あの、先日助けていただいたドアマットです
玄関先でほとばしった衝撃。
「あの、先日助けていただいたドアマットです」
「はい?」
聞きまちがいかと思い、耳の穴をかっぽじった後にもう一度言ってもらった。
「ドアマットです。先日はありがとうございました」
目もイカれているようで俺の目の前には40センチ×60センチの茶色いマット立ち上がり頭を下げるように上半身を折り曲げていた。目線はだいぶ下である。
「いや助けるって……え、てかドアマット……」
「突然やってきて申し訳ありません。ひと言お礼を言いたくて」
そう言ったドアマットは恥ずかしそうに笑った——ような雰囲気だった。俺はどうしたらいいかわからず動くことができない。とっさに扉を閉めたとしてもドアの隙間からコイツがするりと入り込んできそうで怖い。かと言ってドアマット相手にマジメに取り合うのもどうなんだ。
「……あの、よければ少し話を聞いてくださいませんか?」
無言を承諾と受けとった上に身の上話を繰り出そうとしているドアマット。こわすぎないこれ。
「ご覧の通り、わたしはドアマットです。しかも玄関という外気と隣り合わせの過酷な環境で……靴で踏みつけられる毎日でした。晴れの日はそこまでないのですけど、雨がひどい時には濡れた土とどこからくっついて来たのかわからない草の破片が顔にかかり……家主様はわたしのことマット程度にしか思ってらっしゃらないのでしょうね」
まあマットだからな。
「掃除をすると言っても、天気の良い日に外で干して、細い棒で叩くくらい。あんなのじゃ全然、汚れなんか落ちないのに」
そう言って切ない吐息をもらした茶色いドアマット。たぶんそんな様子だ。
「……わたし、お向かいのマットがずっとうらやましかった。子どもがたくさんいて、毎日が本当に賑やかで」
確かこいつの持ち主は品の良さそうな老婦人だった。主人は先立ったのなんのと世間話をした気がする。ちゃんとキレイにしてあげたいからと依頼を受けたのだが。
「わたしの中には長年の汚れが溜まってしまいました。日焼けて色あせた部分もあるし、同じ場所ばかり踏まれたせいで毛足が短い場所もあるんです。こんなの、うれしくない。足りないんです」
ドアマットがパッと顔をあげ、まっすぐにこちらを見つめた。ような気がした。最後のセリフが不穏なのだが気のせいか。気のせいだと思いたい。
「でもあなたは違った……! わたしを乱暴に持ち上げるとくたびれた回収箱の中へ容赦なく詰め込みましたよね」
興奮のせいか上ずって早口にまくし立てるドアマットに「まあ汚いマット入れる箱だからそうだわな」と普通のことしか返せない。清掃屋がマット回収してなにが悪い。
「あんな、誰が入ったかもわからない箱に……!」
こいつアカンやつだ。
本能的な悪寒に俺は一歩、いや半歩うしろへと身をずらした。しかしドアマットがずいっと身を乗り出す。
「わたしはうす暗く湿った部屋に寝かされました。タイル張りの床はひどく冷たく、ツンとしたかびの匂いもしました」
声から興奮が漏れている。
ドアマットは止まらない。
「あなたはわたしの体に得体の知れない薬剤をかけ、水責めにつぐ水責めのあとは毛先の硬いブラシで体を何度もこすってくれました。本当に、何度も、何度も、執拗に……」
興奮が大きくなってきたのか、ドアマットを構成する毛がぶわりと膨らんだ。
「次に大きなローラーを取り出したかと思うと、わたしをなんの躊躇もなく轢いて……正直、あの時は全身の水分が出たのではと思いました。しかも……わたしの様子を、あなたはじっと見ていた。はしたなく水を吐き出す様子を、その目でじっと」
え、なに?
なんで興奮してるの??
「水を吐き終わったらもう終わりかと思いました。でも違った。あなたはまたわたしに薬剤をかけた! わたし、もう興奮してしまって、それまでにないエネルギーがわたしの中で溜まってきたんです。次にまた水責めされて、拷問器具のようなブラシでこすられて、そのたびに体にエネルギーが満ちていって……」
肩で息をするかのように体を上下させているドアマット。荒い息づかいに熱がこもっている気がした。
「最後の工程でわたしに何をしたか、覚えていますか?」
期待するような、すがるような声。
俺が何をしたのか。
それは理解しきっているのだが言葉にすることはできなかった。だってもう怖いもんこいつ。見かねたドアマットがまた一歩近づく。
「乾燥機」
これが人間ならば美貌の悪女が、あるいは魔性の美男子が耳元にそっと唇をよせて内緒話するかのようにささやいていたのだろう。
「息もままならないほどの熱風がこの身を苛みました。しかも暗くてせまい密室。ごうごうとした轟音が部屋中に反響していて……あんなの、生まれてはじめてだった……」
吐息まじりの告解はひどく艶っぽいものだった。
ドアマットはそこでひと息つくと、冷静さを取り戻したかのように落ち着いた口調で話す。まるで遠いあの日を思い出し、浸るかのように。
「息も絶えだえというのはあの事を言うのですね。あまりのことにわたしは気を失い、気づいた時にはあの家に戻されていました」
「……早期納品は業者の義務だから」
俺はなんと言っていいか迷い、出てきたのがこれだった。
「わたしは今までドアマットとして生きてきました。思えば無味無感動で、生きているか死んでいるのかわからない日々のくり返し。でも、あなたと出会ってわたしは変わった。命を得たのです。出口のない無限の世界へ光を灯してくれたあなたは、まさに命の恩人なのです」
ドアマットに瞳があったのなら、きっとそれは羨望に満ちていたことだろう。しかしこいつはドアマットだ。しゃべって動いてはいるもののごく一般的なドアマットだ。
「家に帰ってただのドアマットへ戻れ。ドアマットの領分をこえるな。おまえはドアマットだ」
「ああ……さすがわたしの見込んだお方。塩対応ありがとうございます、ありがとうございます」
「人の話を聞け日用品」
なんの感情からなのかぶるりと全身を震わせるドアマットに俺の精神は限界だった。もうむりむり。やだこいつ。
「俺は仕事があるんだ。もう用がすんだら出て行ってくれ」
「あの、せっかくですから、そのおみ足で思いっきり踏んでいただくことは可能でしょ——」
「はよ出てけーーー!!」
俺は荒ぶる気持ちを抑えられずドアマットの腹部分に思いきり蹴りを入れ、はるか後方へ吹っ飛ばした。「あーーーーーっ!」と嬉しそうな声が聞こえたが気にしたら負けだと思った。悪霊退散っと。
◇
その道に詳しい人へ相談したら、どうやらあのドアマットにはなにかが宿っているとのことだった。むげにしてはいけないと怖い顔で注意をされた。長く愛用していたものには精霊や神がのり移ることがあるそうなのだ。大事にしていれば益をもたらす存在になるようなので、要望にはきちんと答えよと言われてしまった。
仕方がないので、気が向いた時には相手をしている。
子どもたちに踏まれたあと水洗いからの乾燥機コースが大のお気に入りのようだ。せめてご利益があることを祈るばかりである。
昨今の注目コンテンツ『ドアマット主人公』へ思いを馳せた結果がコレでした