「癒し」が求められている
何度もなろうのこの先を心配して提案をしている。私はテンプレ飽きたとかそんな声は全く重視してない。それよりもサブカル創作の歴史で特定のジャンルが絶滅する原因を何か?考えている。この原因は世代交代にあると突き止めた。テンプレ飽きたなんて声は一切無視して良い。あれは一過性のものであんまり重要じゃない。なろうはそういった一過性のものでつぶれる時期をとっくに過ぎている。
今なろうが心配すべきなのは事実になる。過去から特定のジャンルはほとんどが絶滅する運命にある。その中で漫画アニメがいまだに生き残ってるのは何故か?別のジャンルが生まれてるだけだ。特定のジャンルが生き残ってる例はジャンプのバトル物ぐらいしか思付かない。根本的にジャンプのバトル物は全く違うジャンルが生まれたわけじゃないと思う。
特定のキャラの個別の能力によるバトルに単純な筋肉謎の力同士のぶつかり合いバトルから変化しただけだ。そもそもこういった流れの初期のキン肉マンは特定能力のバトルがあった。それをすべて薙ぎ払ったのがバッファローマンだと思っていい。水に特化したキャラやウォークマンなど特化能力の謎キャラが多かったのに、1000万パワーって力ですべて薙ぎ払った。
ある意味パワーインフレの単純さに辟易した作者読者ともに原点回帰してきたと言っても良い。そういう意味では元から持っていた部分の回帰ルネサンスだったのかもしれない。メインキャラクターが特徴的な能力を持つバトル漫画がそれでも今の主流だとは思う。こういった流れはそうそう生まれない。
しかもこれらの発展の後押しになったJOJOという作品はスタンドというものも発明して、その後ちょくちょく他の作品に流用されている。アニメオリジナルの谷口監督のスクライドがこの典型で、これがギアスに発展したのは言うまでもないと思う。当然今ブームになってる鬼滅の刃も呼吸ってものをベースにこの流れだといって良い。
ただしこれは例外なんだ。基本特定のジャンルは消えるんだ。その原因は次の世代が面白と思わないからだ。それで避けて今までのファンだけが残るからになる。テンプレ飽きたが重要じゃないってのはここだ。テンプレ飽きたは十分な量読んでそうなるからだ。次の世代もそうだろうか?違う。そもそもほとんど読まずに避けるんだ。
何故なのか?わからない。ただ古臭いってイメージを作るのだけは間違いない。固定的なイメージを作られるのは問題もある。それが安心の定番になるのだが、新しい世代にはこれがまずい。ではどうすればいいのか?私は特定のジャンルを救うのは無理だと思ってる。ジャンプのように結果論的奇跡を信じるしかない。
それはいくらなんでも工夫が足りないじゃないか?そこで考えたのは、ジャンルが衰退しても、なろうが生き残ればいいのじゃないか?と見ている。なろう系ってイメージの破壊にある。その提言が少数精鋭ランキングであり、ライトノベルSになる。しかもだ、何故漫画アニメが今もあるのか?の答えもある。
他の新しいジャンルが補うからだ。ただ少数精鋭ランキングは問題を含む。成熟したマニア向けと大衆向けは最初から接点がない。これらは未熟な時に互いが交差しあうだけだ。漫画アニメの初期には硬質な物語から参考にした作品が大量にある。例えばガンダムなどはカラマーゾフの兄弟の兄弟関係とザビ家にあてはめている。
ただこれは初期のものにすぎない。十分に成熟した娯楽は芸術から得られるものは少ない。娯楽が特化してサービス精神が旺盛になるからになる。良いサービスについて考えるときに自分の先回りをしてくれるサービスが多いんじゃないだろうか?いらっとする店員はこっちの意図が全く伝わらないとかじゃないか?と思う。
これは裏を返せば、客が心を読まれて想定して相手に動かれてるって事になる。創作も娯楽はこれが突き詰められていく。観客は楽しむのじゃない、楽しまされてるんだと大衆受けする良い娯楽についてわかればわかるほどわかる。客を赤ん坊状態にしてあやすのが良い大衆娯楽なんだ。これは高いレベルにある芸術作品とは全く方向性が異なる。
少数精鋭ランキングはなんのために提案してるか?というと、大衆娯楽に価値を見出す私も、単純に価値あるものとして、大衆だけに認められるものが価値があるわけじゃないって事で、多数決で消えていく価値にそれはいけないと思ってしまう価値について熟知するものの義務感のような気持があるからになる。
