光の記憶6
凪いだ海風に押されて進む帆船の一室。
ジークフリートは、まだ目覚めない女性の寝顔を黙って見守っていた。寝顔といっても、目を保護するための包帯が顔半分を覆っているから、本当に眠っているかは判らない。
だから時折、汗を拭いたり手を握ったりして、相手の反応を確かめていた。
何度目かに額の汗を拭った時、枕に散った綺麗な満月色の髪が気になった。
ちゃんと手入れしていたのだろう彼女の髪は、日の光を弾く虹色の光沢を湛えているのに、今の有様は美しさにそぐわない。
肩につかない程度に短く、不揃いな髪形。多分一纏めにして、無遠慮に切り落としたのだろう。
自分でやったにしろ、他人に切られたにしろ、女がこんなふうに髪を切り落とすというのは余程のことだ。
こんなに綺麗にしているならば尚のこと。
刀傷、目潰し、不自然な短髪……どんな事情があればこんなことになるのか。
眠る姿は穏やかなのに、このたおやかな肢体の中にはどんなものが詰まっているのだろう。
考えながら、ジークフリートは何度目か、眠る彼女の上掛けの足下を捲り上げた。
光の中、露になった細い右足首で輝くのは、白銀のアンクレット。
見つけた時彼女が着ていた綿のワンピースは、土や埃で汚れていたものの、質の悪いものではなかった。が、贅沢な品という訳でもない、特徴のないもの。
だから、彼女の身元を示すものは、この白銀のアンクレットだけ。
幅広のアンクレットには繋ぎ目がなく、足枷のようにぴったりと、細い足首にはまっている。切る以外に外しようのないそれは、きっと大人になってから誂えはめたものだろう。
細く緻密に描かれた円が波紋を描き、合間に描かれているのは花のようだった。近く遠く眺めて、それが百合の花を象ったものだと気付いた。
「花か…」
呟きを聞き付けて、近くのテーブルで仕事をしていたサーフィスが顔を上げた。
「これ百合の花だ、周りの模様は葉っぱだろうか」
答えたジークフリートが見ているものに気付き、近付いてきたサーフィスも同じ場所を覗き込む。
細い曲線だけで描かれた百合の花と葉。
緻密な紋様は見事な細工だが、押し付けがましい華美さは一切ない。ひっそり花開いた百合の淑やかさ清々しさを如実に表現した白銀の飾りは、彼女に良く似合っていた。
間違いなくこれは、彼女のために誂えたものなのだと納得する。
だとすると……考え始めたジークフリートの後ろで、同じものを見ていたサーフィスが急に声を上げた。
「これは……」
「どうした?」
「確か本が……」
身を翻したサーフィスは、先刻まで座っていたテーブルセットに駆け寄り、綺麗に積んで合った報告書などを押し退けて、下敷きになっていた本を捲り始めた。何冊目かにお目当てのものを見つけたのだろう、一冊の分厚い本を抱えて戻ってきた。
「これは、こちらへ来る前にカメリアについて調べた時に入手した歴史書です。……似ていませんか?」
ベッドの足下に本を開いて置き、見るようジークフリートを促した。しばらく見比べて、開かれたページに描かれたものと、花を象った模様が酷似しているのに気付く。
「これは?」
「かつて、カメリアで使われていた文字だそうです」
遥か昔、今のカメリア王国を構成する島々には、それぞれ独立した言語や文化があった。しかし近隣の島々を支配下に置いたカメリア王朝が誕生した時、それらは有無を言わせず一つの言語・文化に統一され滅ぼされた。
その後国内では、カメリア語として統一された言葉が長く使用されてたが、航海術の発達によって貿易国として栄え始めたころ、突然王国はそれを廃止し、代わりに大陸からもたらされた新語の使用を義務付けた。
当時の王に先見の明があったのだろう。
現在カメリアで使われているのは、公用語として、世界中で最も利用されている言語であり、おかげで諸外国との国交に殆ど弊害がない。当時は不平不満も多かっただろうが、今となっては英断としか言い様がない、思い切った政策だった。
しかし、国としての利益を優先させる余り、失われてしまったカメリア独自の文化と言葉……カメリア王国の辿った道の光と影を垣間見た気がして、ジークフリートは大きく息を吐く。
跡継ぎ問題のことといい、つくづくカメリアの歩んだ道は、ダイナスの歩んでいたかもしれないもう一つの未来に思える。
ダイナスの開国はカメリアより百年以上後だった。もちろん知識や文明の遅れはそれ以上で、無敵といわれる海軍の存在がなければ、容易に大国のカモにされていたことだろう。
