・人体の名称。
「やった……ついに、ついに完成したぞぉー!!!!」
何だなんだと思っていると、遠くの方から友人の洞木祈が嬉しそうな顔してやってきた。
「ついに完成した!」
「なにが」
「パングラムだ!」
「何だそれ。パンの単位か?」
「ちげーよ」
祈は俺の隣の椅子を引っ張って、そこに座った。
今は昼休み。俺は、昼飯を食いに食堂に来ていた。
「てかお前はこんなところにくるな。校門にいろ」
「は? なんで」
どうやら祈は、自分が陰でなんて呼ばれているか知らないらしい。
知らないなら知らないままにしておこう。
俺は黙ってエビフライを頬張った。すると聞いてもないのに祈が勝手に話し出した。
「それよりパングラムだ。あのなパングラムってのはだな――」
「ああ、説明しなくても知ってるから。さっきのは冗談だから」
医学部生の知識量を舐めるな。
「なら話は早い。俺はそのパングラムを人体を構成する体の名称で錬成しようとしたわけだ」
なぜそんなことをし始めたのか、俺は疑問に思った。
だがそこを聞いたりはしない。なぜなら祈はいわゆる変人だからだ。
「じゃあ、教えてくれよ」
俺は正直興味なかったが、聞かないと話は終わらないと思い、聞いた。
が、祈は「慌てるな」と手で制してくる。
慌ててなどいない。
「まあじっくり聞いてってくれ。まずパングラムは、使いづらい文字を攻略していくことから始まる」
そして唐突に、祈による「パングラム作成講座」が始まった。
俺はこの奇行を知っていた。
この間は何の前触れもなく「群馬県攻略講座」が始まったから今更驚くこともなかった。
「今回は“ぬ”だ。“ぬ”や“ね”の攻略はパングラマーにとって定石だ」
パングラマーというのは、おそらく祈による造語だろう。
俺は泳ぐ人や計る人の類だろうと類推した。
「そこで医学部生にクイズだ。名前に“ぬ”を含む人体の箇所はどこだ?」
俺は素直に記憶をあさった。
「砧骨」
「さすが医学生。空き巣上手いんじゃね?」
それは引き出しから欲しい物を瞬時に引き出す能力が高いという、祈なりの高度なギャグなのだろうが、俺はスルーした。
「いいところに目をつけたが、まだだ。これでは“ぬ”しか攻略できない」
俺は黙って、白飯を口に運ぶ。
「人体の名称に限定したことによって、本来動詞や助詞として活躍するはずの他の文字が扱いづらくなった。作成中に気づいたが、もう一つの難所が現れた。それは“れ”だ」
「アキレス腱」
「さすが医学部生。さっと例が出てくる。だがアキレス腱には“き”が使われている。これでは砧骨が使えなくなる」
――完全パングラムを目指すなら文字の重複は許されない。
「確かにな……」
俺は再び記憶を漁ったが、咄嗟には思いつかなかった。祈に関しては、相当探したらしい。
「で、俺は見つけた。ヘンレループだ」
「ああ、それなら」
「な。これならいけるだろ。それにこれのいいところは同時に厄介な、“る”や“へ”が消費できることだ。だがここで思いもよらない刺客が現れる。今度は、“も”だ」
「“も”ならいっぱいあるだろ。例えば……あ」
「気づいたようだが、あえて説明しよう。そう、ヘンレループで実は“う”を使ってしまっている。ゆえに、“もう”として使うことはできない」
網膜、旋毛、絨毛、陰毛、毛細血管などなど……。今思いついたものの中には同時に“う”も使われていた。
「腿は論外だとして、くも膜は、“く”が被ってるしな。くも膜下腔もだめか……」
あちらで使えばこちらで使えず。なるほど。結構難しい。
「俺は諦めかけた」
「いや、そもそも初めから諦めろよ」
「だが俺はヘンレループから一つの可能性を見出した」
「聞いちゃいねえ」
「そうだ、日本語以外からも探せばいいんだって!」
それを探し始めたら途方もないことになるぞ、とは思った。
が、口には出さず、千切りキャベツを咀嚼する。
「そこでまず初めから考え直すことにして、英語で“ぬ”攻略の糸口を探ってみた。そして見つけた」
祈がいつになく真剣な表情をしたので、俺は少し息をのんだ。
「アヌスだよ」
「ぶふっ!」
真剣な顔して言うものだから、つい吐き出してしまった。
「そして“れ”に関しては、肝臓を思いついた。しかしすでにアヌスで“あ”を使ってしまっている。ヘンレループでもいいんだが、やはり“う”は別のところで使いたい。調べていてわかったが、“う”を含む名称が凄まじく多い」
それに関しては、俺も頭の中で色々な名称を思い浮かべて、少し感じてはいた。
〇〇毛、〇〇腸、〇〇脳、〇〇臓などなど。その他、右、中、小、上などがつく部位を考えると、さらに多い。
多いということは厄介だ。なぜなら“う”を一度でも使ってしまうと、他すべての名称が使えなくなるということだ。
「そこで俺は改めて、“れ”のつく単語を探した。そしてようやく、涎にいきついた。まさに天恵だと思った」
大袈裟すぎる。天の恵みがよだれとは、神は昼寝でもしているに違いない。
俺は味噌汁を啜った。
「実は、刺客は思いのほか多かった。特に苦労したのが、“みやらりろ”あたりだな。なくはないが、少なすぎて使いたい文字がすでに使われていることが多い」
俺は聴きながら、漬物をかじる。
「他にも色々と苦労したさ。“る”は涙として、涙腺や涙囊にしようかとか。でもそうすると、こっちで使いたかった文字が……ああ、どうしよう……。そうやって試行錯誤し、やっと、ついに、ようやく完成したんだ!」
「へぇ……」
「六時間くらいかかった」
「馬鹿かよ」
集大成だ、と祈は俺にパングラムが書かれた紙切れを見せてくれた。
その場でざっと確認した限り、確かに被りもなく、うまく出来ている。
「しかしまあ……、うん……すげえよ」
「だろ!!」
「こんだけ色んな名称があるのに、同じ部位の名称が形を変えて二度登場していることがすげえ」
さすが陰で「ボラギノール」と呼ばれているだけのことはある。
祈が選んだ言葉は、実に19種類だった。
【パングラム−1】
anus。nipple。涎。肛門。味蕾。臍。尻。黒子。膝。眉毛。胸。脇。喉。八重歯。お腹。血。手。背。目。
【解説とあとがき】
あぬす。につふる。よたれ。こうもん。みらい。へそ。しり。ほくろ。ひさ。まゆけ。むね。わき。のと。やえは。おなか。ち。て。せ。め。
※今回、助詞としてしか現代ではほぼ使われない「を」を例外的に除外することにしました。そのため表記が「−1」となっております。
注釈:1、耳の奥にある骨。
2、腎臓の近位尿細管の終端部分から遠位尿細管の始まりの部分。
3、尻の穴のこと。ちなみに「アナル」は形容詞であって名詞ではない。