次にカスタマイズすれば大衆向けにできない人がいないわけじゃない。大衆娯楽でまれに変なのがヒットするのだが、賢くなった気分になれる、深いと感じさせてくれる気分になれる。こういうのがヒットする。大事なのは実際知的なのか?はどうでも良い。客の自意識を高めてやれば満足するんだ。そういうものはやっぱりベースに高尚なにおいがしなくてはいけない。
たまにそういう事が出来る人がいるんだ。マニアからすれば俗っぽいだけじゃないかとなるが、それが大事なんだ。本当にまれでしかないが、100%関係ないことはない。後は評価すること自体の楽しさを知ってほしいってのがある。大衆娯楽の価値ばかり考えてる私だが、その視点はそこだけから養ったわけじゃない。芸術的と言われるものに触れたからこそ違いについて考えるようになったからがある。
何故高く評価されるのか?を考えるのはとても知的で面白い。それを大衆娯楽に当てはめただけだ。
さて少数精鋭ランキングでは大衆娯楽の新規層は取り込めそうにない。じゃどうするか?そこで考えたのがライトノベルSになる。これを面白いと思ってくれる人は皆無。それは当然じゃないか?と思う。私がそれを実現する技量がないからだ。方向性が間違ってるとはみじんも思ってない。
その方向性をもっとうまく伝える方法が見つかった。多分それは”癒し”だと思う。私は癒しと聞いて優しい世界ってのがすぐに連想した。だがこれは狭義なんじゃないか?と思えてきた。今まで癒しだと思ってなかったものが癒しだと思えてきた。
別の言葉で言い換えられるなら、美味しいとか可愛いとか楽しいとかって癒しにつながると思えてきた。何故楽しいとかかわいいとか美味しいとか言葉があるのにそれが癒しになるの?それらの言葉は単純に楽しい刺激があるんだと思う。そしてそれが楽しい刺激であるのは間違ってない。
でも人によって、楽しいや美味しいや可愛いが癒しという感情を発生させる。人による。どういう人?多分その人は楽しいという感情を日常であまり感じてないんだと思う。だから楽しいという体験をしたとき楽しいと感じるよりも癒されてしまう。どういう人が想定できるか?これは高年齢だと思う。
実は私も癒しを感じていたが、楽しい、可愛い、美味しいは別の言葉で言い表せるから適当に言ってるだけじゃないか?と疑っていたんだ。大事なのはストレスではない。擦れた心、摩耗した心で楽しいと若い時と比べると楽しいと感じることが本当に減ってしまった。楽しい、美味しい、可愛いを自覚したとき。何か癒される気持ちになる。
そしてストレスフルの時はさらにこれが感じやすくなる。ストレスが先にあるんじゃなくて、加齢による快の刺激の減退がかなり大きいんだ。特に美味しいは、他の刺激が摩耗するほど、逆に際立って、何度味わっても快の刺激になる事はなんてすばらしいんだってなるんだ。摩耗は基本何度も刺激を受ける事ですり減るので加齢や経験と密接に関係する。
特に加齢は感情そのものが弱くなるのも加わるので本当に鈍感になる。前からこれ感じていたのに言葉にできていなかっただけなんだと気が付いた。
私は多分癒さない物語を避けてるんだ。何故私が悲劇と衝撃展開をもうやめろと書いてるかというと、すべてはありきたりから生じる陳腐さに辟易してるからだ。女性と男性が決定的に違うって書いたのは女性はむしろ悲劇を求めてる気がする。男性はどっちかといえば悲劇にある衝撃展開を求めてると思う。悲劇に対する登場人物への共感は薄いと思う。
だから特にありきたりによる心の摩耗が激しい。ファンタジーだけ例外なのは、私もそうだが、好みであるものに関しては多少のマイナスは甘めに評価する。かつなろうの異世界ファンタジーって鬱展開のようなものほとんど無いよね…。現代劇の定番である、一般小説の悲劇と衝撃展開による刺激の作品はダメなんじゃないか?と見てるんだ。
もちろんそれをなんとかするのがプロだけど、それは評価されてから見ればいいんじゃないの?となる。おおここで少数精鋭ランキングが絡んでくる。マニアは多分そういうの避けないんだよね。それを選ぶのが嫌なんだ。前も書いたけど、それが書けるレベルのプロはもう書籍で直接デビューしてるんじゃないの?って話になる。わざわざ確率が低い場所で選ぶ馬鹿いるの?ってなる。
現代劇は特にこの傾向が強いから、”癒し”ベースに全く一般的に本屋で売ってるものとは違うものを作ろうって話になる。楽しい、可愛い、美味しいとかになる。ただもう料理はこれに気が付いてあふれてるから。美味しいはやめた方がいいとは書いている。笑いもこれに入るけど、これもあふれてるのあまりお勧めしない。