其ノ参拾壱 ~鬼狩ノ夜 其ノ参~
こんな状況だというのに、一体何を言っているんだ。
恥ずかしさを感じたけれど、それでも後悔はしなかった。自分への戒めの意味でも、今の言葉は必要だった。
琴音が好きだからこそ、僕は命を懸けて彼女を止めることにした、その決意には一片の曇りもない。
一時の沈黙を経て、鬼となった琴音が笑みを浮かべた。
《ふっ、いきなり何を言い出すかと思えば……あはっ、ははははは!》
暗い仏間が、嘲笑で満たされる。
僕はただ天庭を構え、鬼となった琴音を見据えていた。笑われようとも、さっきの言葉を取り消そうとは思わなかった。
十数秒ほど、鬼となった琴音は狂ったように笑い続けた。そして、その笑い声は徐々に小さくなっていき……彼女は俯いて沈黙した。
ぞろりと伸びた黒髪を揺らしつつ、鬼となった琴音が顔を上げる。もうその表情に笑みはなかった。
《くだらない》
吐き捨てるような言葉のすぐ後、鬼となった琴音は再び僕に襲い掛かってきた。
人間業ではない速度で僕との距離を詰め、射程内に踏み入るや否や、赤い光を纏う刀を振りかざしてくる。狙いは僕の首だった。
防御するには間に合わない、そう判断した僕は咄嗟にしゃがんで姿勢を低め、攻撃を回避した。僕の代わりに、後方にあった襖の戸が真っ二つに切断されて床に落ちた。
攻撃を回避しても、気を抜く猶予など与えられない。琴音に向き直った時には、既に彼女は攻撃態勢に入っており、赤い光を纏う刀が襲い掛かってくる。
戦闘再開だった。
負傷した左肩の痛みに耐えつつ、次々と繰り出される攻撃を防ぎ、機を見計らって反撃する、防御自体はさほど難しくはなかった。しかし鬼となった琴音は、生前の琴音と同等か、それにも勝る強さを有しているように思えた。人ならざる存在に変じたことで、疲れやスタミナという概念が取り払われているのかもしれなかった。
ほぼ防戦一方となり、僕は少しずつ後退する。対する琴音は攻撃の手を緩めることなく、僕が後退した分だけ前進し、流れるように追撃を繰り出してくる。
一撃でも喰らえば致命傷は免れない、絶対に防ぎきらなければ。
まばたきもせずに応戦し続けていた僕は、周りを見ることを忘れていた。
その不注意が、致命的だった。
《いつき、足元!》
不意に千芹がそう言ったのと、それが起きたのはほぼ同時だった。
「うっ!?」
突然のことに、思わず声を上げてしまった。
右足に何かが触れたと思った瞬間、僕は体制を崩してよろけてしまう。
仏間の床に転がっていた、大きな木の破片に躓いたのだ。ここは人の手が入らなくなり、荒廃した廃屋だ。木の破片の他にも石、それに元からここにあった様々な物……障害物はそこかしこに落ちている。
片手を壁につき、身を支えて転倒を回避する。しかし琴音は、その隙を見逃さなかった。
血を吐くような叫びを発しながら、彼女は斬りかかってくる。
《があああああっ!》
体制を立て直し、僕は慌てて天庭を構え直した。既に攻撃を避ける余裕などなく、防御以外の選択肢はなかった。
左だ、左からくる。そう判断した僕は、左からの攻撃に備える構えに移行した。
しかし、それは不用意な動作だった。
「はっ……!?」
左から斬りかかってくると判断した次の瞬間だった、琴音が一瞬と呼べる時の内に方向を変え、右からの攻撃に変更したのだ。
――フェイント技。
そう、生前の彼女が得意とし、この技で幾人もの相手を破ってきた、相手に攻撃の手順を誤認させ、その隙を突く戦法。中学校の剣道の大会で僕と琴音が戦った時、僕が負ける原因となった技だ。
僕は慌てて、右からの攻撃を受けようとした、しかし間に合わなかった。
「がっ、あああああっ……!」
自分自身が発した苦悶の声が、鼓膜を揺らす。
左肩に続き、今度は右肩が制服ごと切りつけられた。先程以上に傷は深く、激痛とともに大量の血が流れ出るのが分かる。
しかしそれだけで終わるはずもなく、琴音は更なる攻撃を浴びせてくる。痛みを我慢で塗り固めながら、僕は振りかざされた刀を受け止めた。
だが、手負いの状態でいつまでも持ちこたえてなどいられなかった。
「ぐっ……!」
右肩の激痛に、僕は全身を強張らせる。
《もっと苦しめ……!》
刀が弾かれたと思った次の瞬間、今度は僕の左足が切りつけられた。
体制が崩れた僕の頬目掛けて、琴音は刀の柄による突きを繰り出してくる。
「がっ!」
口の中を切り、鉄のような血の味が充満する。
突きの勢いで、僕は仏間の端にまで弾き飛ばされて倒れ伏した。すぐに立ち上がろうとしたが、左足が切りつけられたせいでそれも許されない。
さらに今度は右肩の痛みがぶり返し、持っていた天庭を床に落としてしまった。鳴り渡った重々しい金属音が、敗北を告げる鐘の音のようだった。
《存分に嬲ってから、殺す……!》
数メートル先の距離で、鬼となった琴音が刀の先を僕に向ける。
足を切り落すこともできたはずだが、そうしなかったのはじわりじわりと僕を痛めつけ、苦しみ抜かせてから殺すためなのだろう。
自責の念が込み上がり、全身を支配していく。彼女の口から、あんな残忍な言葉が出ているのは僕のせいなのだ。
こんな状態では、罪を償うことも、琴音を暗い場所から引きずり出すこともできない。情けなくて、自分の心臓を突き刺してしまいたくなる。
《これで、終わり……》
鬼となった琴音が、止めを刺すために近づいてくる。
もう一度立ち上がって天庭を拾ろうとしたが、左足の痛みで立つこともままならず、その場に倒れ込んでしまった。
悔しさとも分からない感情を、僕はただ言葉にして放り投げた。
「くそっ!」
自棄になりかける僕を、千芹が呼ぶ。
《いつき……!》
天庭に宿っていて姿の見えない彼女に、僕は言った。
「ごめん、僕には琴音を止められなかった……!」
この怪異の中、幾度も僕を助けてくれた女の子に対して、僕は謝罪の言葉しか発せられない。
千芹から返事はなかった。
僕を殺すために、鬼となった琴音はゆっくりと、しかし確実に歩み寄ってくる。もう一度立ち上がろうとしたが、やはり無理だった。逃げることも、抵抗することも出来ない。
諦めたくなどなかった。しかし、もう諦めるしかない。
終わり――その三文字が頭に浮かんだ、まさしくその時だった。
――助けて――
突然頭に浮かんだその声には、大いに聞き覚えがあった。
鬼となった琴音が発した声でもなければ、千芹の声でもない。懐かしさと一緒にぬくもりすら感じられる、少女の声だった。
――助けてっ……!――
まさか、まさか……!?
僕が抱いた予感は、次の言葉で確信へと変じた。
――私を鬼から救い出して、お願いいっちぃ……!――
顔を上げ、僕はその声の主の名を呼んだ。
「琴音……!?」