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光の記憶1
















「ねぇ、誰を見てるの?」


 行為の後、下敷きにした娼婦が笑って聞いてきた。

 悦を吐き出した余韻に浸っていたアルベリッヒは、唐突な質問にピクリと身体を揺らせて、目を開ける。

 純粋な驚きを表す灰色の瞳をふふっと笑い、女は綺麗に色を付けた爪先で、アルベリッヒの頬を流れる汗を拭う。悪戯っぽく笑う彼女の顔に憎悪や嫉妬などの醜い感情はなく、ただふと気付いたから、聞いてしまっただけなのだろう。

 彼女に、別人の面影を重ねて抱き締めたのは事実だった。あっさり見抜かれたことに苦笑して、彼女の汗に濡れた額を拭い、呟く。


「好きな人だよ」


 そう……と女はまた笑って、アルベリッヒの下から抜け出した。


「どんな人?」

「君にちょっと似てる」


 教えて、隣りで気怠そうに寝返りを打つ、女の肢体を改めて観察した。

 長さは違えど同じ満月色の光沢の髪、けぶるように長い睫が縁取る穏やかな薄茶の瞳、薄い桜色の唇と、それを映えさせる雪色の肌……顔の造形と第一印象が、酷くあの人に似ていたから、迷わず今夜の相手に選んだ。


 どんなに想っても、本人には手を触れることさえ出来ないから、身のうちに巣くう邪な感情を押さえ付けるためには、一時の身代わりが必要。未練がましく、少しでもあの人に近い人を探したらしい。


「ごめんね」


 身代わりとしたことをつい謝罪したアルベリッヒの心根の優しさを感じ、女は穏やかに首を横に振る。娼婦相手にそんな必要ないのだと慰め、翳りを帯びた灰色の瞳を労った。


「……哀しい目ね、ふられたの?」

「いいや、最初から手の届かない人だから……永遠の片想い」


 切なく告げる目は、今にも泣き出してしまいそうに弱々しくて、女は優しくアルベリッヒを抱きとめる。応えて、細くてしなやかな身体を抱き返し、女の長い金髪に頬を擦り寄せて、そっと瞼を閉じた。


