女のどんな望みも叶えられるよう構えていた。
アルベリッヒがダリアと交わした約束。
『私の側について、これから先私に仕えるって誓って……』
あの言葉の意味がこんなものでないことは、アルベリッヒにも判っている。
けれど……これ以上は、自分でもどうすることも出来ないのだ。
ダリアが本当に望むものは、アルベリッヒには与えられない。
判ってくれというのは酷だろう。言わないから……せめてこれ以上を望まないで欲しい、というのがアルベリッヒの正直な気持ちだった。
夜毎引きずり込まれるベッドの中で、裸体を絡ませ合いながら、ダリアは愛してほしいと言う。それはそれは悲痛な顔と声で詰め寄り、耳元でユリアを愛したように自分を想って愛してほしいと願う。
しかし、どんなに望まれてもそれは出来ない。
言われてあっさり乗り換えられるなら、そもそもこんなことになってない。
簡単には諦められない気持ちを抱えていたから……アルベリッヒは今ここでこうしている。
果てしなく、ただ彼女を想うから……。
「ユリアさま」
暗い夜空を見上げぼんやり呟いた。
思い浮かべ、名前を呼ぶだけで涙が込み上げてくる程愛おしい、たった一人の主。
永遠に失った、一番大切な貴女。
その人をダリアに置き換えることなど、絶対に出来なかった。
『アルベリッヒ』
呼ぶ声が懐かしく、瞳が潤む。
それが零れないように閉じた瞼の裏に、勝手に蘇るのは、いつも眺めていた後ろ姿だった。真っ直ぐ伸びた満月色の髪はサラサラと陽光を反射しながら揺れて、振り返ってこちらを見る琥珀色の瞳には、いつも慈愛が満ちていた。
絶対不可侵のオレの女神。
もう一年近くユリアとは会っていない。否、もう二度と会うことは出来ないのだと判っている。しかし、こんなに長くユリアと離れたのは出会って以降初めてで、時折、無性に彼女が恋しくなるのを押さえられなかった。
特にここ……太子宮には共に過ごした思い出が数多く残っている。この四阿で談笑したことは、昨日のことのように思い出せるのに、もうあの日々は永遠に戻らない。
失ったものの大きさに、今更のように打ちのめされていた。
しかし、打ちのめされ過去を悔やんでも……結局行き着くのは、自分にはこの選択しか残されていなかったという事実なのだ。
ユリアがいなくなってからの一年は、アルベリッヒが生きてきた中で、一番慌ただしい時間だった。
王太女の死が公式発表されると同時に、アルベリッヒは事故の責任を負う形で、騎士の地位を返上し、そのことで迷惑を掛けないよう家族とも縁を切った。
自然災害相手に理不尽な話だが、王太女の死の責任は、誰かが負わねばならない。それは自分の役目と潔く受け入れたアルベリッヒに、人々は同情の視線を注ぎ、若い才能の喪失を惜しんだ。
……しかし、それも束の間のこと。
ユリアの喪が明けるのも待たずに、ダリアの立太子の儀があり、王太女となったダリアのそばに侍るアルベリッヒの姿を見た人々は、即座に眉を潜め不満と不信を口にした。
元は敵の腹心だった男を、そばに取り立てる理由など、そう多くはないだろう。それが原因で、一時はアルベリッヒが証言した事故の信憑性も疑われた。しかし、覆せる証拠を見つけるには至らず、結局灰色の噂は噂のまま終わった。
そしてアルベリッヒは、周り中から敵意の視線を向けられながら、親衛隊ともシド達側近とも違う、特例の護衛としてダリアのそばにいる。
……しかしどんなに立場を取り繕っても、ダリアが護衛のために彼をそばに置いているのではないことは、皆が知っていた。
ダリア自身が、ところ構わずアルベリッヒに撓垂れかかり、好きだ愛していると囁くのだから、アルベリッヒがダリアの愛人だと言うことは、最早、公然の秘密だった。
主を見捨て、敵に身を売った男という烙印は、一生消えることはないだろう。
……だが、慣れとは恐ろしいもので、疎まれ蔑まれるのも半年も続けばどうでもよくなった。開き直ったと、また別の反感を買ったりもしたが、一々気にしていたらキリがない。
確かに騎士として恥ずべき行いをしたことは認める。だから騎士をやめ、誇りも投げ捨てた。
代わりにユリアを守れた。
誰も知らない功績でも、その事実がアルベリッヒを支えている。ダリアのそばに立ち続ける自分が他人からどう見られようと、そんなことは最早どうでもいいのだ。
