光の記憶7
カメリアの王太女死去の情報が、公式に各国へ伝えられたのは、ジークフリートがダイナスに戻って、随分経ってからだった。
王太女は国王の代理として視察に向かう途中、不幸にも街道で土砂崩れに巻き込まれた。先導していて、唯一難を逃れた護衛が王都へ取って返し、すぐに救助隊が向かったが、土砂と共に谷底へ押し流されてしまった一行の生存は絶望的。
二次災害を警戒しながら、谷川を下流から捜索した結果、事故から一月後に一行の見るも無残な状態の遺体を発見し、王太女の死亡を確認した、らしい。
見え透いた嘘だな……とジークフリートは報告書の束をテーブルに置いて、煙草に火を付けた。
土砂災害は遺体の発見を遅らせ、死因と人相を判らなくするための偽装に違いない。
一人生き残って事故を証言しているという側近が、かなり怪しい。その者もまた、王太女がいなくなって得をする側の人間だったのだろう。
ジークフリートのいる部屋から続く庭園の木陰で、楽師が奏でる竪琴の音色に耳を傾けているのは、カメリアから連れ帰ったあの女性だった。
刀傷も大分癒え、最近はこうして出歩けるようになった。
ジークフリートは、記憶の無い彼女が、カメリア王太女<ユリア>であるとほぼ確信していた。
確かに最初は半信半疑だった。……寧ろそうでなければいいと願いながら集めた情報は、しかし、ジークフリートに否定の材料を与えてはくれず、カメリアに残った部下達に集めさせたユリアの情報が増えれば増える程、確信は増した。
見つめる先で、眠るように穏やかな表情で繊細な音色に聞き入る彼女は、時折細い指先でテーブルを叩いてリズムを取る。そうすると木漏れ日で虹色に輝く満月色の髪がサラサラと揺れて、酷く眩しかった。
微かな笑みを湛えた薄い唇が何事か呟くと、楽師は弦を爪弾く手を止めて、彼女の言葉に耳を傾ける。短いやり取りの後、先程と同じ曲が少し趣を変えて演奏され始めた。
こちらの方が心地良い、彼女には音楽のセンスもあるのだな……。
ふと思い浮かべ、一瞬後に溜め息をついた。
それもユリアの特徴の一つ。音楽に造詣が深く、自分で楽団を造り、演者として加わっていたのは有名な話だそうだ。
また一つ、彼女とユリアの重なる部分が増える。
……やはり、彼女は<王太女>なのだろう。
何より確信を後押ししたのは、彼女が身に付けていたアンクレット。
予想通りあれは、いざと言う時身の証しを立てるため、カメリアの王族が極秘に誂えるものだということもつき止めた。
名つけと同時に王から下賜され、以後は成長に合わせて、何度も何度も作り直しながら一生身に付けているのだという。
教えてくれたのは、部下が探し当てたかつての名工。幸運にも彼は、数年前老いを理由に一線を退き、田舎町で隠居生活を送っていたから、比較的楽に接触出来た。
彼に写し取ったアンクレットの模様を見せ、由来を聞いた。最初は訝しがっていたらしいが、ユリア生存の可能性を仄めかして、やっと重い口を開いて証言してくれた。
間違いなくユリア王女のために作ったもの、ダリアとユリアの成人用の品を仕上げてから引退を決めたのだから忘れるはずもない、と。
酷くユリアに同情的だった細工師は、彼女を救ったのが他国の人間と知って、ならば、どうかこのことは内密に、何処か遠くで生き延びさせてやってほしいと、懇願したという。
今日まで一時も心の休まる日はなかっただろう、やっと重圧から解き放たれたのだから、王位など望まずに、静かに望みどおりの人生を……。
他人ですらそう願ってしまう程、カメリアの王宮内で繰り広げられていた跡目争いは、熾烈なものだったらしい。
細工師が愚痴のように語って聞かせたカメリアの内情は、余さずジークフリートに伝えられた。
想像以上の内容につい、すぐそばでそんなことが起こっていて、王は何も気付かなかったのかと零したら、直接話を聞いてきた部下の一人が細工師の見解を教えてくれた。
『今の王様は愚鈍な方ではありません、不穏な空気に感づいてはいたでしょう。しかし認めたくもなかった、自分が愛した方の心根がそんなにも醜いことは……実際、陛下のおそばにいる時のお妃様方は、虫も殺さぬ様な顔をしていたものです』
細工師が遠い目をしながら言ったという言葉を聞いて、ジークフリートの心に沸き上がったのは怒りだった。
そんな自分勝手な理由で、我が子の危険を見逃したなんて信じられない。王としてより、人の親としてどうかしている。
もしランティスが同じ目にあったら……考えただけで胸が張り裂けそうになるのに、カメリアの王には、ユリア達を思いやる気持ちはなかったのだろうか?
