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其ノ終 ~さようなら~


「ん、く……」


 どこからか差してくる光が眩しいと感じつつ、一月は目覚めた。

 意識がまだ少しばかりおぼろげではあったものの、周囲を見渡して自分が今どこにいるのかを認識する。

 畳張りの床に、見慣れた机、見慣れた椅子、壁に立て掛けられた竹刀……ここは一月の自室だった。部屋のちょうど真ん中あたりで、一月は仰向けになって眠っていたのだ。

 窓の向こうで、太陽が緩やかな日差しを放っているのが見えた。

 太陽? そう、ここ数日程降り続けていた雨は止み、空を覆いつくしていた汚水を吸った脱脂綿のような雨雲も消え去っていたのだ。そのお陰で、太陽が再び姿を現していた。


(雨、止んだのか)


 長らく雨天が続いていたからだろう、晴れという天気が新鮮で、懐かしくすら思えた。

 雨雲に遮られて日光が届かず、陰鬱で物悲しく、不気味さすら帯びていた鵲村の景色が一転し、のどかで明るく、風光明媚な雰囲気を取り戻していた。雨上がりが感動的だと感じられたのは、生まれて初めてのことだった。

 その時、一月の背中を可憐な少女の声が呼ぶ。


「気がついた? いつき」


 驚かせないよう気を遣ったようなその呼びかけに、一月は振り向く。

 たった今現れたのか、それともずっとそこにいたのか、千芹が机に座って一月を見つめていた。彼女の黒髪が、日光を受けて煌めくのが分かる。

 まだ残る眠気を払おうと、一月は目を擦る。すると千芹はぴょんと机から飛び降り、傍に歩み寄ってきた。


「鬼を倒した後、いつきそのまま気を失っちゃって……今までずっと眠ってたんだよ」


 一月は部屋にある時計を見つめた。今日は土曜で、時刻は午前九時を回っていた。廃屋では時間など気にしていなかったが、少なく見積もっても八時間以上は眠りに落ちていたことになる。

 安堵からか、それとも身体的外傷が原因なのか、鬼となった琴音と戦った後、一月は急に意識が遠のいたことを思い出した。きっとあの後、千芹が彼女の力を用いて一月を自室へ連れて行ってくれたに違いなかった。

 ふと、鬼となった琴音との戦いで負った傷を思い出す。すると千芹が、それを先読みしたように言った。


「鬼との戦いで受けた傷は手当しておいたから。心配しなくても大丈夫」


 両肩や足の傷は、跡形もなく消えていた。どんな医者や薬があっても、これほど早く傷の治療をするのは不可能だろう。

 この怪異の最中、幾度も助けてくれた彼女に、一月は精一杯の感謝を贈る。


「そっか、ありがとう」


 千芹はただ、微笑んだ。幼い外見に相応な、純粋で無垢な笑顔だった。

 一月は窓に視線を移し、その向こうに見える青い空を見つめながら思った。


(鬼はもういない……終わったんだ、もう誰も死なずに済むんだ……)


 曇天に覆われた灰色の空は終わりを迎え、太陽が浮かぶ青空が取って代わった。

 一片の雲も浮かばない快晴の空、一月にはそれが事件の終わりを示しているように思えた。この怪異は終わった。鬼が消えた今、もう誰も死なずに済む。これ以上は誰も、呪いの犠牲にはならない。

 しかし、まだするべきことが残っていたのだ。

 意を決し、一月はゆっくりと立ち上がって部屋の入口へと向かう。


「どこに行くの?」


 千芹からの問いかけに、一月は振り返って彼女と視線を合わせ、答えた。


「行かなくちゃいけない場所があるんだ」



  ◎  ◎  ◎



 一月が足を運んだ先は、村内にある墓地だった。村が管理し、宗教などの制限はなく墳墓を提供する仕組みだ。埋葬の仕方は幾つかあるが、ここでは日本で古くから一般的とされてきた、墓石を据える様式が踏襲されている。

 無数に並ぶ墓石の中から、一月は目当てのそれを見つけた。

 竿石に黒い字で『秋崎家先祖代々之墓』と刻まれた、少しばかりひびの入った和型墓石――琴音やその両親が安置されている場所だった。


「いつきの来たい場所って、ここだったんだね」


 一月は千芹を振り返る。


「そう」


 一頭の大きなアゲハチョウが、千芹に向かってひらひらと飛んでくる。千芹が人差し指を立てると、そのアゲハチョウは誘われるようにそこに止まった。

 小さな命を見つめ、千芹は可愛らしく微笑む。アゲハチョウは少し羽を休めると、青空へ向かって飛んでいった。

 その様子を見届けると、一月は墓石に向き直った。

 琴音が安置されている場所を見つめるその眼差しは、神妙極まるものだった。


(琴音……)


