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其ノ五 ~灰色ノ日記帳~


 引き戸を開けて廃屋に足を踏み入れた一月は、思わず表情をしかめた。

 琴音が生前祖母と二人で暮らしていたこの家は、かつて人が住んでいたとは思えないほどに荒れ果てていたのだ。

 壁は至る所が剥げて木目が剥き出しになり、天井の一部が腐って崩れ落ちている。床には湿った土や木の破片、他にも得体のしれないゴミなどが散乱し、気をつけて歩かないと何かに躓きそうだ。外観以上に内部の老朽化は激しく、不気味でおぞましい雰囲気に溢れている。


(ひどい臭いだ……!)


 どこからともなく漂う臭気に、一月は袖で鼻を覆った。

 カビや土の臭いに混ざったそれは、例えるならばまるで肉や卵が腐ったような……とてつもなく不快で、これまで嗅いだこともない、吐き気を催しそうになる臭いだった。恐らくは、床に散乱したゴミが発する臭いだろう。


 淀んだ空気をなるべく鼻に入れないよう努めつつ、一月は土足のまま歩を進め始めた。

 土間から上がり、床板を踏む。腐食が進んでいるらしく、ギシィ……と不快な音が鳴った。


(人の家って、二年間放っておかれただけでここまで……!)


 人の手が入らなくなった以上、屋内が荒廃していることは当然だった。だが、その度合いは一月の想像を遥かに超えていたのだ。

 こんな場所にいては身体に異常をきたしてしまう、すぐに引き返したくなったが、一月はここに訪れた目的を思い出し、踏みとどまることにした。

 琴音の死の真相を突き止め、彼女の無念を晴らす。

 逃げては駄目だ――そう自分に言い聞かせると、心なしか悪臭が和らいだような気がした。

 

 腐食した床板を踏みしめて、歩を進める。巻き上がった砂埃でむせ返りそうになる。

 奥に進むにつれ、窓からの明かりが届かなくなっていく。薄暗く感じた一月はポケットから携帯電話を取り出し、ライトを点灯させた。

 袖で鼻と口を覆ったまま廊下を進み、一月は手近にあったドアを開けた。

 

 その部屋も廊下と同様にひどい荒れようだった、しかし辺りを一瞥しただけで、一月はなにか引っ掛かるものを感じた。

 

(この部屋……?)


 六帖ほどの広さのその部屋にはカーペットが敷かれていて、本棚や学習机があった。

 割れた窓から入り込む風雨にさらされたのだろう、かつてはきちんと整理整頓されていたであろう教科書やノート、プリントファイル、シャープペンシルやボールペン……それらが床に散乱していた。

 

(まさか……!)


 一月が思い至ったことは、壁に掛けられた額縁を見て確信に変わった。

 額縁には一枚の賞状が収められていた、そこに書かれていたのは、



    表彰状


   秋崎琴音 殿


    第一位

 

 上記の者を鵲村修剣道場主催、第13回夏の剣道大会中学生部門において、優勝したことをここに証明します。



 その下には日付や主催者の氏名が記されていた。けれど、一月にとってはさほど重要な情報ではなかった。

 やはりそうだった、芽生えていた仮説が確信へと変わる。

 この部屋に踏み入った時点で、恐らくそうなのだろうと思っていたが、ここは琴音の部屋だ。

 あの表彰状は、中学二年の夏――琴音が殺される数か月前に行われた、剣道の大会の時の物だ。決勝で一月と琴音が戦い、長い打ち合いの末に琴音が勝利した、あの時の。

 

(ここは、やっぱり琴音の部屋……)


 土や木屑で汚れ切ってはいるが、部屋を見渡してみると琴音の生活の面影が残っていた。

 二年前に殺されるまで、琴音はあの机で勉学に励み、あのベッドで眠り……そして、足元に落ちているこの日記帳に、一日の出来事を綴っていた。


(琴音の日記……?)


