其ノ参拾 ~鬼狩ノ夜 其ノ弐~
竹刀ではなく真剣を用いている、さらに琴音は鬼と化している――その二つの違いを除けば、僕と琴音が真剣勝負をするのは中学以来のことだった。
望まざる形で再び訪れた、好きだった女の子との一騎打ち。運命を呪いたいと一瞬思ったが、それは筋違いだった。今のこの状況は僕が招いたこと、いうなればこれは僕の愚かさが招いた罰なのだ。
逃げも隠れもする気はない。この手で鬼となった琴音を止め、この怪異に終止符を打つこと、それが僕にできる唯一の贖罪だった。
鬼と化していても、琴音の構えは生前と変わらず隙がない。不用意に仕掛けようものならば、即座に反撃を喰らうのが目に見えていた。一撃でも受ければ、恐らく致命傷になる、これから僕らが行うのは剣道の試合ではなく、真剣を用いた本物の決闘なのだ。
互いの武器を構えたまま、僕らは気を伺うように睨み合っていた。線香のにおいが漂う仏間が、静けさに包まれる。
沈黙を破ったのは、しびれを切らしたような琴音の声だった。
《来ないの……?》
僕は答えなかった。答えずに、彼女の姿を視界の中央に留めたまま、ただ唾を飲み込んだ。
僅かに、鬼となった琴音が持つ刀の先端部分が動いた。それが宣戦布告の合図だった。
《それなら、すぐに殺してやる!》
殺意の言葉とともに、戦闘が開始する。
一瞬だけ姿勢を屈めて足に力を入れ、琴音が仏間の床を蹴って僕に迫ってくる。赤い光を纏う刃のリーチに踏み入るまでは、数秒と要しなかった。
俊敏かつ無駄な動きを一切欠いた攻撃が、僕に向けて繰り出される。
「ぐっ!」
僕の天庭と、琴音の刀。
二本の真剣がぶつかり合った瞬間、凄まじい金属音が仏間に鳴り渡った。
同時に、僕の両腕に衝撃が降りかかる。電撃のように襲ってきたそれに、僕は思わず声を出してしまった。しかし怯んでいる暇はなかった、琴音は即座に体制を立て直し、再び僕に切りかかってきたのだ。
慣れない真剣での戦いに、僕は彼女の攻撃を防ぐことで精一杯だった。剣道で動体視力を鍛えていなければ、とっくに八つ裂きにされていたに違いない。剣道を辞めて二年が経過していたが、カンは死んでいなかったようだ。
十手ほど刀を交えた後、琴音は僕から少し距離を置き、口を開いた。
《剣道から離れていても、さほど腕は衰えていないか……》
僕は息を呑んだ。
次の瞬間、琴音がまた僕へと斬りかかってくる。
例え一瞬たりとも気は抜けない、これは殺すか殺されるか、『命のやり取り』だ。
《あああああっ!》
憎しみそのものを吐き出すような叫び声と一緒に、攻撃が再開される。
右から、左から、今度は上から。嵐のごとく繰り出される連続攻撃を、僕はひたすらに天庭で防ぎ続ける。
ある程度どいえど、琴音の手の内は知っているはずだった。しかしそれでも、反撃の機会は掴めない。
鬼になってもなお、生前の腕前は健在のようだ。琴音の剣道の強さは、同年代の男の子を簡単に打ち負かしてしまうほどだった。その才能はただ生まれ持ったわけではなく、僕以上の長い期間竹刀を握り続け、稽古に励んだ末に手に入れたもの、つまり努力の賜物なのだ。
彼女は僕よりも強い、それは紛れもない事実だった。だが負けるわけにはいかない、僕には絶対に負けられない理由がある。
琴音の強さを再認識する間もなく、僕は彼女の攻撃を防ぎ続ける。
赤い光を纏う刀を、僕は勢いよく横へ打ち払った。
《っ!》
息を呑んだ琴音の体が、僕が弾いた方向へとよろける。
僕が防御に徹するつもりだと信じ込み、不意の反撃に対応できなかったのかもしれない。確かに技は僕よりも琴音の方が上だったが、それでも一つ、確信をもって僕が彼女に勝っていると言えるものがある。