 この場所を訪れる資格が、自分にあるのか。否が応でも、一月はそれを考えてしまう。

 琴音の命を奪ったのは鬼だが、その原因を作り出したのは自分自身、自分があんなことを言って傷つけなければ、琴音はここに葬られることなどなかった。どうしても一月は、そう思わずにはいられなかったのだ。

 一月が身を挺して鬼となった琴音を止めたことで、一応の決着はついた。しかし、それは償いにはならない。琴音を生き返らせれば償えるかもしれないが、そんなことは一月にも、誰にも出来ないのだ。

 死んだ者は、生き返らない。


(どうしたらいい、僕はこれから……)


 本当にこれで良かったのか、と一月は思った。

 そんなことを琴音は望まない、と千芹は諭してくれたが、道理的に筋を通せば、自分は鬼となった琴音に殺されるべきだったのではと考えてしまう。命を奪った罪は、命を以て償うしかないのではないか、と。

 琴音が一月に何を望んでいるのか、彼女がいない今、その答えは永遠に分からない。

 考え倦んでいたその時だった。


「ねえ、いつき」


 不意に呼ばれ、一月は振り返った。

 千芹は澄んだ瞳で、じっと見つめてくる。そして彼女は、言った。


「いつきは……今でもことねのことが好き?」


「え……」


 予想だにしない質問に、一月は息を呑んだ。千芹の顔を見れば、冗談でこんなことを言っているのではないことが分かる。

 一月はアルバムをめくり返すように、頭の中で琴音との思い出を辿る。

 小学校の頃、剣道場で初めて彼女と会ったこと、知り合ってから共に剣道の稽古に励んだこと、放課後に公園や家で一緒に遊んだこと、琴音と数人の友達と共に、神社での祭りに行ったこと、そして彼女手作りの、今も制服のポケットの中に入っているクマのマスコットをもらった時のこと。

 琴音の笑顔や、優しさや、彼女が時に見せた厳しさや脆さが、まるで砕かれたガラスの欠片をばら撒くように一月の頭に浮かぶ。暖かくて甘酸っぱくて、一月にとって何よりも幸福な思い出だった。

 嘘を言おうとも、また誤魔化そうとも思わなかった。

 面と向かって言うには気恥ずかしさが拭えなかったものの、一月は千芹としっかりと視線を重ね、答えた。


「もちろん、大好きだよ」


 月日が過ぎても、琴音がこの世からいなくなってしまっていても、一月の琴音に対する気持ちは、何も変わっていなかったのだ。

 だからこそ、自分が彼女に言ったことを思い出すと罪悪感が込み上がる。耐え難いほどに、胸が苦しくなる。


「それなのに、僕は……」


 一月の瞳に涙が滲み、その声は震えていた。


「琴音にあんなことを言って、傷つけて……! あんなことを言ったまま、謝ることも出来ないで……!」


 一月は片手で顔を覆い、溢れる涙を止めようともしなかった。

 経緯がどうあれ、結果的に琴音を死なせてしまった。もしこんな悲劇を招くと分かっていれば、絶対にあんなことは言わなかっただろう。

 この現実を目の前に、一月は無力だった。彼に許されたのは、ただ自責と後悔の涙を流し続けることだけだった。

 どれくらいの時が過ぎたのか、その言葉は発せられた。


「ありがとね」


 突然の千芹からの感謝の言葉に、一月は涙目のまま振り返った。


「え……?」


 涙で潤んだ瞳に、千芹の姿が映る。

 彼女は少しだけ視線を合わせ続けた後、一月に向かって満面の笑顔を見せた。純粋で、無垢で、穢れの一つもない可愛らしい笑顔だった。

 温かい風が吹き、千芹の黒髪や白い和服が緩やかに空を泳ぐ。 

 そして――。






「いっちぃ」






 一月を、そう呼んだ。

 千芹の言葉に、特に違和感も抱かなかった一月は、


「『いっちぃ』って、そんな琴音みたいな呼び方……」


 そこで気づいた。彼を『いっちぃ』と呼ぶのは、ただ一人だけだった。

 ある予感が一月の身の内に芽生え、その表情がみるみる驚きに染まっていく。対する千芹はただ、一月の目を見つめ続けていた。

 瞬きも忘れ、一月は少女に言う。


「琴音……!?」


 千芹は答えなかった。ただ、笑みを浮かべているだけだった。

 