 一月は思わず、そのノートを拾い上げた。灰色表紙の、どこにでも売ってそうなキャンパスノートだ。サインペンで『日記帳』と書かれ、下の方には『秋崎琴音』という名前も記されている。一月には分かった、これは間違いなく琴音の字だ。

 著者を失ってから、二年間ここに放置されていたに違いない。汚れや傷みが酷いが、内容を確認することは出来るようだ。


「っ……」


 日記の表紙をじっと見つめたまま、一月は逡巡する。

 確かにこの日記帳ほど、琴音の死の真相を掴む手掛かりになりそうな物はないだろう。この中にはもしかしたら、何か重要なことが記されているかもしれない。

 だが故人といえども、これは一月が想いを寄せていた少女の日記。それを勝手に見るというのは、人としての道理に反するのではないだろうか。それに、彼女のことを知りたいという薄汚い下心を抱いているのではないか……それを問われれば、一月はきっぱり『いいえ』と答える自信はなかった。

 しかし、見なければなにも進まない、琴音の死の真相も、彼女を殺した犯人も分からない。それもまた、事実だった。

 考えた果てに、一月は結論を出した。


「ごめん琴音……この日記、見せてもらうよ」


 亡き琴音に向けられた一月の謝罪の言葉が、沈黙に吸い込まれていく。彼女が生きていたら何と言われるのだろうか、今となってはそれを知る術はない。

 携帯電話のライトを照らしながら、ゆっくりと一月は日記帳のページを開いた。

 一ページ目……日付は二年前の九月十九日から始まっていた。琴音が殺された日は二年前の九月二十四日、九月十九日ということは、その五日前だ。

 年季が入って黄土色に変色した紙に、彼女が綴ったその日の出来事が記されていた。



 『二○××年、九月十九日。


 今日は、朝からいっちぃと会った。

 中学に進学してから一緒に遊ぶことは減っちゃったけど、家は近いし、剣道部の時にも、剣道場でも会えるからまあいっか。

 にしても、いっちぃは相変わらず目玉焼きにソースをかけて食べてるって言ってた。

 私は思わず笑っちゃった。目玉焼きには、断然絶対醤油だよね。

 今日の英語の授業で、単語の小テストがあった。

 15点満点のうち、私は14点でいっちぃは15点。いっちぃやっぱ凄いなあ……私も負けてられないな。

 もうじき中間試験がある。数学勉強しないと、赤点になっちゃいそう。

 それじゃあ、勉強するとしますか』



 思いがけず自分の名前が書かれていたことに、一月は驚いた。文中に数度出ていた『いっちぃ』とは、琴音が一月に与えた愛称なのだ。

 まさか、琴音が日記に自分のことを書いていたなんて。嬉しさが湧き出て、琴音が在りし時のことを思い出す。琴音が隣にいた日々に戻りたくなった、もう一度彼女に、『いっちぃ』と呼ばれたかった。

 しかし、一月はすぐに重い現実に直面する。

 琴音と過ごした日々はもう二度と、何をしようとも取り戻せないのだ。

 死んだ者は、生き返らないのだから。


「ぐっ……!」


 悲しげだった一月の表情が、険阻な色に染まる。

 心の中で、一月は琴音を殺した人間への怒りを再燃焼させた。

 琴音を惨たらしく殺し、彼女の生の時間を奪い去った外道な犯人。どんな道理があろうとも、赦すわけにはいかなかった。


(必ず……!)


 一月は日記を読み進める。

 その後も最初のページと同じように、琴音が過ごした一日の記録が続いていた。学校での出来事や、剣道についてのこと、学校での試験のこと……内容はありふれているように思えたが、彼女のかけがえのない生の時間が、そこには記録されていた。

 九月二十二日の日記を終えて、次は二十三日。つまり琴音が殺される日の、前日の日付だ。

 この日の日記は、今までとは様子が違っていた。



 『二○××年、九月二十三日。


 今日、いっち×と××カを×た。

 彼とこ×な風に×ン×したこ×は、今×で一度も無××たと思×。

 ××ちぃ、ひ×い事言×て』



 このページは特に汚れと傷みが酷く、断片的にしか読み取ることが出来ない。

 日記はまだ続いているようだが、この先の部分が破れて失われている。


(このページ……?)