 その裏に、本当に抱き締めたい人を思い浮かべる。


 こんな風にあの人と抱き合えたら、どんなに幸せだろう。

 何もかもを捨て去って、本心を告げて触れ合えたら、どんなに……。


 しかし、描いた夢想でさえ、唐突に聞こえた声に掻き消された。

 今日もたらされた最悪の情報。

 伝えに来た人の声が、描く未来すべて黒く塗り潰す。


 最初から、手に入らないと判りきっていた。

 だから、多くを望んだことなどない。

 ただそばにいて、細やかな幸せを噛み締めて生きていければ、それでいいといつも思ってた。


 ……なのに、それさえも許さないと、運命は告げる。


 神も運命も信じたことはないけれど、こうも皮肉な現実ばかり押し寄せてきては、非現実的なものに責任を押しつけなければ、到底受け入れきれない。


 残酷な運命。

 意地悪な神様。


 何も願いを叶えてくれないばかりか、それらはアルベリッヒから様々なものを奪っていく。そして今度は、最後に残っていた本当に大切なものを渡せと迫ってきた。

 それを手放したら、アルベリッヒには何も残らない。


 心の支えも、人生の幸福も、何一つ。


 でも……もう手放す他に方法がない。

 そうしなければ貴女がっ…。


「いたっ…」


 歯を食いしばった瞬間、腕の中の女が悲鳴を上げる。知らないうちに、彼女の細い身体が軋む程締め上げていた。


「ごめん」


 慌てて力を抜き、指の跡が残る細い肩を撫でる。けれど彼は、優しい動作にそぐわぬ険しい顔のままだった。不思議に思って、女はまた問い掛ける。


「怖い顔……理由、聞いてもいい?」

「憎いんだ、思い通りにいかない現実が」


 誰でもそうよ……そんなふうに慰めようとした。判っていたかのように、女の言葉を遮ったアルベリッヒは、また強く彼女を抱き締めて、腹の底から絞り出すように囁いた。


「これからオレは、本当に好きな人を裏切る」

「………どうして?」


 彼の真剣さを感じ取った女は、震える声で聞く。


「貴女を守るのに、他に方法がない」


 重なる面影を混同して、女ではなくあの人に向けて呟き。腕の中で震え始める人を、しっかりしっかり抱き締めて、そばにある耳や首筋に何度も口付けを繰り返した。

 そして触れる度、謝る。


「ごめん…ごめん、ごめん……」


 謝りながら抱擁を解いた手で女の頬を包み込み、覆い被さるようにして、額に、瞼に、鼻先に、唇に……触れるだけのキスを繰り返す。


「申し訳ありません……ユリアさま」


 やがて、女の頬にぽつりと小さな衝撃があった。予感しながら薄く瞼を開く。

 灰色の瞳からは、謝る度に透き通った雫が零れていた。


 もう彼は自分を見ていない……判っていたから、女は涙を零す灰色の瞳を覗き込んで、アルベリッヒが謝る誰かの代わりに首を横に振って、静かに彼を抱き締めた。















【光の記憶】















 大小様々な島の集まりで形成された、カメリア王国。

 周囲を海に囲まれた島国は豊富な鉱物・海産資源に恵まれ、貿易によって栄えている。特に、首都に建築された貿易港は、全世界に向かって開かれ、毎日何千隻もの貿易船が集い、賑わっていた。


 長く他国との争いもなく平和だったカメリアに、もたらされた不穏な翳り。

 それは、長く子に恵まれなかった現王に、相次いで子が誕生したことだった。


 第一王女・ユリアと第二王女・ダリア。


 共に王の寵姫を母に持つ、たった半年しか年の違わぬ異母姉妹には、生まれ落ちた瞬間から大きな隔たりがあった。


 長子相続を常とするカメリアでは、余程のことがない限り、先に生まれたユリアに王太女、ひいては次期女王の座が約束されていた。


 しかし、僅か後から生まれたダリアには何もない。

 何もないばかりか、彼女は現第二王位継承者-ユリアの予備要員-として、ユリアが女王となるまで城に止どまらなければならず。

 何事もなく姉が王となった後には、姉妹であっても臣下に下り、姉に仕え続けなければならない。


 たった半年、されど半年の差が、娘の未来の明暗を分けたと知った時の、ダリアの母の悲嘆と怨嗟は並大抵のものではなかった。


 時の流れを覆すことは出来ないと理解しながらも、諦めきれない。先に生まれた、ただそれだけの理由で<王太女>という地位を得たユリアが憎く、同じ王の子でありながら何ももたない我が子が哀れで……。


 スクスクと育つ娘の未来を思いやり、泣き暮らす毎日の中、やがて彼女は<夢>をもった。


 それは、抱いてはならない<夢>。


 ないのならば、この手で与えてやろう。

 どんなことをしても、この子に至高の地位を……。



 王冠を頂いて玉座に座る娘の姿を夢想して微笑んだ彼女の<夢>は、やがて<野心>となり、時を経て、王国を揺るがす<陰謀>へと姿を変えた。



 以後、十数年間、カメリアの王宮では熾烈な後継争いが続いていた。







◆◆◆◆◆








 静かな闇夜を突然切り裂いた騒乱が、ジリジリと自分に近付いてくるのを、自室で息を殺して窺っていたユリアは、騒々しい足音がはっきり聞こえるようになると、愛用の剣の柄に手を掛けた。