「まさか……琴音なの!?」


 千芹はやはり、答えない。ただ彼女の瞳に浮かんだ涙が、その頬を伝っていく。

 一時の沈黙の後に、千芹は口を開いた。


「お母さんや先生に、心配かけたらだめだよ」


 千芹の話し方が変わった。幼い外見に相応だった無邪気な口調が、落ち着いた物腰の女性のそれへと変わったのだ。声こそ違えど、琴音とそっくりの話し方だった。

 さっき『いっちぃ』という愛称で呼んだことといい、もう疑いの余地は薄かった。

 突如現れ、幾度も一月を窮地から救い、鬼を倒す助けとなってくれた謎の少女、千芹。

 彼女の正体は、琴音なのだ。琴音が命を落とした時、彼女の善良だった心が少女を形作り、精霊と化した存在――あくまで推測ではあったものの、一月はそう考えた。

 返す言葉を見つけられずにいると、千芹は言葉を繋ぐ。


「私のためにいつまでもしょげてるなんて、そんないっちぃ、絶対許さないから」


 無邪気でからかうような言葉は、一月が知る琴音のそれとよく似ていた。

 琴音が目の前にいる、言わなくてはいけないことは沢山あった。何から言えばいいのかも分からないまま、一月は気が焦ったように口を開く。


「琴音、僕は……!」


 そこで、言葉は止まってしまう。

 すると千芹は察したように、


「言わなくても大丈夫だよ、分かってるから」


 千芹が、自身の手の平を見つめた。

 彼女の指先が小さな光の粒へと変じ、天へと昇っている。千芹の身が、消え始めているのだ。


「ごめん、私は役目を終えたから……もう行かなくちゃ」


 別れの宣告だった。しかし彼女の口調は、別れを惜しんでいるようには感じられなかった。むしろ、ほんの少しの間だけでも、一月と一緒にいられたことに感謝しているようだった。

 涙も拭わず、一月は問うた。


「お別れ……なの?」


 千芹は首を横に振った。


「大丈夫、またきっと会えるから。鬼がいる所には、いつだって私達がいるから……だから泣かないでよ、いっちぃ」


 そう言う千芹の頬にもまた、涙が伝っていた。

 一月にとって、彼女の涙は琴音の涙と同義だった。


「もう少しだけ一緒にいたかったけど、また会える時まで……じゃあね」


 その時だった。さっき以上に強い風が吹き、木の葉や草が宙を舞った。

 一月は思わず、腕で顔を覆った。


「うっ……!」


 風はすぐに止み、一月は前方に向き直る。

 そこにいたはずの千芹の姿が、消えていた。

 ――別れ、その言葉がまた頭に浮かび、一月はあてもなく墓地の中を駆け出した。

 彼女はもういない、それは重々承知していた。未練がましいとも分かっていた。それでも、じっと立ち尽くしていることなど出来なかったのだ。


「あ……!」


 そして一月は、青空に向かって昇っていく無数の淡い光の粒を見つけた。

 息を切らしながら、ずっと彼はそれを見上げ続けた。ゆっくりと昇っていき、やがて光の粒は青空に吸い込まれ、消えていく。

 それでも一月は目を逸らさず……想い人のための涙を流しながら、墓地の片隅に佇んでいた。



  ◎  ◎  ◎


 

 二か月余りの時が過ぎた。

 十一月下旬を迎えた鵲村は、雪こそまだ降っていないものの着実に気温が低くなり、行き交う人々は防寒具に身を包み、口から白い息を発している。

 誰もが外出を億劫に感じるであろう寒さだったが、その場所の熱気は冬になろうと冷めはしない。

 ――鵲村修剣道場。

 壁に掲げられた『心技体』の書筆に見守られながら、少年少女達は今日も剣道着に身を包んで竹刀を振っていた。彼らの気合の入った掛け声が、道場の隅々まで届き渡っていた。

 そんな中、一月の母は教員の漣とともに、対戦している一人の少年を見守っていた。

 俊敏な足さばきで詰め寄り、相手の攻撃を全て防ぎ、切れのある打ちを繰り出す少年――やがて彼は対戦相手の面を打ち、勝負は決した。

 互いに一礼し、二人は面を外す。勝利した彼は金雀枝一月だった。


「すごいですね一月君、二年間のブランクなんてあっという間に埋めてしまいましたよ」


 漣の言葉に、一月の母は頷いた。

 