憤慨するジークフリートに、明確な答えを返せるものなどいなかった。
そして、ユリアに同情心を募らせたジークフリートは、危険を承知で、彼女を城に匿い続けている。
………だが、彼女を<王太女>と信じるなら疑問が一つ。
事故に見せかけるべく周到に用意していたなら、わざわざ手当てをして路地に放置したのは何故だろう?
たまたま彼女が記憶を失っていたおかげで正体が判るまでに時間がかかったが、そうで無ければ、当の昔に王太女の生存は暴かれていた。それは、目を潰していても変わらない結果だと思う。
何故なら、多分最初に出会った時、彼女にはまだ記憶があった。あの時意識を失わなければ、ユリアは自分の身分を伝え、助けを求めたはずだ。記憶を失ったのは偶然の産物、誰に予想出来るはずも無い。
もし本当に、彼女が<王太女>なら、生きたまま放置されることなど有り得ない。
生きていること自体が、否定する根拠になるというのも妙な話だが、ここまでしておいて生かしておく理由だけは、どんなに考えても判らなかった。
だから、まだ完全に彼女が<王太女>だとは確信出来て無い。九分九厘そうだと信じていても、疑う気持ちが残る。
記憶が戻れば、すべてがはっきりするのに……。
考えたジークフリートは、頭を横に振って煙草を灰皿に押しつけると、静かに立ち上がった。そのまま、ユリアと楽師がいる木陰へ向かって歩く。
「ジークフリート陛下?」
声を掛ける前に、こちらを振り向いた彼女が、目を閉じたまま聞いた。
「当たり。凄いな、足音で誰か判るのか?」
「いえ、足音ではなく香りです。陛下の匂いがしましたから」
「匂い?」
お気に入りの香水は、そんなにきつい香りだろうか?
思わず自分の匂いを嗅いでしまう。気配でジークフリートの行動を想像したのかもしれない、くすりと笑ったユリアは緩く首を横に振った。
「その香水は、陛下しかつけていらっしゃらないから、微かでもすぐに判るんです」
確かにジークフリートの香水は特注品で二つとない品、彼の周りに同じ香りをさせた人間はいないだろう。自分が臭い訳ではないと判ってホッとした。
安堵して、気遣いながらユリアの隣の椅子へ腰を下ろす。その間もユリアは話し続けた。
「多分目が見えない分、他の感覚が鋭くなってるんだろうって、お医者さまが言ってました。人間の身体は、そうやって失ったものを補おうとするんだって。……なんだか凄いですよね」
自分のことなのに、まるで他人事のように感心しながら、ユリアは自分の目許に触れ、閉じたままの瞼の撫でる。
そう、彼女の目はいまだ閉じたまま……一向に開く気配はなかった。
ダイナスに連れ帰ってすぐ、目を塞いでいた薬品は取り除いた。幸い、薬は眼球そのものを傷つけるものではなく、接着剤のようなもので瞼を塞いでいただけ、すぐに取り除けば視力に影響もないだろうという話だった。
しかし、薬品を取り除いても、ユリアの目は開かなかった。
不審に思った医師が、診察のために瞼をこじあけようとすると、激痛が走ると言う。医師達は皆首を傾げ、やがてそれは薬品の所為ではなく、ユリア自身の所為ではないか、という結論に達した。
ユリアは瞼を閉じるという行為で、記憶を封じているのではないか?
