光の記憶4
カメリア王国と海を挟んだ隣国に<ダイナス王国>がある。
両側面を広大な海と高い山脈に挟まれた狭く細長い地形のダイナスは、大陸の一番端に位置しながらも、険しい山脈に大陸の国々との国交を阻まれ、航海術の発達まで、長く閉鎖された国だった。
ダイナスの狭い国土は農耕には適さなかったが、目の前に広がるのは無限の海原。遠浅の海岸には豊富な海産資源が溢れている。それを巡って過去何度か大きな内乱が起こり、少ない国土を幾つにも分裂する事態もあったが、近年ダイナスは再び一つの国家に統一されていた。
それを促したのが、航海術の発達による来訪者だった。
新たに発見した豊かな小国の存在を、大国が見逃すはずがない。予期出来る異国の侵略を防ぐために、ダイナスは再び一つとなり、まとめ上げた男を祖とする一つの国に戻った。
やがて何代か前の王の時代、やってきた大国は無条件降伏による支配をダイナスに強いたが、ダイナス側は強固な態度でそれを拒否。
至る結末は争いであったものの……意外にも結果は、ダイナスの勝利だった。
独自の発展を遂げていたダイナスの海軍は他を圧倒し、以後の武力衝突の場面でも、ダイナス海軍は決して破られなかった。その歴史に、今も変わりはない。
無敵艦隊として名高い、ダイナスの現在の最高司令官は、国王ジークフリート。
不慮の事故で父王を失い、二十歳で王位に付いた時こそ、若い彼に多くのものが不安を抱いたが、近年では己の責務をよく理解し、勤勉なジークフリート王は、若いながらよく国を治め守る善王として評判の人物になっていた。
そのジークフリートが、カメリア王国にお忍びで訪れたのは、敵情視察のためだった。
ダイナスとカメリアに、表立った対立は今のところない。しかし、同じ海洋国家としての利益の在り方や海域の領土権など、争おうと思えばいくらでも理由は作れるのが現状。
しかも両国は、隣国でありながら、今まで同盟などの措置はとってなかった。
隣国といえど、遠く海を隔てた国。
どちらも互いを脅威とは思わず、積極的な外交を行わなかった。
……だが、事情が変わりつつある。技術の発展が広い海の距離を容易に縮め、海はもう絶対的な防壁ではない。
そう考えたダイナスが、カメリアとの新たな在り方を考え始めた頃、更なる不穏な情報がもたらされた。
カメリアの王が、そろそろ危ないという。
王が変われば、国の方針も変わるだろう。
そうなれば、ただの隣国は明確な敵になるかもしれない。
それを避けるべきか否か……見極めるために、王が直々にカメリアを訪れていた。
くしくもそれは、ダリア支持派が太子宮を急襲したのと同時期だった。
◆◆◆◆◆
訪れた時と同じダイナス国籍の商船の前で、今か今かと主の帰りを待ちわびていた側近達は、戻ってきた王が、大きな荷物を抱えていたのに驚きながら、慌てて駆け寄る。
「へい……旦那様、今までどちらにいらっしゃったのです? 予定の刻限が過ぎてもお戻りにならないので、皆心配しておりました」
「ちょっとな。それより、中でこの子を見てやってくれ。怪我をしてるんだ」
周囲から隠すように背中を丸めたジークフリートは、両腕で抱えた布を供の者に突き出し、ちらりとだけ中身を見せる。
布で包まれていたのは、蒼白の女性だった。
薄紫になった唇は、本当に微かな吐息しか零していなくて、緊急性を悟った部下達は、慌てて彼女を船内に運んでいく。
見送ったジークフリートもすぐに後を追おうとしたが、後ろからゴホンと一つ咳払いが聞こえ足を止めた。振り返ると、渋い顔をした側近と目が合う。
ジークフリートより5つ年上の側近サーフィスが、真っ黒な瞳に非難を込めて、事態の説明を求めていた。
「あの方は?」
「さあ?」
「……は?」
「路地裏の荷馬車の中から助けを求められた。放置しておくのも気が引けてな、手当てしてやるくらいならいいかと思って」
「……ではどこの誰かも?」
「判らない」
応えて首を竦めた瞬間、はあ……とこれみよがしな溜め息が聞こえ、小言の予感がしたジークフリートは、早足に渡板を渡って船に乗り込む。
「お待ちください」
「判ってる、軽率だって言いたいんだろ。でも、か弱い女性が助けを求めて目の前で気絶したんだ、放っておく訳にいかないじゃないか」
そうだろう? と聞くジークフリートの目に己の行動を非難する感情はない。自分の都合で迷惑を掛ける申し訳なさを感じていても、正しさを疑ってはいないのだ。
ジークフリートはこういう人だと知っていて仕えている以上、サーフィスに出来るのは溜め息をつくことくらい。苦渋を浮かべつつも、さっさと歩き出したジークフリートの後を、黙って追うしかなかった。
彼女の手当てを待つ間、出港を遅らせたジークフリートは、船の食堂兼会議室に戻った部下を集め、それぞれの口から直接、彼らが手に入れた情報について報告を受けた。