アルベリッヒに溜め息をつかせる問題は、折り合いのつけられない心の方。
応えようのないダリアの求愛が、想像以上に重かった。
どんなに想われても、ユリアは忘れられない。
ふとした瞬間に、彼女の思い出が蘇るのは自分でも止めようがないのに、それすら禁じようと必死に束縛する執着が、正直息苦しい。
ダリアの束縛から抜け出せる深夜の一時が、自分には絶対必要だった。
最後の一服を吹かし、煙が夜に溶けるのを見送る。
そのまま柱に凭れかかり、ぼんやり星を数えようとするのを、視界の端に現れた黒い影が邪魔した。
何か判って、やれやれと凭れかけていた身体を起こす。
「すぐ戻りますよ、シド殿」
呟くと、柱の影から分離するようにシドが現れた。
漆黒の瞳と髪色をした彼は、己の役目を示すかのように、いつも真っ黒な衣装を身に纏っている。全身を影と同じ色で染め上げたシドは、音も失く、アルベリッヒのそばにやってきた。
ダリアの影とも言われる、腹心シドのことは以前から良く知っている。
昔から、ユリアのアルベリッヒとダリアのシドは、良い意味でも悪い意味でも、よく比べられていた。
それこそ、剣技学問の成績から、外見、趣味、果ては女性関係に至るまで散々比較され……結局いつも、アルベリッヒの方が勝っていた。
しかし、それがすべてにおいて正しい評価でないことは、アルベリッヒが一番良く判っている。
昔一度だけ、シドと剣を交えたことがあった。
国王の誕生日に余興として行われた御前試合に、各々が主の名代として参加した時だ。
ユリアは余興だから勝敗は関係ない、ただ怪我をしないように……と送り出してくれたが、主に恥をかかせる訳にはいかない。当然、勝つつもりだった。
しかし、実際に仕合うとシドの剣技は想像以上で……当時のアルベリッヒには、勝つどころか引き分けに持ち込めるかさえ危うかった。
なのに……。
決着がつく直前、シドは後一歩のところで手を抜いた。不自然なくアルベリッヒが勝てるように、誘導したといってもいい。そして、アルベリッヒは彼の狙いどおり、シドの手から剣を弾き飛ばして勝ちを得た。
何も知らない周囲は、アルベリッヒに称賛を送り、本人には屈辱の記憶だけが残った。
あの時、何故? とはあえて問わなかった。
聞かなくても答えは判っている。あんな場所で目立つ必要など、シドにはない。立場を弁えた、絶妙な演技だった。
それを見抜いた時、シドには絶対勝てないと悟った。
そう……この男がいたから、アルベリッヒは戦いでユリアを守り抜くことを諦めたのだ。
あのことがなければ、ダリアの誘いを断っていただろう。しかし、事実を知るアルベリッヒには、シドを相手に、ユリアを守りながら戦って勝つ自信がどうしても持てなかった。
この男さえいなければ……見上げた強敵は、真冬の空気よりも冷えた目でこちらを見下ろし、同じく冷たい口調で告げる。
「目が覚めた時、お前がそばにいないとダリアさまが暴れられる。早々に戻られよ」
「ああ……」
シドが危惧するのは、決して行き過ぎた想像ではなかった。
ユリアがいなくなって以降、ダリアは目が覚めている間、片時もアルベリッヒを離そうとしない。常に目の届く範囲にいることを求め、アルベリッヒがいないと、座っていることさえ出来ない有様だった。
本当は、ユリアの死が公にされた後、騎士位を返上したアルベリッヒは、ほとぼりが冷めるまで一時身を隠し、人々がその存在を忘れた頃、ひっそりと側近の列に加わる予定だった。
しかし、当のダリアがそれは嫌だと駄々を捏ねたのだ。揚げ句、外聞が悪いと説得する母や側近達に、アルベリッヒと一緒でなければ何処にも行かないと言い放って、当時彼が匿われていた部屋に閉じこもった。
それで仕方無く、アルベリッヒは謀殺の噂も消えぬ危うい時期に、ダリアの側についたことを公表せざるを得なくなったのだ。
それによって、アルベリッヒや他人が背負い込む苦労など、ダリアは気にしたこともないはずだ。
何故なら、彼女が姉殺しの汚名を着てまで王太女の座を望んだのは、ただ愛しい人を手に入れるため……なのに今更、そのことを理由に手放せるはずがない。