そう考えれば記憶がないことにも、目が開かないことにも合点がいく。
辛い経験をした後などに、ままある症状なのだそうだ。覚えていることが辛く、本人が生きていくことに支障を来すと、心が判断した時の自己防衛本能の一種。
見たくない現実から目を背けるという意味で、彼女は視界を閉ざし、目に写った事実そのものを忘れた。
殺されそうになったことを思えば当然といえばそうだが、多分、それだけではないもっと酷い何かがあったのではないだろうか? 忘れてしまわなければ、心が壊れてしまうような、重大な何かが……。
ふと頭を掠めたのは、一人生き残って事故を証言しているという、ユリアの側近のことだった。
もしサーフィスが裏切ったらオレも辛いだろうな……我が身に置き換えて想像し、ブルッと身を震わせる。しかし、何もかも忘れてしまっているユリアは、ジークフリートの想像など知らず、また穏やかな音楽に静かに聞き入っていた。
その横顔は、眠っているように穏やかで……酷く綺麗だった。
すっと通った鼻梁から続く、薄い唇が小さく何かを口ずさんでいる。開くことのない瞼の、驚く程長い睫は、染みひとつない頬に薄く影を落として、梢の木漏れ日に揺れ動く。
そうやって木陰に寄り添うユリアは、まるで樹木の精霊のようだった。
……ああ、綺麗だ。
「陛下?」
ピクンと肩を震わせたユリアがこちらを振り向いてやっと、思ったことが口から出ていたのだと気付く。訳もなくうろたえ、彼女には見えないのに、無意味に両手を振って弁解した。
「綺麗な曲だと思って」
「ああ、……不思議ですよね、記憶はないのにこの曲は覚えてて。こんなものより、名前でも覚えていれば陛下の手を煩わせることもなかったのに……ごめんなさい」
シュンと肩を落とし、最後は謝罪と共に頭を下げる。
ジークフリートはすかさず顔を上げさせ、殊更優しい声で否定した。
「ユリアが謝らなくてもいい」
それは本心だった。
便宜上、アンクレットに書いてあった名前で呼ぶことにしようと提案した時には、もう殆ど身元調査は終わっていた。ただ余りに危険な情報だから、彼女には伝えていないだけ……手札を隠されたままでは思い出せなくて当然なのだ。
カメリアの王太女であるかもしれないと一言いえば、それを呼び水にすべてを思い出すかもしれないのに、まだ伝えられないのはこちらの事情。
気にするなと、手の甲で軽くユリアの頬を撫で、話題を変えようと逆に聞いた。
「不便はないか?」
「不便など……皆さん、とても良くしてくださって申し訳ないくらいです。何処の誰とも判らない私なんかに……」
言いながら、頭を下げ肩を縮こまらせる仕草が哀れで、即座に否定した。
「記憶がないのはユリアの所為じゃないんだ。気にするな」
でも……という反論を飲み込んだ気配を感じる。黙って何かを考え込んでいたユリアは、ややあって躊躇いながら聞いてきた。
「あの……」
「ん?」
「私と陛下は、元々知り合いだった訳ではないんですよね?」
「ああ」
「……だったらどうして、陛下は私にこんなに良くしてくださるんですか?」
一国の王がたまたま知り合っただけの人間を、怪我人とはいえ、人に任せる訳でもなくそばに置いて、一々気に掛けてくれる。待遇は有り難いけれど、ただ縋るには疑問が多い。
決してジークフリートを信じていない訳ではない、ただ……理由が不明だから不安になる。
何度も言葉を詰まらせ綴ったユリアは、言い終えて申し訳なさそうに眉を寄せ、ジークフリートの言葉を待っていた。
きっと目覚めてからずっと聞きたかったことに違いない。しかし、相手が見えない所為で反応を窺うことが難しいから、タイミングが掴めず、こんなに時間が経ってしまったのだろう。
正直、彼女の疑問に答えることは簡単だった。
最初は怪我人を放っておけなかったから。そしたら、その人は過去も現在も光までも失っていた。それでどうして放り出せる?