カメリアは同化吸収によって、ダイナスは独立牽制によって、支配を逃れ生き延びた。形は違えど、時代の波に飲み込まれぬよう必死だったのは同じ……。
ふと今までになくカメリアという国に親しみを覚えるジークフリートの隣、サーフィスが現代語訳があるというページを開く。筆で流れるように描かれたカメリア文字と、対応する現代語が表にして記してあった。
本当にこれが文字なのか調べるため、二人は丁寧にアンクレットの模様と表の文字を見比べる。模様として抽象化している所為で判りにくい部分があったが、やはり同じ模様があった。
「ユリア、でしょうか?」
読み取った言葉をサーフィスが声にしてみる。
「ユリア……名前か?」
「この手の装飾品なら、作者の銘かもしれませんね」
「こんなに堂々と入れるか?」
「気付かなければサインとは思いませんよ」
確かに、サーフィスが気付かなければジークフリートも模様としか思わなかった。細工そのものがオリジナルデザインで、作者のサイン替わりのものということも充分有り得るだろう。
もしかしたらこちらが知らないだけで、カメリアでは流行のものなのかもしれないし……色々考えたが、結局ジークフリートは途中でそれを投げ出した。
それらすべて、彼女が目を覚ました時聞けば判ることだ。
新しい発見に夢中になって、気が付けば随分長く素足を曝させてしまった。慌てて捲っていた上掛けを整え直し、最初のように枕元の椅子へ戻る。
幸い彼女は無神経な仕打ちにうなされたりすることはなかったようだ。ホッとしながら、ジークフリートは眠る人を試すように呟いてみた。
「ユリア」
ふと、呼ばれた気がした。
暗闇の向こうから誰かが呼んでいる。
気付いて、暗闇に沈んでいた意識が浮上した。
一番最初に感じたのは強い潮の香りと波音。
何処?
真っ先に浮かんだ疑問を確かめようとしたのに、目が開かない。
「なに……」
驚きが声になって、探るように両手を顔まで持ち上げようとした。
けれど左手が動かない。
どうして?
判らないまま自由になる手で顔に触れる。
何かが顔を覆っている。はがそうとした途端、何かに腕を掴まれた。
暗闇の中突然現れた抵抗に驚いて、予想以上に身体が跳ねる。ビクンと震えた後、硬直した。
「取っちゃ駄目だ。目が覚めたのか?」
優しく宥めるような男の声だったが、手首を捕らえた力は緩まない。強い力に押さえ付けられ、恐る恐る声がした方を向き、小さく頷いた。
「目を悪くしてるんだ。治療のための包帯だから取らないで」
目を悪くしてる?
だから目が開かないの?
判っても身体の硬直は消えず、ピクリとも出来ないまま矢継ぎ早に聞いた。
「だれ? ここは何処? どうして、わたし…」
「……私はジークフリート、ここは船の上だ」
「船? どうして?」
「私のことを覚えてない? 港の裏町で貴女から助けを求められたんだけど」
「……助け? 私が?」
身に覚えがなくて、ひたすら首を横に振る。
「まあ一瞬だったし、しょうがない。……とりあえず、君の名前は?」
何気なく聞かれ、答えようとして………酷く重大なことに気付いた。
自分の名前が判らない。
……否、それどころか、他のことも一切判らない。
考えても考えても、暗闇で目覚める以前のことが、何も意識に上ってこなかった。
愕然として、ぽかんと口を開ける。それをどう思ったのだろう、手首を戒めていた力が緩み離れていく。途端に、暗闇しかない世界に取り残される気がして、反射的に離れた温もりを握り返していた。
掴んだのは骨張った大きな手。
きっと声の主の手だろう。
がっちり手を掴んだまま、必死に自分の内側を探る。
しかし、あるのは闇ばかりで……断片すら落ちてはいなかった。
自分のことが判らない。
それは大変な恐怖だった。
知らず呼吸が忙しなくなり、掠れた悲鳴のようなものが、喉の奥から漏れた。
「……あぁ、………いやっ、どうしよう!!」
掴んだ手を頼りに、慌てて起き上がろうとする。身を捩ると身体が痛かったが、それどころではなかった。
無意味に焦って何かを探す。しかし、探すために起き上がろうとする身体を、無理やり押さえ付けられた。
「大丈夫だから落ち着いて! どうした?」
「判らない!! 何も判らないの!!」
浴びせられた声に負けない声で叫び、頭を横に振る。
「私、名前も、自分のことが、何も判らない!!」
「……ええ!?」
聞こえた声が二重にぶれていたことにも、気付かなかった。
