其ノ七 ~牙ヲ剥ク殺意~
突如現れた琴音を前に、一月はただ呆然とするだけだった。
目を疑った。だが彼の瞳は眩んでなどいなく、間違いなく真実を映し出していた。
二年前に殺された瞬間、秋崎琴音という少女の存在は、生前の彼女を知る人々の記憶の中だけのものとなったはずだ。いかなる手段を用いようとも、死んだ人間は生き返らないのだから。
しかし、一月の前に現れたのは正真正銘に琴音だったのだ。見間違いでも、他人の空似でもなかった。
(なんで、そんな馬鹿な……だって琴音は二年前に……!)
思考が追いつかなくなっていた時だった。
足元に転がる死体に目もくれず、琴音が一月の方へと歩み寄ってきたのだ。溢れ出た内臓の一部が琴音に踏みつけられ、グジュリという気持ち悪い音を立てる。
「琴、音……?」
琴音は呼びかけに応じなかった。ただ無感情な瞳で一月を捉え、ゆっくりと歩み寄ってくるだけだ。
想い人であった少女が、目の前にいる――しかし一月には嬉しいという気持ちは湧かなかった。むしろ、彼女を不気味だと感じていた。
(違う……?)
違った。確かに姿形は間違いなく琴音だった、しかし一月が知る彼女とは違った。理由は分からないが、一月には目の前にいる少女が自分の想い人だとは思い難かったのだ。
琴音がまた歩み寄ってくる、一月は思わず後退した。
「琴……」
もう一度呼びかけようとしたその時だった。
琴音が飛びかかるような勢いで迫り、一月の首を掴んできたのだ。
「うっ!」
壁に背中が打ちつけられる。しかし、痛みに悶える余裕は与えられなかった。
首を掴む両手に力を込め、琴音は一月の首を締め上げてきた。
「ぐ、あ……!」
痛みや苦しみ以上に、困惑の方が大きかった。突如現れた琴音が、いきなり首を絞めてくる……状況の整理がまるで追いつかない。
とにかく振りほどかなければ、そう思った時、一月は初めて琴音と間近で視線を合わせた。
長く伸びた前髪の隙間から覗く琴音の眼差しは、猛烈な怒りと殺意に満ち満ちていた。見つめる者全てを恐怖に閉じ込め、戦慄させるような瞳――琴音のそんな目など、一月はこれまで見たことがない。
突如、琴音の身を黒い霧のような物が覆い包み始めた。風もない廃屋の中で、長く伸ばされた黒髪や制服がザワザワと揺らぎ始める。
(なんだよこれ、なんなんだ……!)
琴音の手首を掴み、懸命に首から引き離そうとする。しかし全力を込めても、琴音は一月の首をがっちりと捕らえて離さなかった。少女とは思えない力だった。
さらにその両手からは全く体温が感じられず、氷のような冷たさを帯びていた。明らかに人間の手の感触ではなかった。
生きている人間じゃない、まるでそう……悪霊のようだ。
とてつもなく現実離れしていて、馬鹿げたことだと分かっていた。だが、そう考えるしかなかった。でなければ、死んだはずの琴音が一月の目の前に現れたことも、彼女の今の様子も説明がつかないのだ。
「琴、音……やめろ……!」
無駄だと半ば承知しつつも、一月はかつての想い人に呼びかける。しかし琴音はそんな声など聴こえていないかのように、なんの反応も示さない。
このまま首を絞められていては、窒息する。
危機感に駆られた一月は、琴音の両手を掴み返したまま彼女の腹部に蹴りを入れた。琴音の小さな体が跳ね飛ばされ、首が解放される。
「ぐひゅっ、げほ、ごほっ……!」
塞がれていた気道が開通し、一月はその場に崩れ落ちて咳き込んだ。もう少し首を絞められ続けていれば、酸欠で気を失っていたに違いない。
命の危機は脱した、しかし一月は安堵する間もなく前方を向き直った。
床に倒れ伏した琴音はゆらりと立ち上がり、再び鋭い眼差しを向けてきた。蹴りをまともに受けたはずなのに痛がる様子もなく、声の一つすら上げない。
「琴音……」
正当防衛といえども琴音に暴力を振るってしまい、罪悪感が込み上がる。
一月が謝罪の言葉を紡ごうとした時、
《殺してやる》
背筋が凍るような声が、一月の頭の中に響いた。
否、それは声ではなかった。琴音が一月に向けて発した意思だった。
次の瞬間、琴音の身を覆い包んでいた黒霧が爆散し、突風のように一月に向かって吹きつけてきた。
「うっ!」
仏間内に散乱していた木屑やガラス片が、煽られて迫ってくる。一月は反射的に、両腕で顔を覆った。
次の瞬間、手首を掴まれたのを一月は感じ取った。
前方にいたと思っていた琴音が、いつの間にか一月の背後に回り込んでいたのだ。振り向いた時には、恐ろしい瞳が間近に迫っていた。
「っ!」
不意を突かれた一月には、抵抗する術などなかった。
掴み上げた一月の右手首を、琴音は思い切り壁へと叩きつけた。
「があっ!」
手首に留まらず腕全体を走り抜けた痛みに、一月は苦悶の声を上げた。
いつの間にか、琴音の片手にはガラスの破片が握られていた。この仏間の床から拾い上げたのだろう、大きくて先が鋭利に尖った、それ自体が十分に凶器となりうる物だった。
押しつぶすような圧力を込めて、琴音は一月の右手首を押さえつける。
「ぐっ、ううっ……!」
一月は凄絶に身動きするが、振りほどけない。
ナイフのようなガラス片が振り上げられる、その先には壁に押し当てられた一月の手の平がある。
彼女が何をしようとしているのか、一月には容易に想像がついた。恐ろしい予感に、まばたきも忘れてしまう。
「や、やめっ……」
制止する間もなく、琴音はガラス片を握った手を振り下ろした。
次の瞬間――肉が裂ける音とともに、これまで感じたことのない激痛が一月の右手を襲った。
「がああああああああああっ!!!!!」
喉が裂けるような悲鳴が、仏間中に響き渡る。
ガラス片で手の平を串刺しにされ、壁に打ちつけられた――しかし激痛に苛まれる一月には、それを理解する余裕すら与えられない。
始点となった手の平から痛みが波紋のように広がっていき、一月は全身を強張らせる。溢れ出た生温い鮮血が右手を赤く染め上げ、腕を伝ってボタボタと滴り落ちるのが分かった。
「ぐう、う……うっ!?」
苦悶の声が止まる、いや、止められる。
体温を宿さない両手が、再び一月の首を掴み上げたのだ。貫かれた右手の激痛と、首を締め上げられる苦しさが同時に襲いかかる。
「があ、あ……!」
抵抗したかったが、動けば打ちつけられた手の平が裂け、ますます痛みが増大する。
脳が酸素不足に陥ったのか、それとも出血多量が原因なのか、意識が混濁していく。朦朧とし始めた一月が目を見開くと、揺らぐ視界の中でかつての想い人が彼を睨みつけていた。怒りと憎しみに満ち満ちた瞳の奥に、吸い込まれるような闇が広がっているように感じられた。
再び、彼女の意志が頭に入り込んでくる。
《死ねっ!》
それはもはや言葉ではなく、一月に向けられた殺意そのものだった。
一層の力を込めて首が絞められ、次第に声も出せなくなる。
――もう、ひと思いに殺された方が楽だ。