光の記憶5
ジークフリートが、ユリアを連れてカメリアを出たのとほぼ同じ時間。
それとは似て異なる報告を受けたダリアは、赤い瞳に激怒の炎を宿らせて、跪く部下を扇で張り倒した。
「あれほど厳重にしろと言ったでしょ! この役立たず!!」
怒声を浴びせ、一斉に身を竦めた部下達を睨み付ける。いっそ、全員殴り殺してやりたい気分だった。
ダリアを激怒させた報告とは、移送中のユリアが姿を消したこと。
口を酸っぱくして、重要な任務だと伝えていたのに……あっさり失敗する部下を、役立たずと言わずしてなんと言おう。
大方、手負いの女一人。今更自力で逃げ出せるはずがないと、油断していたに違いない。
そう疑いたくなる程、間抜けな失敗だった。
本来ならユリアは生きていてはいけない。
彼女が生きていては、ダリアが王太女として立つ理由がなくなるからだ。
ダリア達が描いた計画は、王太女が不慮の事故で死亡し、第二王女が王太女になるという単純なもの。
今のところ、計画は順調に進んでいる。昨夜の太子宮襲撃も成功し、数時間後には、今朝視察に出掛けたユリア一行が事故に合った、という報告が届く手筈になっていた。
その事故で王太女は死に、堂々とダリアが取って代わる。たとえ謀殺を疑われたとしても、証拠がなければ覆せはしないし、隠し通せるだけの準備はしてきた。
計画完遂のため、ユリアには死んでもらわねばならない。
その彼女を生き長らえさせたのは、ダリアの独断だった。
このことは、ダリアと腹心のシド以外誰も知らない。ダリアは母さえも欺いて、アルベリッヒとの約束を守った。
……ただ、アルベリッヒと約束したのはユリアを生かすことだけ。取引を持ち掛けた時から、彼女を楽に生き長らえさせるつもりはなかった。
彼は、半分といえども血の繋がった姉妹なのだから、権力から遠のけば、ダリアも実の姉に無体なことはしないと思っていたのかもしれないが、そもそもダリアがユリアを疎むのは、彼女が王太女だからではない。
アルベリッヒが、ユリアを想うからだ。
たとえ二人が永遠に再会することがなくとも、彼の心をユリアが捕らえ続けている限り、ユリアは憎い恋敵。
恋敵に穏やかな一生など送らせてなどやらない。寧ろ、生き残ったことを後悔するような、過酷な人生を与えてやろうと考えていた。
なのに……まだ始まってもいない計画に綻びが生じた。
自分の失敗ではないから余計に腹が立つが、こうなってしまった以上、とるべき策は一つ。
見つけ次第ユリアを殺す。
計画そのものが破綻する危険を冒してまで、生かしておく価値はない。
そもそも、最初からユリアの生命は、アルベリッヒの生命の足枷でしかないのだから……。
暗殺計画の実行時、ダリアが最も恐れたのは、ユリアを失ったアルベリッヒが、彼女の後を追うこと。または、ユリアのために、その生命を散らすことだった。
騎士としても一人の男としても、彼はユリアのために死ねる。そうさせないために、わざわざ取引を申し出たのだ。
ユリアを救うからアルベリッヒも死なないで……。
どれ程悲痛な願いだったか、きっと彼は判っていないだろう。これから先も、気付かないかもしれない。
だが、それでもいい。卑劣と言われる手段ででも、彼を救えたことに今は満足していた。
先々のことを考えれば、ユリアにもまだ切り札として利用価値はあるが、逃がしてしまっては元も子もない。
悔しいが、今アルベリッヒがダリアのそばにいるのは、ユリアのため。そのユリアが逃げたと知れば、彼は迷わず彼女の元に行くだろう。
そして二人は幸せになる?
………そんなこと、絶対許さない!!
