其ノ弐拾九 ~鬼狩ノ夜 其ノ壱~
降りしきる雨の中、僕達は秋崎家の廃屋へと足を運んだ。ここを訪れるのはこれで三度目だ。
時計など見てもいないから、今は何時なのかは分からない。陽が落ちているから、夜なのだということは分かった。周囲には街灯もなく、廃屋が闇に浮かぶように僕達を見下ろしていた。
どんな結果になろうと、ここに来るのはこれが最後になるだろう。
「いつき、行こう」
僕の隣に立っていた千芹が促してくる。
この怪異の中、幾度も僕を窮地から救ってくれた、唯一の協力者と言ってもいい謎の少女。全てが終わったら、ちゃんとお礼を言うつもりだった。
差し出された霊刀、天庭を僕は受け取った。黛先生が見つけてくれた、鵲村のある僧侶が自らの手で作り出して魔除けの力を込めたという、鬼を打ち払える真剣だ。
これで、終わらせる……!
「うん」
千芹に頷くと、天庭を片手に僕は廃屋の敷地内へと踏み入った。
◎ ◎ ◎
廃屋の扉を開けて中に踏み入るや否や、空気が急に重く、冷たくなる。
ここを訪れるたびに感じていたことだが、まるでこの廃屋は世界から隔絶された、異空間のような場所に思えた。
鬼となった琴音が巣食う、あの世へと通じる地獄の門――僕なりの言葉で表現すれば、そんなところだ。
こんな恐ろしい怪異に巻き込まれると知っていれば、僕はここに来たりなどしなかったのだろうか? 土やゴミの臭いに鼻を覆いながら、僕は考えた。
いや、もうそんなことを考えても無駄だった。時間を巻き戻すことなんて誰にもできない、始まってしまった以上は、止めるしかない。むしろ、僕の罪を清算する機会が与えられたことに感謝すべきなのかもしれない。
だが、その後はどうすればいい?
鬼となった琴音を止めて、この怪異を終わらせることができたとして……僕はその後、どうやって生きていけばいい?
それはあまりにも難しい疑問だった――僕はとりあえず、今はそれを考えるのをやめた。現時点での最重要事項は、鬼となった琴音を止めること。別のことを考えながらできるほど容易くはない、少しでも気を抜けば、僕の命など雑草のごとく一瞬で刈り取られるだろう。
ギシィ、ギシィと床板を踏み鳴らしつつ、僕は携帯電話のライトの明かりを頼りに廃屋を進んでいく。
襖に近づいていくごとに、空気の冷たさと重さが増していく。あの襖の向こうは仏間、鬼となった琴音が待ち受けているであろう場所だ。
引き手に手をかけ、僕は汚れた襖を見つめつつ深呼吸をする。天庭の鞘を握る手がベタベタに汗ばんでいるのが分かる。
微塵の恐怖も感じていなかったと言えば嘘になる、しかし後戻りしようなどとは考えなかった。もう僕には、逃げ道などない。
「いつき……」
気遣うように、隣にいた千芹が僕の名を呼んだ。薄暗い中でも、彼女の白い和服は明瞭に視界に映る。
その時、突如として僕の頭に痛みが走り抜けた。
「ぐっ……!」
思わず声を出してしまい、引き手から手を離してしまう。
何だこれ、急に頭が……と思った時、千芹が言った。
「霊障……? まさか、ここまで力を増して……!」
突然の頭痛に耐えながら、僕は彼女に訊いた。
「霊障?」
全く聞いた覚えのないわけではなかったが、かといって聞き慣れている言葉でもなかった。
千芹は頷き、
「周囲の人の体に異常を与えるほどに、ことねの力が増しているってことだよ。早く止めないと、犠牲になる人がもっと増えてしまう……!」
恐ろしい言葉に、僕は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。
これまで琴音の呪いの犠牲になった人は、僕が知っているだけでも既に二人。初めてこの廃屋に訪れた時に目にした、あの惨殺された二人の女子高生だ。
さらに琴音が餌食にしたのは彼女達だけではなく、村で行方不明になっている人々――全員が全員ではないだろうが、その中には鬼となった琴音に殺された者もいると判断してまず間違いはないだろう。
まさしく、呪いと悲劇の連鎖だった。