 たとえ殺されるのだとしても、ただでは死ぬものか。


 覚悟を決めて、賊の襲撃に備える。

 その間にも、足音は迷いなくユリアの部屋へ迫っていた。次の瞬間、バンッと大きな音を立てて、観音開きの扉が蹴破られる。

 廊下に灯された明かりが暗い室内へ差し込み、侵入者の影が床に落ちた。


「殿下!!」


 悲鳴のような声に呼ばれ、寝台の陰に身を潜めていたユリアは弾かれたように立ち上がる。声で相手を判断して、ユリアもまた叫んだ。


「アルベリッヒっ」


 立ち上がったユリアを見つけて、即駆け寄ってきたのは側近の騎士、アルベリッヒ。

 彼ももう休んでいたのだろう、抜き身の剣を握っていても、服装は寝間着のままだった。息を切らして駆け寄ってくる彼に、ユリアも走り寄り、互いの無事を確認しあう。


「お怪我は? ご無事ですか?」

「ええ、私は大丈夫。それより状況は?」


 問われ、睫を伏せたアルベリッヒは、ゆっくり首を横に振った。


「……そう」


 味方は殆ど捕らえられたか、殺されたかしたのだろう。悔しさと哀しさに、きゅっと唇を噛み締める。


「でもアルベリッヒが無事で良かった。さあ、逃げましょう」


 絶対の味方の出現に安堵して、避難路へ導こうとする手を、しかしアルベリッヒはやんわりとほどいた。


「アル?」


 不審に思って振り返ったアルベリッヒの向こう側、彼が開けた扉の向こうに人影が見える。段々近付いてくるのが誰か判った途端、ユリアは掠れた悲鳴を上げた。

 気付いたアルベリッヒも、同じ場所を振り返る。

 やってきた人に慌てる素振りはなく、互いの姿がはっきり見える位置で立ち止まって、立ち尽くす二人と対峙した。


 廊下の明かりが照らす、豊かな赤毛と感情を良く表す赤銅色の大きな目。


 見間違えるはずもない、それはユリアの腹違いの妹、ダリアだった。


 やはり……そんな思いがユリアの胸を掠め、視線に険が籠る。

 アルベリッヒの背後から睨んでくるユリアと一瞬視線をあわせたダリアは、すぐにその目を逸らして、やがて信じられない言葉を紡いだ。


「アルベリッヒ、ご苦労様。もういいわ」


 言葉と共に右手を差し出し、ニッコリ微笑む。

 ユリアにはダリアが笑って言う言葉の意味が全く理解出来なかった。しかし、判らないままのユリアの前で、小さく頷いたアルベリッヒは、躊躇いもなくダリアの方へ歩いて行く。彼女の隣りに並んでから、こちらへ向き直った。


 訳が判らない。


 どうしてアルベリッヒが、この状況で自分から離れる?

 もういいとは、どういうこと?


 理解出来ないで呆然としている姉を笑ったダリアは、アルベリッヒの腕にしなだれかかって、嘲るように瞳を細めた。


「ユリアなら、きっと騒ぎに気付いても一人じゃ逃げない。自分が来るのを待ってるって、アルベリッヒが教えてくれたの」

「……え?」

「アルベリッヒは、私の側についたのよ」


 ねぇ? と隣に立つ彼に視線を向ける。ユリアも釣られてアルベリッヒを見た。

 しかし逆光が邪魔をして、彼が今どんな顔をしているのか、ユリアからは見えない。ただ、ダリアの言葉を否定する素振りは微塵もなかった。

 動揺もなく静かに佇む彼の感情が見えないまま、ユリアは自分の中にある確信に縋って叫ぶ。


「嘘っ……そんなはずない!」


 アルベリッヒが裏切るはずない。それだけは、絶対の自信を持って言えた。


 幼い頃からずっと一緒にいた。いつでもいつまでも守ると誓いを立てたアルベリッヒが、裏切る訳ない。信じるものか!!


 現実を目の当たりにしても折れないユリアの抵抗は、予想済みだったのだろう。変わらず笑ったまま、ダリアはすっと腕を持ち上げて指差し命じた。


「やっぱり信じないの……じゃあ、私への忠誠見せてあげる。アルベリッヒ、そいつを切って」

「……なに?」


 命じられたアルベリッヒも、聞いていたユリアも同時に目を見開く。

 その時にだけ、アルベリッヒに動揺が走った。


「早く」


 甘えるような口調で急かす、赤銅の瞳に躊躇いはない。彼女は実行だけを求め、反論は一切受け付けないとアルベリッヒの肩を押した。

















読んで頂きありがとうございました。


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