決意の表情で拳を握ったダリアは、そばに控えていたシドに目配せし、軽く首を横に振る。頷いたシドは、数人の部下を連れて姿を消した。
言葉にしなくても、ダリアのすべてを理解する<シド>は、ユリアにとってのアルベリッヒと同じ。
シドもまた、幼い日にダリアに引き合わされ、主を命懸けで守り抜く誓いを立てた騎士だった。
ただ、シドがアルベリッヒと違っていたのは、その出生。
由緒正しい騎士の家に生まれ、なるべくして王太女のそば近く仕える騎士となったアルベリッヒと違い、シドは孤児だった。
親も素姓も、本名さえ明確には判らない。
そんな彼が、第二王女とはいえ王族に仕えるようになったのは、生まれ持った才と運のおかげだった。
彼にとっての最初の幸運は、預けられた孤児院の院長が善人であったこと。
聡い子供だったシドの可能性をいち早く見抜いた院長は、善意から彼がしかるべき教育を受けられるよう、篤志家達に打診してくれた。
相応しい教育を受ければ、シドは必ず国のためになる人材になるだろうと、強く説いた院長の言葉に耳を傾けたのが、ダリアの母だった。
既に、我が子の行く末について、不穏な考えを持っていた母は、この哀れな子の才が、将来ダリアの役に立つと直感した。
いつか王位につく日のために、有能な人材は何人いてもいい。ユリアを凌ぐための手駒は多く必要だ。
彼女はシドの才を、国のためではなく、我が子のために伸ばすことにした。
ダリアの母の命で、シドはすぐに貴族の養子に迎えられ、訳も判らないまま、ダリアの側仕えの列に加わった。
この時、まだ幼かったシド自身に、功名心など欠片もなかった。しかし望んできたわけではないのに、手柄を立てても誰も褒めてくれないばかりか、孤児だったことを理由に、同じ側仕えの少年達から苛めを受けても、泣き付く相手もいない。
理不尽さをぶつける場所も人も見つけられないまま途方に暮れた彼は、ある日、泣くことをやめて決意した。
それは、幼さ故の歪んだ適応。
我が身を守るため、シドは誰にも非難されることのない強さと力を望んだ。
そして、それはダリアの母が望んだ通り、彼女の野望を手助けすることになった。
主であるダリアが女王になれば、側近のシドにも絶大な権力が約束される。
ならば、どんなことをしてでもダリアを王位に……。
願い、シドは自らが這い上がるため、陰謀の直中にその身を置いた。以後、シドはダリア一派の野望のため尽くし、主の望みのためならどんな行為も躊躇わない忠臣として知られている。
……しかし、それが表向きのことであるのは彼ら自身が一番良く判っていた。
ダリアとシドにとって不運だったのは、比較的早い段階で、互いの本心を理解してしまったことだった。
ダリアはシドの打算を、シドはダリアの願望を、見抜いてしまった所為で、彼らは長く寄り添い、互いを判り合う仲になっても、心を許し合う友にはなれなかった。
すべては己の望みを叶えるため。
ただ望みが叶う日まで、互いが互いを裏切らないことだけ判っていればいい。
だからこそ、ダリアはシドにだけアルベリッヒと取引したことを伝えた。ダリアが王位を望む理由に、アルベリッヒが深く絡んでいるのは、彼も知っている。
案の定、シドは心底嫌な顔をしたものの、結局誰にも知られぬようユリアの死体の擦り替えを行い、ダリアの望みを叶えてくれた。
今度もシドに任せておけば心配いらないと、全部を彼に丸投げしたダリアは、さっさと思考を切り換え現実に向かう。
目の前で跪いている男達を見渡し、冷たく言った。
「全員始末して」
元々、ユリアの移送が無事完了したら消すつもりだったのだ、躊躇いはない。命じられ連れて行かれる男達の、必死の嘆願に眉も動かさず、用の済んだダリアは広間から私室へ戻った。
扉を開け、中にいる人を確かめてから笑い掛ける。しかし、待っていた人は、ダリアが開けた扉から滑り込んだ悲鳴に眉をしかめ、理由を問うようにそちらを見遣るだけだった。
「なんでもないわ、気にしないで」
笑みを浮かべたまま、ソファーに座るアルベリッヒに歩み寄る。
アルベリッヒは、太子宮襲撃の直後からダリアの宮殿に匿われている。まんじりともしないまま一夜を過ごした灰色の瞳は、寝不足のためか赤く充血していた。……否、それは寝不足の所為ではなく、誰にも知られぬところで泣いた所為かもしれない。
ユリアのために泣いたの……?
考えるのも不快で、奥歯を噛み締めたダリアは、躊躇うことなくアルベリッヒの隣へ腰を下ろした。そして彼の胸に倒れ込むように抱き付く。
もう、こうすることを誰に遠慮する必要もないことが、至上の幸福だった。
ユリアはおらず、騎士のアルベリッヒは次期女王の自分のもの。
誰憚ることなく、そばにいられる。
今更人目など気にするものか。
貴方を手に入れるためだけに、私はここまでしたのだから……。
うっとり笑い、更に強く彼を抱き締める。そして噛んで含めるように囁いた。
「ねぇ、アルベリッヒ……これからずっと一緒よ」
返事の代わりに、抱き付いてくるダリアを抱き返したアルベリッヒは、深く瞼を閉じる。溜め息は、なんとか堪えた。
後何時間かしたら、アルベリッヒはユリア達を襲った事故の生き証人として、国王や大臣達の前で、不幸な事故の顛末を証言しなければならなかった。
その瞬間、アルベリッヒは名実共に裏切り者になる。
何故ならそれは、自ら望んでつく嘘であり、この先陰謀が暴かれることがあれば、荷担者の一人として裁かれる罪だから。
今更罪を重ねることに、恐れはない。
一人生き残ったことを不審に思われ疑われ、守るべき貴人を見捨てた臆病者と罵られても、耐えてみせる。
誰のためでもない、ユリアのために……。
読んで頂きありがとうございました。