幸い、ジークフリートには保護出来るだけの権力と財力があった。王として、助けた人間を無責任に放り出せないという使命感もある。
だから、だ。
ユリアが王太女であるかもしれないという事情を抜いて、思い付くまま告げても、きっと彼女に不信を抱かせるものはなかったと思う。無償の善意であると主張して納得させるのは簡単だった。
なのに、ジークフリートの口から出たのは、自分でも予期しない言葉。
「……どうしてだろうな、私にも判らない」
ぼんやり呟いた言葉を反芻して自分で驚く。
目の前のユリアも驚いた顔をしていた。
「……陛下?」
「いやっ……怪我人を放っておけないとか色々理由はあるんだけど、……でも、そういうものだけじゃなくて……」
言いながら後に続く言葉を探すが、見つからない。しかも、自分の答えが予想していたどれとも違っていて困っているのだろうユリアを見ると、余計混乱した。
何かを言わなければならないと思うのに、探せば探す程、言葉が消える。
残ったのは理性が押しつける嘘に近い建て前、しかし、それでユリアを納得させるのは嫌で……。
溜め息をついたジークフリートは、言葉を継ぐことを諦め、意味もなく謝った。
「なんだろ……うまく言えない。……すまない」
急に謝られてユリアが首を傾げる。しかし、謝る理由を問われても、ジークフリートにはそれ以上何を答えることも出来ず、ごまかすように手を伸ばし白い頬を撫でた。
頬に触れるという仕草は、最初の頃目が見えずにうろたえるユリアを落ち着かせるために繰り返した行為。それはそのまま挨拶のような気安さに代わり、いつしかユリアはジークフリートが意味もなく触れても驚かなくなった。
言葉もなく触れるジークフリートの態度から何かを汲み取ったのかもしれない。
微かに笑ったユリアは、頬を撫でるジークフリートの手に自分の手を重ね、ゆっくり首を横に振る。そして静かに囁いた。
「ジークフリート陛下」
「……ん?」
「助けてくださってありがとうございました」
「うん……」
何度も聞いた純粋な感謝が少し胸を刺した。
ジークフリートの立場上打算がまったくない訳ではない。
いつか、情報を隠したことで、ユリアを傷つけてしまう日がくるかもしれない。
彼女の記憶が戻ったら……。
考えながら、頬を撫でていた手を瞼に滑らせる。手のひらに、固く閉じた瞼の長い睫の感触がした。
目を治せば記憶も蘇るだろう、……逆もまたしかり。
彼女に視力を取り戻させてやりたいと思う。……のに、同時に辛い記憶を蘇らせることになると思うと、その手段を講じる思考が鈍るのも事実だった。
見えないままでも、このままここで暮らすなら問題はない。ならば、もういっそ王太女だったことなど忘れて、何も知らずに生きた方が幸せなのではないだろうか?
◆◆◆◆◆
<ユリア>がダイナスに来て一年。
未だ記憶は戻らず、身元ははっきりしていない。しかし、ジークフリートはそれに対する調査を打ち切った。
ユリアをそばに置いて過ごすうち、もう彼女が誰であろうと構わない、という気になったからだ。
ユリアについて灰色に近い確信はある、けれど、それを確かめてなんになるだろう?
カメリアでは既に、ダリアが王太女として立つことが公布され、経緯について国内外で不穏な噂があったことも、もう過去になりつつある。世界が忘れようとしているなら、敢えてそれを逆行しようとは思わなかった。
ここにいる<ユリア>が、<王太女>でも、それ以外でも、これから彼女が生きていくのに不便はない。
それがジークフリートの出した結論だった。
だから、ジークフリートが助けた女性は身元不明のまま、便宜上<ユリア>と呼ばれながら、今もダイナスの城で暮らしている。
あの日、助けた理由を建て前で答えなかったのが良かったのかもしれない。何故助けたのか判らないと正直に言ったジークフリートを、逆にユリアは信用したようだった。
そして最初は記憶がないことを引け目に感じて、何事にも控え目だったユリアも、一月二月と過ごすうち、周囲にも打ち解け、城の一員となった。
今ユリアは、ジークフリートの専属楽師という仕事を与えられている。彼女をそばに置くための苦肉の策ではあったが、まるでそれが天職であったかのように、彼女は与えられた役目をこなした。
望めば必ず麗しい音色で心を休ませてくれるユリアは、いつのまにかジークフリートの日常にかかせない人になって……まるで、最初からそうであったように、そばに控えている。
最初こそユリアを匿うことに反対していたサーフィスも、記憶の戻らない女を放り出せとは言わなくなった。
ただ代わりに何度も念を押してきた。
『陛下、彼女が王太女かもしれない、ということだけは忘れずに……。今より多くを彼女に望まないでください』
忠臣が、頭を下げて請うように願った言葉を、ジークフリートが思い出したのは、残念だが、彼が危惧した未来が無情にも訪れた時だった。
読んで頂きありがとうございました。
正月休みブーストが終わりました。