そこがユリアには及ばないところだな……と、かつての主の、いつでも淑やかで控え目だった姿を思い出す。
ユリアは、いつでも自分より他人を思った。
そんなユリアだから、アルベリッヒは彼女を誰よりも愛したし、守りたいと思ったのだ。
初めて出会った日。
生命などいらない。友達になって……と願ったユリア。
騎士として、主のために生命を懸けるのは当然だと教えられていたアルベリッヒの生命を惜しみ、引き止める言葉をかけてくれた最初の人。
だからこそ、あの日アルベリッヒは、ユリアのために生きて、ユリアのために死ぬことを決めたのだ。
いづれ国を背負う彼女と同じ未来を見て、ずっとそばで支えていたかった。
もう叶うことのない夢を追うアルベリッヒの脳裏を、王太女となったダリアと初めて参加した会議の様子が過ぎる。
アルベリッヒも、ダリアが無能な姫ではないことは知っていたつもりだったが、あの日初めて、寧ろ彼女は有能であるのだと知った。
いずれ女王にするべく画策していた母親の努力の賜物なのだろう、彼女の手腕はユリアと比べても何等劣ることはなく。
少々ことを強引に進めようという面もあるけれど、ユリアの慎重さを臆病だとか呑気だと感じていた家臣は、ダリアの大胆さや実行力に頼もしさを感じたらしい。ユリアを失い、未来に不安を抱いていたものも、あの会議でダリアの実力を知って安堵したようだった。
そしてダリアには元より有能と評判のシドがいて、更にアルベリッヒが加わった。経緯はどうであれ、アルベリッヒとシドが、共にダリアを支えるならば、国の未来に憂いはない。
認めた人々はダリアに頭を垂れ、ダリアは名実ともに王太女として受け入れられた。
……ただ、やはりそんなものは、ダリアにはどうでもいいこと。
彼女にとって必要なのはただただアルベリッヒ一人で、彼を独占するために王太女、いずれは女王という地位が必要なだけだ。
地位に伴う権力だけが今、アルベリッヒを縛り付けておけるもの。
忠誠を誓い、片時も離れずそばにいても、アルベリッヒが本心で従っているわけではないと知っているから、ダリアは一時も目を離せないでいる。目を離した途端にいなくなってしまうと恐れ、眠りに落ちるその瞬間まで疑う彼女から離れられるのは、ダリアが眠る今だけだった。
だからこの一時くらい許して欲しいと思うが、シドにもこちらの事情は関係ない。彼は動こうとしないアルベリッヒを更にきつく睨めつけ、戻るように促す。
睨まれたアルベリッヒは肩を竦め、場をなごませるように話しかけた。
「シド殿は…」
「呼び捨てでいいと言っている。今も、お前の地位はオレより上だ」
ピシャリと、叩き落とすように言葉を遮ったシドの声にぶれはない。もちろん、表情にも変化はなかった。
「地位ね……」
ダリアの愛人は地位なのだろうか?
自嘲気味に笑ってみても、やはりシドに変化はなかった。徹底的に自分の感情を管理しているらしいシドに少しの羨望を抱きながら、ずっと聞いてみたかったことを問い掛けた。
「……シドは、ユリアさまが何処にいるのか知っているか?」
「それを聞いてどうする?」
途端に鋭くなる視線を薄笑みで躱し、緩く首を横に振る。
「聞き方が悪かったな。そうじゃなくて……お姿を見たりすることがあるか? 傷は綺麗に癒えただろうか? お元気でいらっしゃるだろうか……」
ずっと胸にあったしこり。ユリアの行方ではなく、ただ身を案じていた。
あの日、心だけでなく身体も傷つけた。せめて、あの刀傷だけでも癒えたという保証が欲しい。
ユリアは今も元気で生きていると、教えてほしかった。
しばらくして、シドの纏う雰囲気が少し変わった気がした。
「心配しなくてもお元気だ。こちらの言い分に文句も言わず、おとなしくしていらっしゃる」
口調だけは変わらずぶっきらぼうなままでも、含む刺は、先刻までよりずっと少なく告げたシドを見上げ、そうか……と零したアルベリッヒは、心底安心して肩の力を抜いた。
しかし実際は、一年近く前のあの日、逃げ出したままのユリアが元気かどうかなど、シドは知らない。寧ろ、死体は見つかってないが、生存が表沙汰にならない以上、生きている可能性は低いと考えていた。
手傷を負ったまま、目も見えないはずの彼女が見つからないのは、上手く逃げおおせたからではなく、何処か身を隠した場所で野垂れ死んだから、と考えた方が納得が行く。