ただただ慌てて、どうしようどうしようと無意味に焦る。そして、すべての原因が目が開かない所為であるような気がして、再び顔を覆う包帯を毟り取ろうとした。
「こら!! ……サーフィス、手伝えっ」
「いやっ、だって真っ暗で! だから判んない! 離してっ!!」
叫んで暴れる自分を押さえ付ける手が、もう二本増えたのも、見えなければ判らない。包帯を剥がそうとする手首と、上掛けを蹴飛ばした足を、別々に押さえ付けられる。
身動き出来なくなって、更に恐怖は募った。でも何も声にならなくて……最後に唇をついて出たのは、泣き声だった。
泣き出したのが伝わったのか、押さえ付けていた手から徐々に力が緩む。手首を掴んでいた手も一旦離れたが、すぐに、今度は握りしめた拳を優しく包むように触れてきた。
拳を包んだ手の優しさそのままの、穏やかな声が落ちてくる。
「驚かせてすまなかった。誰だって突然目が見えなくなったら混乱する、今何も判らなくても心配はいらない」
落ち着いた低い声は、激しく波立っていた心に優しく響く。無意識に声のする方に首を傾け、彼の言葉を良く聞こうとしていた。
「無理しなくていいんだ、今はゆっくり養生しなさい」
命令形なのに押し付けがましさは一切なく、素直にそうしようと思えた。途端に構えていた身体から力が抜け、ほう……と大きな溜め息が出る。
しかし様々な恐怖は完全に消えない。縋るように、強張りのなくなった手でゆっくりと手を握り返した。緩く握った手を、更に強く握り返してくる感触に安心した。
「まだ眠るといい。……サーフィス、水薬を」
そばから、誰かが立ち去る気配がする。もう一人誰かがいたのだと、今気付いた。
「……そうだ、ユリアって言葉に聞き覚えない?」
「ユ、リア? ………判りません」
聞き取ったままを声にしても、何も浮かばなかった。
言葉と共に小さく横に振った頭に何か触れる。ビクンとまた硬直したが、感触でなんとなく何か判った。
頭を撫でられているらしい、大きな手だった。
「ならいい」
しばらくして足音が近付いてくる、サーフィスと呼ばれた人が戻ったのだろう。
「鎮痛剤だ。飲むと眠くなるけど心配いらない」
頷いた後、唇に冷たい感触。水差しの細い管を唇で食んで、流し込まれた液体を飲み込む。
無防備過ぎるかもしれないと一瞬警戒したが、拒んでもどうしようもない。何も判らない以上、今は掴んだ手と声の主の言葉を信用するしかないのだ。
せめて目が開けばいいのに……。
願う意識を直に薬による睡魔がさらっていった。
◆◆◆◆◆
しばらくして、眠りに落ちたらしい彼女を見下ろし、ジークフリートとサーフィスは堪えていた溜め息を大袈裟に吐きだした。同時に肩の力を抜いたお互いを見て、ジークフリートが先に笑う。釣られてサーフィスも笑ったが、直に表情を改める。
しっかり握られた手を解いて立ち上がるジークフリートをそそくさと別室へ促すと、声を潜めて囁いた。
「陛下、一つ思い当たることがあります」
「なんだ?」
「カメリアの王太女の名が<ユリア>です」
「……………まさかっ」
「ええ、私もまさかとは思います。しかし……」
否定出来る材料もない、寧ろ肯定の材料ばかり整っているような気がした。
後継者争いの続く国で出会った他人は、重傷を負い、薬品で目を潰され放置されていたのに、身なりにそぐわぬ装飾品を身に付けている。
壊す以外に外せない装飾品は、いざと言う時、身の証しを立てるためのものだからではないだろうか?
思い浮かべた推理と、ほぼ同じことを投げ掛けてくるサーフィスに頷きながら、聞き返す。
「お前は、今のあれが演技だと思うか?」
「判りません。しかし、陛下が名乗った後でしたから、彼女が本物なら我々を警戒した可能性もあります」
神妙に頷いたジークフリートはすぐに考えを巡らせ、固い声で命じた。
「……カメリアに残ったものに至急、内情を探らせろ。事実がはっきりするまで、彼女のことは他言無用だ」
「当たり前です」
即返した言葉は臣下の返答としては生意気過ぎるものだったが、ジークフリートも咎めはしなかった。
何故ならこの厄介事を持ち込んだのはジークフリート自身で、サーフィスが危惧した通りになってしまったから……己の軽率な行動が国に及ぼす影響を考えれば、この程度のことでサーフィスを責められるはずもない。
己を非を素直に認められる人だからこそ、ジークフリート王の周りには、忠臣と呼ばれる部下が多くいるのだ。
読んで頂きありがとうございました。