モデル
「父さんの時、すごく大変だったんだから母さんは今のうちから終活しろ」
と、先月久しぶりに実家に顔を出した息子の、開口一番がそれだった。
まだ早いんじゃないかしらと、加奈江は息子に返した。
去年、加奈江の夫が亡くなり、遺品整理には息子が仕事を休んで、大きなものをゴミの焼却所まで運んでくれたり、本や程のいい服などはリサイクルショップへ出しに行ってくれたりもした。加奈江だけでは片付けきれなかったため、息子の協力はとても助かったのを覚えている。
「母さんの時は、俺が全部やらないといけないんだから。少しは片付けておいてもらえると、俺だって助かるんだ」
そう言われて、仕方なしに加奈江は自分の身の回りの整理をし始めた。
嫁入り道具の箪笥には、当時珍しかった洋風の物で、クローゼットと下に引き出しが付いていた。観音開きの扉を開けると、少し埃くさい匂いが鼻についた。
普段着る服は大抵2、3着のローテーションだったため、隅の方に片寄られた服達に視線を移した。
「懐かしい…」
一番隅にあったワンピースを箪笥から取り出すと、加奈江はそれをゆっくりと眺めた。開襟シャツタイプの半袖のワンピースは、グリーンと白のストライプに、ダイヤの柄が並んでいた。
夫は、地味目の服を好んでいた為、こんな派手な服を持っていた事すら生前知る由はなかっただろう。けれど、夫の好みとは裏腹に、加奈江は当時の流行的なファッションが大好きだった。真知子巻が流行った時には学生時代の友達とスカーフを買いに、街の百貨店へ出かけたものだった。
加奈江が大事にしまっていたワンピース。それは、加奈江の1番のお気に入りでもあり、思い入れのあった服だった。
当時、親の勧めで勤めた小さな事務所で事務員をしていた。夫と結婚する3年前の事。
母親から、派手な服ねと嫌味を言われながらも、加奈江はそのワンピースを着て友達と食事に出かけた。
横浜で落ち合い、喫茶店に入ると実家ではなかなか出てこない、マカロニグラタンを二人で選び、デザートにプリンアラモードを目で楽しみながら食べた。喫茶店では、終始友人の婚約話で盛り上がった。見合いで出会った相手と、来年の春に結婚をするのだ。彼女の左手の薬指には、大きな一粒ダイヤの付いたエンゲージリングがキラキラと輝いていた。
「結婚してしまったら、こうして一緒に出かけることも、なくなってしまうわね」
「ご縁はあるのだから、加奈江さん、落ち着いたらまたお互い時間を作りましょうよ」
育ちがよく、お淑やかな友人は、結婚したら名古屋の良家へ嫁いでしまうのだ。友人の言葉に、加奈江はそうねとにこやかに笑みを浮かべて返したが、果たされないであろう約束かもと、脳裏に過ぎっていた。
食後、港の方を二人で散歩した。7月の日差しは強かったが、潮風が多少なりの清涼感を感じられた。
「あのう…。すみません。良ければ、雑誌のモデルになっていただけませんか?」
二人で歩いていると、横から男性に声をかけられ、加奈江と友人は足を止めた。30代くらいだろうか。加奈江達よりも少し年上に見えたのは、落ち着きある雰囲気だったからだろうか。手巻き式の一眼レフのカメラを首から下げていた男性は、雑誌のモデルを捜していると言い、一枚の名刺を加奈江に差し出した。よく見ると、20代向けのファッション雑誌を取り扱う出版社の名前が記載されていた。
友人は、結婚を控えている身でもあり、相手の家柄の事も考え、男の申し出を断った。
「お願いします。この輝く日差しと港から見える水面、貴方のようなはつらつとした方を、ぜひ撮らせていただきたい」
あまりにも熱心な要望に、加奈江は照れ臭い気持ちを隠しきれずも、それを承諾した。
「でも、私、モデルなんてやった事ないから、どうしたらいいのか…」
風に靡く前髪を手で直しながら、かしこまってしまった加奈江に男性は、
「そうですね。そこの柵に少し腰をかけて、遠くに見えるあの船を見てほしい。顔は少し僕の方を向けて」
テキパキと指示を出し、加奈江は言われるがまま、やってみる事に一生懸命だった。
「緊張してますよね。表情が硬いです。そうだなぁ…最近あった楽しかった事を思い浮かべて下さい」
男はファインダー越しに写った加奈江を見て、声をかけた。
”そう言われても…楽しかった事ねぇ。あ、さっきのプリンアラモードは、果物がたくさん乗っていて美味しかったわ"
そんな事を思い浮かべたが、男は一向にシャッターを切らない。ファインダーから目を離し、その場で加奈江と顔を見合わせた。
「貴方のその服、とても似合ってます」
「あ、ありがとうございます」
お気に入りの服を褒められ、加奈江は気持ちがくすぐられる様で、顔を綻ばせた。
「いいですね。その顔」
男はすかさずシャッターを切り、何枚か写真を撮っていた。
「うん。いい写真が撮れました。雑誌に載るかは編集に任せるのですが。ご協力ありがとうございました」
爽やかな笑みを添えて、男は加奈江達の前から立ち去った。
それから数ヶ月後。ファッション誌の小さな枠に、加奈江が載ったのだ。それから間もなく、雑誌社の人から家に連絡が入り、本格的にモデルをやらないかと、両親を交えて相談にまでやってきた。
老舗の菓子折りを持参した編集者に対して、加奈江の父は頑なに、その申し出を断ったのだ。昔気質の人間だったから、モデルなんて破廉恥だと言って、編集者を追い返し、加奈江の事も、世間知らずの恥晒しとまで罵ったのだ。
加奈江は、雑誌のモデルで活躍できる人生を、夢描いたが、父によってその夢は絶たれてしまったのだった。
あの雑誌は、いつの間にか父親が処分してしまったのだが、当時着ていた服を、なぜか加奈江は大事にしまっておいたのだ。
「私が、読者モデルになって、モデルとして声かけられたなんて、夫にも息子にも話した事なかったわ…。あんな輝かしい出来事は、それっきりなかったけれど。こうして、夫を看取って、息子も結婚してくれたし。2、3日前に二人目の孫も生まれたわ。それはそれで、私なりの幸せなのかもしれないわ」
ハンガーにかけられたワンピースを手に取ると、眩しそうに笑みながらそれを見つめ、そうして片付けに出してしまう、他の衣類達の山に乗せたのだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
息子に言われて渋々終活を始めた主人公の、’60年代位の当時の若かりし出来事を描いてみました。
一瞬だけ輝きかけた、あの時、別の道を選んでいたら…と、記憶の彼方で立ち止まる。たらればにはなってしまいますが、それでも加奈江は今の自分が幸せと実感されました。
次回、『ピーマン』も、よろしければご覧ください。