ここで止められなければ、それはさらに広がっていくだろう。琴音は多くの人に呪いを撒き散らし続け、幾人もの人間を襲っては殺し、その魂を取り込んでいくに違いなかった。
「させない……!」
千芹と視線を重ねながら、僕は答える。
「今なら止められる、必ず止めてみせる!」
僕の気持ちを受け取ったように、千芹は頷いた。
心の準備は、もうできていた。僕は再度、襖の引き手にその手をかける。
「行こう」
その言葉と共に、僕は右側の襖を開け放ち、仏間へと踏み入った。
そしてすぐに、そこにいた少女の姿が目に入る。
小さな体から黒い霧を迸らせ、前髪の隙間から身も凍りつかせるような瞳を覗かせる彼女――鬼となった琴音が、待ち受けていたのだ。
僕のせいで鬼となってしまった、かつての想い人。彼女は僕の姿を視線に捉えたかと思うと、その右手を僕に向けてかざしてくる。
《殺す……!》
次の瞬間、その手から黒い霧が放たれ、僕の方へと迫ってきた。
避けなければ、と思った瞬間だった。千芹が僕を庇うように前に歩み出て、手にしていた小刀を振り抜いた。いつの間に真言を唱えたのか、小刀の刀身には既に青い光が宿されていた。
青い軌跡を残す小刀の一閃によって、黒霧は切り裂かれて爆散する。千芹は気を抜くことなく、今度は袂から竹筒を取り出して栓を抜き、鬼となった琴音へと走り迫る。
迫りくる千芹に向けて、琴音は再び黒霧を放った。
しかしその迎撃を千芹は読み切り、紙一重でかわす。射程範囲内に踏み入ると、千芹は鬼となった琴音目掛けて竹筒の中身を振りかけた。
《ぐっ!》
撒き散らされた茶が全身に降りかかり、琴音が怯んだ。
彼女の動きが止まる。
「今だよいつき、天庭を抜いて!」
千芹を見守りながらも、僕は決して気を抜いてはいなかった。だから千芹の声に即座に反応できた。僕は天庭を鞘から抜く。金属音と一緒に、眩い銀色の刃がその姿を見せる。
鬼となった琴音の側から後退したと思うと、千芹は何かの呪文を唱え始めた。
刹那、千芹が青い光の玉へとその姿を変え、吸い込まれるかのように天庭の刃と一体化する。天色の刃が青い光を放ち始めた。この霊刀に魔除けの力が宿った証拠だった。
《気を抜かないでね》
千芹の声が、直接頭に浮かんでくる。天庭に宿りながらでも、彼女は僕と意思の疎通が可能なのだ。
僕は天庭を構えつつ、応じた。
「ああ、分かってる……!」
前方の琴音を注視する。
既に彼女は自由を取り戻し、僕の方へと向き直っていた。千芹の茶は、鬼に向けて振りかけると短時間ながら足止めさせることが可能のようだ。
《今度こそ、殺してやる》
声なのかどうかも分からない琴音の言葉が、僕に届く。
琴音がその右手をかざしたと思った瞬間、そこに黒霧が集まっていき……一本の刀を形作った。まやかしなどではなく、正真正銘に本物の真剣だと分かった。
これも鬼の能力なのか、そう思った時、さらに琴音は発した。
《身をもって思い知らせてやる、絶対に赦しはしない……!》
鬼となった琴音が持つ刀の刃に、赤い光が宿った。それはまるで、炎のように燃え滾る怨念そのものにも思えた。
千芹が言う。
《怨念の力、あんなことまでできるほどの力をつけていたなんて……気をつけて、いつき》
鬼となった琴音が、赤い光を纏う刀の先を僕の方へと向ける。宣戦布告の動作にも思えた。
精神統一をするように、僕は深く息を吸った。
「分かってる……!」
琴音が、刀を引き戻して構え直した。
生前の彼女と同じ、『正眼の構え』だった。オーソドックスで剣道の基本ともいえる構え方ながらも、攻撃にせよ防御にせよ、様々な動作に派生しやすい構えだ。
僕も同じように、正眼の構えをとる。この段階から既に、戦いは始まっていた。
剣道の試合で、僕はこれまで一度も琴音に勝てたことはない。だが、今回だけは負けるわけにはいかなかった。
神々しい青色の光を纏う天庭を持つ僕と、禍々しい赤い光を纏う刀を持つ琴音。
二色の光で照らされる仏間の中――僕達は、それぞれの刀を手に互いに向かい合っていた。