其ノ参 ~迫リ来ル影~
「お帰り、一月」
学校から帰宅した一月を迎えたのは、母の声だった。
キッチンにいる母はどうやら夕食の支度をしているようで、ジャガイモやニンジンやタマネギを刻み、鍋で煮ているのが見えた。香辛料の香りが居間にまで漂っている、献立はカレーだろう。
「ただいま……」
覇気に欠けた返事をしつつ、一月は通学用鞄を肩から下ろし、居間に置く。
その時ふと、ダイニングテーブルの上に置かれたある物が目に入った。
クマのマスコットだ。体の部分は茶色いフエルトで、目の部分は黒いビーズで作られており、口の部分がギリシャ文字の『ω』のような形をしている。携帯電話にぶら下げるくらいのミニサイズのマスコットで、なんとも可愛らしいデザインだ。
手に取って間近で見て、一月は確信した。このクマのマスコットは小学生の頃に琴音から貰った、彼女の手作りの物だ。大切にしていたが、何年も前に失くしてしまったはずだった。
どうしてこれがここに、一月が問う前に先んじて母が言った。
「それ、掃除していたらどこかからか出てきたの。そのマスコット、一月が小学校の頃に琴音ちゃんから貰った物よね?」
鍋を弱火にかけたまま、母は調理の手を一旦止めて一月に向き直った。
一月は何も言わず、自身の手の中のマスコットを見つめる。琴音の命日の今日に彼女に贈られた物が出てくるとは、言いようのない皮肉さを感じた。
「一月、今まで言わなかったけど……前々から何度か担任の先生から電話があったの。あなたがクラスに馴染もうとしないで、誰とも話さないで、ずっと独りでいるって……」
「え?」
予期もしない母の言葉に、一月は振り向いた。
「一月の気持ちは分かる、琴音ちゃんのことは本当に残念だったと思うわ。でもそうして後ろ向きに生きていたら、あなたは……!」
「母さんに僕の気持ちは分からないよ」
一月は母の言葉を遮った。
こんな冷淡で威圧感を内包した声を発することができたのかと、自分自身でも驚きを覚える。
自分はこんなに嫌な人間だったのか、と一月は思った。だが最初からそうではなかったはずだ、少なくとも小学校の頃などは、自分の母に向かってこんな声を発したりしたことは一度もなかった。
琴音の死というあまりにも残酷な現実が、一月を変えてしまったのだ。
クマのマスコットをポケットに入れて、一月は今から出ていく。その最中で独り言のように言い残した。
「出かけてくる」
「あ、一月……!」
母の声は確かに聞こえたが、一月は返事をしなかった。
着替えもしないで、制服のまま家を出て、一月は目的の場所へと向かう。
その背中を空に浮かんだ少女が――白い和服を着ていて、黒い髪を長く伸ばした幼い女の子が見つめていた。もちろん、一月はそんな少女がいたということにすら気づきはしなかった。
◎ ◎ ◎
「ぎゃあああああああっ!」
耳を裂くような悲鳴に、文美は汚い床に座り込んだまま耳を塞いだ。
目の前で千早が殺されていく、その様子をただ見ていることしかできない。友人を助けに入ることも、立ち上がることすらもできない。かなしばりにでもあったかのように、全身が完全に硬直してしまっていた。
「い、痛いっ、やめていやだいぎああああああああああ――ッ!」
再び上げられた悲鳴とともに肉を切り裂くような音、文美が座り込んでいる場所からは千早の顔は見えない。見えないが、友人の顔面から赤い血が噴き出しているのは見えた。
千早がうつ伏せに倒れ伏し、ドサリという重い音とグシャリという鈍い音が織り交ざった音が響いた。もう彼女は悲鳴を発することも、身動きすることもなかった。その顔面から流れ出た血液が、赤い水溜まりとなってゆっくりと広がっていく。
今、千早が殺されたのだ。
「ひいっ、いいいいい……っ……!」
目の前で起きた残酷極まる出来事に、文美はまばたきもできずに全身をガタガタと震わせていた。
千早を殺した『そいつ』が、今度は文美の方を向く。凄まじい恐怖に、生暖かい尿が漏れ出して太ももを伝うのが分かった。
千早が殺されて終わりではなかった、今度は自分の番なのだ。このままでは、自分も千早と同じ目に遭うと文美には分かっていた。逃げたかったが、体は依然として硬直したまま、身動きの一つも許されなかった。
《殺す……殺してやる……》
耳に届いた声ではなかった、しかし文美は確かに自分に向けられた猛烈な殺意を感じ取った。
ゆっくりと、だが確実に『そいつ』は文美へと近づいてくる。逃れる術も抵抗する手段もなかった、もう受け入れる以外にない。
闇に浮かぶ白い手が、文美に向かって伸ばされていく。死が迫る中、文美はただ後悔していた。ここは決して興味本位で来る場所ではなかった、決して開けてはいけない、あの世へ続く門だったのだ。そして千早を巻き込み、苦しみの果てに死なせてしまったことを深く悔いた。自分がここに来ようなどと言い出さなければ、千早は死なずに済んだのだから。
しかし、状況はもはや後悔先に立たず――もうどうにもならなかった。
九月二十四日、午後五時頃。
二人の少女の命は、十五年という短すぎる時間で消え去ることとなった。