「琴音ちゃんが亡くなってから火が消えたようだったのに……ついこの前からあの子、もう一度剣道初めて、口数も結構増えて、クラスメイトとも打ち解けるようになったそうなんです」


 明確な時期は記憶していないが、確か九月の終わり頃の話だった。

 何かを思い立ったように、一月は『母さん、もう一度剣道をやる』と言い、かつて通っていたこの鵲村修剣道場に入門したのだ。

 それが切っ掛けとなったかのように、一月は徐々に昔の元気を取り戻していった。琴音を失ったショックや悲しみを、どこかに捨ててきたかのようにすら思えた。

 漣は問う。


「何か、一月君に心の変化があったのでしょうか?」


 中学の頃に一月が一度道場を辞める以前から、一月の母と漣は知り合いの間柄だった。


「私には分かりません、でももしかしたら……」


 一月の母は、道場の壁際に置かれた一月の通学用鞄に視線を向けた。

 そのバッグのチャックの部分には、チェーンでクマのマスコットが付けられていた。体の部分は茶色いフエルトで、目の部分は黒いビーズで作られており、口の部分がギリシャ文字の『ω』のような形をしている。ミニサイズのマスコットで、なんとも可愛らしいデザインだ。

 あのマスコットを一月は誰から贈られたのか、一月の母は知っていた。


「もしかしたら、琴音ちゃんがあの子を……一月を助けてくれたのかも」


 

  ◎  ◎  ◎



 稽古の休憩時間、一月は壁際に置いていた自身の通学用鞄から水筒を取り出し、キャップを開けて口をつけた。

 

「ふう……」


 稽古ですでに汗だくで、よく冷えた水が渇いた喉を潤滑油のように潤していく。

 水分補給の最中、通学用鞄のチャックに付けられたクマのマスコットを見つめる。

 その時ふと視線を感じた気がして、一月は道場の窓から外を見つめた。そこには雲の一つも浮かばない、青空が広がっていた。

 水筒を片手に、誰にも聞こえない小さな声で、呟く。


「……気のせいか」


 僅か数分の休憩時間が過ぎて、水筒を通学用鞄の中に戻し、チャックを閉める。

 再び面を被って竹刀を手に取り、一月は稽古へ戻った。彼はもちろん気づかなかったが、その時通学用鞄に付けられたクマのマスコットが、微かに揺れた。



  ◎  ◎  ◎



 鵲村の空に、一人の少女の姿があった。

 まるで見えない床に立つように、雲の側に浮かぶ幼い少女。腰まで伸ばされた黒髪や、その身を包む新雪のような純白の着物が美しく、実に印象深かった。

 彼女は眼下に広がる鵲村――その一角にある、鵲村修剣道場を見つめていた。

 その口元に、笑みが浮かぶ。


「さようなら……ううん、またね……」


 誰にともなくそう呟くと、彼女は空を振り返り、その小さな体が吸い込まれるように天へと昇っていき――やがて彼女の姿は光に溶け入り、誰にも見えなくなった。











 人が死を迎ふる時、その肉体は土へと帰るが、生前にその者が抱きたりし想ひは現世に残る。


 怒りや恨み、憎しみ、嫉み。現世に残されし死人達の負の想ひは連なり、寄り添い、やがて『鬼』となりて形を成す。


 鬼となりし負の感情の塊は、行き場のなき想ひを鎮める生贄を求めて生者を襲い、死の世界へと誘ふ。


 死の世界へと誘はれし生者の魂は鬼の負の思念に取り込まれ、思ひ出も記憶も、理性も全て失ひ、鬼の一部となる。











 また、死人が遺した正の想ひ。


 他者への慈愛や慈しみの心や優しさもまた現世に残され、幼き子供の姿を形作り――鬼と相成す存在、『精霊』となる。


 精霊は死人が生前に想いし者の前に姿を現し、その者を助ける為、鬼から救ふ為に善行を成す。






 ――鵲村の古い言い伝え。











 金雀枝一月



 秋崎琴音/千芹/鬼



 黛玄生



 一月の母



 漣朋花



 佐天文美



 天恒千早
















          鬼哭啾啾 再 ~繰り返された一つの恐怖~















                  終
















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