 ここには何か、重要なことが隠されている……確証はなかったものの、一月にはそんな気がしてならなかった。

 読み取れる部分を再度読み返し、一月は考える。

 二年前の九月二十三日に、何があったというのだろうか? 一月は記憶を辿る。しかし、その問いの答えは出てこなかった。

 だが、琴音が命を失う前日に何かがあったことは間違いない。そしてその出来事に、恐らく一月自身も関わっているようだった。このページの破れた部分が見つかればその答えが分かるのだろうが、この荒れた部屋の中で紙切れ一枚を探すのは困難だった。


(このページで最後か……)


 この重要な出来事が記された翌日こそが、琴音が殺された日だ。日記を書く者がいなくなった以上、次のページには何も書かれていないに違いない。

 そう思った一月は、何気なくページをめくった。

 思った通り、次のページは白紙……


 では、なかった。


「っ!」


 思わず、一月は息を呑んだ。

 投げ捨てるように日記帳を突き放し、思わず一歩後ずさる。片手に持っていた携帯電話が床に落ちた。


「これは……!?」


 一月の手から離れた後も、日記帳はまるでそれ自体が意思を持っているかのように、そのページを開き続けていた。

 白紙だと思い疑わなかったページには、文字が書かれていたのだ。


 ページ一面に、琴音の字で、



 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる 

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる



 六ミリ×三十五行のページを埋め尽くすように、びっしりと『殺してやる』と書かれていたのだ。

 書き手が亡くなった以上、白紙であると疑わなかったページに文字が書かれていたことに驚いたのは確かだ。常識的に考えて、死んだ人間が日記を書けるはずがない。だとすれば、これは亡くなる前に琴音が書いた物なのだろうか。

 いや、一月にとっては書かれている内容の方が問題だった。

 文字自体は綺麗で、丁寧だった。だがそこには凄まじい殺意と憎しみ、怒り、悪意、そして狂気が滲んでいるように感じられた。このページを眺めていると、気分が悪くなりそうなほどだった。

 琴音は心優しく、誰かにこんな負の感情を向けたりする少女ではなかった。

 だが、見間違いではなかった。これは間違いなく琴音の字、彼女が書いた物だ。

 

(琴音が、こんなに誰かを恨むなんて……)


 想い人である少女が、ノートにひたすら『殺してやる』と書き込む姿を想像しただけで、一月は背筋が凍るような感覚を覚えた。

 一体誰を……?

 そう思った時だった、どこかからか、ゴトン、という物音が聞こえた。

 突然の物音に驚き振り返ると、この部屋に入る際に開けた扉が視界に入った。


(今の音は……?)


 日記帳を床に放置したまま、一月は立ち上がって廊下へ出る。

 その時携帯電話のライトでふと床を照らし、ある物に気づいた。

 

(足跡……?)


 入る時は気づかなかったが、土や木屑の散乱した床に、人間の靴の跡が残っていたのだ。

 一月自身の足跡を除いて二人分、しゃがんで間近で見てみると、まだ新しい物だと分かった。足跡の行き先を目で追っていくと、廊下と襖で仕切られた部屋に向かっていた。

 あの部屋に向かう際の足跡はあるが、出た時の足跡が見当たらない。あの部屋に誰かがいることになるが、こんな廃屋に一体誰が……? 

 思案していた時、再びゴトンという物音が響いた。


「!」


 一月は驚きに身を震わせた。

 物音は、あの襖の向こうから発せられているようだった。






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