部下が持ち帰った情報は、端々に差異はあれど、カメリアの内情について大筋では同じ話が続く。
王の容体が芳しくないこと、そして、それに呼応するように激化している後継者争い。
その原因ともいうべき事実の報告を聞き終えたジークフリートは、大袈裟に溜め息をついて額を押さえた。気付いたサーフィスが訝しげに聞く。
「陛下?」
「や……女は怖いと思ってさ。王位につかなくても子は子だろうに……」
「王の子として生まれた以上、権利はあると思ったのでしょう。年の差も殆どないのですし……」
「だからオレは一夫多妻には反対なんだ。争いの元にしかならない」
真面目な顔をして、世界中の王に喧嘩を売るようなことを言うジークフリートには、現在妻がなく、長くダイナス王妃の座は空席である。
ジークフリートの妻はこの世にたった一人。
今はもういない、愛息ランティスの母だけだ。
失って十年近く経った妻を、ジークフリートは今も深く深く愛していた。そのことはサーフィスを含め、ジークフリートのそば近く仕えているものなら、みんな良く判っている。
しかし、事情を知りながらも王が独り身でいるのを快く思わない人間もいる。そういう輩は、何かあるとすぐに、尤もらしい話をしながら再婚話を進めてきた。
息子が小さいうちはそれを理由に、ランティスが大きくなってからは、真逆のことを理由に……その度ジークフリートも、同じことを理由に全部をつっぱねてきたが、今程再婚しなくて良かったと思ったことはない。
もし仮に再婚してランティスに腹違いの兄弟が出来たとする、その母である王妃が我が子のため、継子のランティスに危害を加えるようなことになったら……考えただけでゾッとした。
隣国の内情は、ダイナスにもあったかもしれない未来。
想像を深刻に受け止め、いっそそのことに関する法を明確に定めようかと、旅の目的とは一切関係ない事柄に眉をしかめていたジークフリートを、ノックの音が現実へ引き戻す。
サーフィスが返事をして、姿を表したのはダイナスから同行してきた医師だった。拾ってきた女性の手当てが終わったのだろう。
容体を聞いたジークフリートに、初老の医師は困った顔のまま告げた。
「怪我は刀傷でしたが、既に適切な手当てがしてありましたので、生命に別条はありません。しかし……」
「ん?」
歯切れ悪い言葉尻を捕らえ、ジークフリートとサーフィスの視線が険しくなる。
「目の方は、今はどうすることも出来ません」
「目も悪くしてるのか?」
「はい、最近何かの薬品で潰したようです。ここには設備もありませんし、手持ちの薬ではどうすることも……力及ばず申し訳ありません」
深く頭を下げて謝罪する医師を驚きながら見つめるジークフリートの隣、サーフィスがそら見たことか、と言わん許りの視線を送ってくる。側近の冷たい視線を避けるように、やんわり顔を背けたジークフリートも、サーフィスと同じことを考えていた。
怪我が刀傷というだけで充分不審。その上、目まで……薬品でわざわざ潰したとなれば、ただごとではないだろう。
厄介事の匂いがする。
「……どういたします?」
指示を仰ぎながらも、サーフィスは冷たい決断をジークフリートに迫っていた。
怪我人とはいえ、彼女は他国の見知らぬ人。
しかも厄介事を抱えているかもしれない。
関わるべきではない。
強く目で訴えるサーフィスと一度視線を合わせたジークフリートは、しかしきっぱりと首を横に振って彼の願いを拒否した。
「国へ連れ帰る」
「陛下!」
「これも何かの縁だ。見捨ててはおけない」
決意の口調で言ったジークフリートは、それ以上の会話を拒否するように立上がり、止める術を持たないサーフィスは仕方無く頭を下げた。
厄介なことにならなければいいと思いながらも、この時はサーフィスも軽く考えていた。
たった一人連れ帰るくらい、大したことではないだろう、と。
寧ろ、この時サーフィスが気に病んでいたのは、時折現れるジークフリートのこういう優しさについてだった。
敬愛する王は、良く言えば懐が広いのだが、悪く言えばどうしようもなく甘いのだ。
優しいだけでは守れないものもある。王として、時には非情になることも必要だ。
常々思い、ジークフリートに優しさと共にある<強さ>を身に付けてほしいと願っていたサーフィスが、この日ジークフリートの甘さを許した自分を殺したい程後悔したのは、これより少し先……船がカメリアを離れ、ダイナスの領内に入ってからのこと。
縁といえばこれ程奇妙な縁もなく。
互いに何も知らないまま、ダイナス国王<ジークフリート>は、カメリア王国王太女<ユリア>を救い、国へ連れ帰った。
読んで頂きありがとうございました。