力だ。単純な力で言えば、女の琴音よりも男の僕の方が上に決まっているのだ。
今僕がそうしたように、力による競り合いに持ち込めば、隙を作り出せる。
そんな考えは甘かったと思い知らされるのは、すぐのことだった。
機を掴んだと感じた僕が天庭を構え直し、彼女目掛けて斬りかかろうとする――その一瞬と呼べる時の間に、琴音は体制を立て直し、こちらへと向き直ったのだ。
僕の身を突き刺そうと、琴音が迎撃を繰り出してくる。僕は間一髪で体を横へ動かし、それをかわした。
危なかった、そう思った時、僕の左肩に鋭い痛みが走った。
「ぐっ!」
思わず声を上げてしまう。
痛みを放った部分に触れると、制服ごと左肩が裂かれていた。さほど深い傷ではないが、少しばかり出血している。
しかし、そんな傷に構っている猶予など与えられない。
琴音が再び走り寄り、僕に襲い掛かってきたのだ。
《うあああああッ!》
憎しみそのものを吐き出すような叫びが、また仏間に響き渡る。
鬼になった琴音が繰り出す攻撃は、さっきまで以上に素早く、そして鋭くなっていた。これまでは様子見で、本気を出していなかったに違いない。
幾度もぶつかり合う僕らの武器、甲高い金属音が繰り返し響き渡り、耳が痛くなりそうだった。
それでも僕は負けじと応戦する、彼女の攻撃を防ぎ、時に反撃を繰り出す。戦況はどうみても琴音が押していたが、さっき僕が受けた攻撃を除けば互いに手傷は受けていなかった。
剣戟を繰り広げてどれくらいの時間が過ぎたのだろう、琴音が突然後方に飛び退き、刀の先を僕に向けながら言った。
《所詮この程度……私が生きていた頃も、私に勝てたことなんて一度もなかったものね……》
嘲笑うかのような言葉に、僕はただ息を荒げながら、天庭の柄を握る手に力を込めた。鬼になった琴音は息切れすらしておらず、まるで疲れを知らないようにすら見えた。
頭を振り、僕は汗を飛ばす。
すると琴音が笑みを浮かべ、僕に言う。
《どうして戦うの? まさか……私を止めれば、自分の罪が赦されるとでも思っているつもり?》
彼女の言葉が不可視の刃物となり、僕の胸に突き刺さる。
動揺を表情に出さないよう努めたが、自信はなかった。
《誰が私を死に追いやった? 汚い言葉で、私を絶望に陥れたのは誰だ? 忘れたとは言わせない……!》
負念が溢れ出るかのごとく、琴音の体を黒い霧が覆い包んでいく。
禍々しく、悍ましい鬼の姿だった。彼女をあんな風にさせたのは、全ての原因を作り出したのは僕――。
目を背けもせず、まばたきもせず、僕は彼女を見据えながら、答える。
「僕の罪が消えるだなんて思っていない……赦されようだなんて、考えたこともない……!」
自分でも驚くほど、勇ましい声だった。
こんな声を出したのはいつ以来なのか、もう思い出すこともできない。
「君を傷つけた罪を、僕は一生背負っていく。でもその前に、鬼になってしまった君をこの手で止めてみせる。大勢の人を傷つけるだなんてこと、琴音が望むはずがないだろう!」
どの口でそんなことを言っているんだ、と思った。
琴音の全てをぶち壊しにした癖に、そんな理屈で片付けるつもりなのか? 自分自身の愚かさに、こんな詭弁しか吐けない自分自身の情けなさに、涙が出そうになった。
だが、命を以て償う覚悟は嘘ではない、それだけは言うことができた。
以前として刀の先を僕に向けたまま、琴音が口を開く。
《どうしてそこまでして……黙って殺されれば、苦しむことも、罪の意識に苛まれることもないのに……そんな必死になってまで私を止めようとするのは、何故なの?》
「そんなのは決まってる!」
その先を言うのはためらわれた。
しかし、言わなければならないと思った僕は、天庭を構え直し、言った。
「君のことが、好きだからだ!」