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逃げ出したくて

「──お母さん病気したやん? ひとりや心配やけん、うちらが一緒に住むわ。あんたは勉強大変やろうから、そっち頑張りな」

「うん……わかった、姉ちゃん」


 母が、腰を悪くしました。手術をしてどうにかなりましたが、歳も歳ですし、以前のように動き回ることができません。

 心配をした姉3人が家を借り、家賃や生活費を出し合って、母と住むことになりました。


 そしてあのピアノが置いてあるのは、()()()()

 私が18年を過ごしたあの家は、もう、私の家ではないのです。


 ごめんね。引っ越し、手伝えなくて。

 でも、きつかったの。本当にもう……辛くて、苦しくて。


 実習が終わったら、夏休みは模試漬けの日々。 

 試験まで全然日がない。受かるかもわからないのに、就職活動もしなきゃいけない。


 勉強なんかしないで、物語を書いたり、絵を描いたりしていたい。

 ああもう、どうしたらいいんだろう。逃げ出したいよ。

 こんなに苦しいのに、国家試験なんて受かって、本当に幸せになれるの?

 もうやだ、辛い辛い辛い……




「このPCR、至急で出来ますか」

「機械トラブル? こんなときに……!」

「輸血お願いします。A型製剤の在庫は? ──交差適合試験(クロスマッチ)してる暇はありません! 動脈瘤破裂なんです、O型の在庫も全部ください!」


 勝負をかける自信もなくて、地元を離れ、比較的倍率の低い、県外の病院に就職をしました。

 家族とは、年末年始に5日程度会えるかどうか。そのうち2日も、飛行機や特急の乗り継ぎで、潰れてしまいます。

 追い立てられるような毎日にも、疲れ果ててしまいました。


「おたく今、幸せか?」

「わかりません」

「やろうな。『ここ』には、そういう人らが来んねん」


 そう言って、私に手錠をかけた警官さんは、ふぅ……と煙草の煙を吐きました。


「『ここ』は、おたくの未練がかたちになる」

「……そうですか」

「悪いこと言わんから、早いとこ出て行き。戻れんようになるぞ」

「……そうですね」


 ふわぁ、とふりかかる副流煙を顔面に受けて、にっこり。


「やけど、思い出に浸るくらい、ええやろ……?」


 遠く昔に過ぎ去ったもの。私が失くしてしまったもの。

 それがいつわりの幻想だとしても、ひとときの、心の支えになってくれるのだから。


 私は、私自身を価値のある人間だとは思えない。

 だからこそ、『罪』を重ねるのです。

 私が、壊れてしまわないように。


「ほんまに、そうか?」

「……え?」

「幸せがわからない。ほんまにそうなんか? 案外すぐそこにあって、見落としとるだけやないか?」

「何言ってるのか、わかりません」

「そんじゃ、教えちゃるわ。おたくが小学校の卒業文集で、『今一番欲しいもの』に、なんて書いてたか。それでは発表します。ずばり、『心の余裕』です。どんな小学生やねん」

「なんでそんなこと知ってんですか」

「そら知っとるわいな」


 警官さんは、笑いました。顔も歳も不明。男性ということだけしかわからない、彼が。


「なんせわしは、おたくやからな」


 いや私、喫煙しませんけど。

 煙にぼやけた彼を前に本音を飲み込んで、それでも、どこか清々しいような気持ちになりました。


「これだけは覚えとき。この仕事は、あんまり世に知られたもんでもなけりゃ、直接患者さんに感謝されるようなもんでもない。けんどな、わしらがおらんかったら、医師も看護師も、どうにもこうにもならんごつなる、そんな仕事なんや」


 ──救急外来に患者が搬送。パニック値多数。

 だが測定機器も、常に正常動作をしているわけではない。

 その血液データが誤りではないと、証明できるのは?


 ──健診検体の血液データにて、明らかに異常な白血球増多を認めた。

 顕微鏡にて目視確認を行ったところ、白血病を示唆する異型細胞が散見される。

 いち早く報告をして、早期治療へと繋げることができるのは?


 たしかに辛かったし、苦しかったけど、私が死に物狂いで学んだことは、無駄なんかじゃない。

 今日も、顔も知らない誰かが、私の力を必要としているなら。



「はい、検査室です」

 

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