だが、それを伝える訳にはいかない、でまかせを言っただけだが……想像だけれど、ユリアならそうしていただろうと、シドですら思っていた。
自分のためではなく、国のため民のために、理不尽さを飲み込み無益な争いを避ける、ユリアはそういう人だ。
全くの想像だが、シドはまるで見たことがあるように思い浮かべた。
ダリアが、ユリアを閉じ込めておくために用意した地下牢で、朧な蝋燭の灯りに照らされて佇む彼女。
寒々しい部屋の中、それでもユリアは穏やかに笑っているのだろう。誰もを安心させる笑みを浮かべ、己が身に降り懸かる謂れのない苦難すべて受け入れて……。
そんな気性ごと、アルベリッヒがユリアを愛したのなら、ダリアに彼を捕らえるのが難しいのはシドも承知だ。
互いに手が届かない人を想い、決して叶うことのない、アルベリッヒとダリアの想い。
通じ合うことのない想いを追い続ける二人が辿り着くのは、絶望と後悔が降り積もる袋小路でしかないだろう。
アルベリッヒがさっさとユリアを忘れ、ダリアを愛せば話は簡単なのに……。
無関係なシドは願い、当事者のアルベリッヒはそれだけは出来ないという。
想いはいなくなった人だけに……頑なに守り通そうとするのが、シドには不思議でなならなかった。
今更ユリアを裏切ったとしても知られることはない。それどころか、最初からアルベリッヒの想いをユリアは知らない。ならば、今更どうなってもかまわないだろうと思うのに、それだけはダメだとアルベリッヒは言う。
想いはいなくなった女だけに……。
捧げ守り通そうとするアルベリッヒの態度が、シドにはどうしても理解出来なかった。
ダリアを愛しても、否、愛そうとしても誰に迷惑をかける訳で無い、寧ろ有益だ。
だからダリアを選べといっても、アルベリッヒは絶対に納得しなかった。
それが<愛>なのだろうか?
損得でなく、生まれる想い。
アルベリッヒがユリアに捧げた想い。
それはユリアがどうであろうと変わることはない?
生死さえ不明な人に捧げられる無償の愛は、シドにとって歯痒いものでしかなかった。
誰も幸せにしないばかりか、抱いた本人さえも不幸にする<想い>など、早く捨て去ってしまえばいいのに……出来ないアルベリッヒに蔑むような視線を送っても、アルベリッヒは苦笑するだけだった。
理解しあえない二人の間を、その関係に似た冷えた夜風が吹き抜ける。実りの無い会話に見切りを付けたシドが、戻れと促した途端、細く女の悲鳴が聞こえた。
二人ともハッとして顔を見合わせる。
シドが舌打ちして先に駆け出す。アルベリッヒも追って走り出した。
二人の予想通り、戻った寝室では半狂乱のダリアが、先に駆け付けた侍女達の髪を掴み上げてアルベリッヒの所在を問い質している。溜め息混じりに寝室の入り口で一旦足を止めたシドの脇をすり抜けて、アルベリッヒがダリアに駆け寄った。
「ダリアさま!」
「アルベリッヒっ……!! アルっ、アル!!」
愛しい人の姿を認め、侍女を投げ捨てたダリアが体当たりするように抱き付いてくる。しっかり受け止めた男に縋り付いたダリアは、まるで懐かしいもののように名前を連呼した。
「アル、アル……良かった、……目が覚めたら貴方がいなくて、心配で……。勝手に何処にも行かないで、ずっとずっと私のそばにいるって約束したでしょう!」
「はい……」
答えながら、アルベリッヒは胸元で涙混じりに詰るダリアを抱き返し、肩越しにシドに視線を送る。無言のまま頷いたシドは、すすり泣いている侍女を伴って静かに寝室を出て行った。
扉の閉じる音と重なったアルベリッヒの溜め息。
しかしそれは誰にも聞かれることなく、ダリアの唇に吸い込まれて消えた。
読んで頂きありがとうございました。
一話の長さに随分ばらつきがあってすみません。
あと、年齢について、全員ぼかす感じに前の話をいじりました。
ユリア、ダリア=女子大生あたり
アルベリッヒ、シド=五歳年上くらい
ジークフリート=十歳年上くらい
で想像してください。
明確に設定すると私が数字の覚え間違いするのでwww
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