其ノ弐拾八 ~決断~
千芹に叩かれた頬が熱を帯びていた。上手く言い表せなかったが、それは単なる痛みとは違い、心に響き渡るかのような……そんな感じだった。
突然の出来事に、一月はただ黙るしかなかった。
そんな一月を、千芹はただ見つめてくる。
涙に潤んだその瞳を見つめていると、彼女が抱く悲しみが自身の中に染み渡ってくるように思えた。
千芹が、和服の袂を探り始めた。これまで幾度か見てきた仕草だったが、彼女が取り出したのは小刀も、竹筒でもなかった。
灰色の日記帳だったのだ。
「それは……!」
思わず、一月は目を見開いた。千芹が突然取り出したそれは、見覚えのある、という程度の言葉では収まらない物だったのだ。
廃屋で見つけた、生前の琴音が日々の出来事を綴っていた日記帳だ。見間違いなどでは断じてなかった。いつの間にそんなことをしたのかは分からなかったが、彼女は廃屋からこの日記帳を持ち出していたのだろう。
驚く一月を意にも介さず、千芹は日記帳のページをめくり始める。そして目当ての部分を見つけたかと思うと、彼女は日記帳を一月に差し出してきた。
「これを見て、いつき」
困惑しつつ、一月は日記帳に視線を落とす。
開かれていたのは、彼にとって最も重要と言っていいページだった。今から二年前の九月二十三日、一月と琴音が喧嘩をした日の日記だ。
『二○××年、九月二十三日。
今日、いっち×と××カを×た。
彼とこ×な風に×ン×したこ×は、今×で一度もな××たと思×。
××ちぃ、ひ×いこと言×て』
汚れと傷みが酷くて断片的にしか読み取れず、さらにこの先の部分が破れて失われているページ。
千芹は琴音が記した文字に指を添えながら、
「きっと、ここにはこう書かれていたんだと思う」
涙の混ざった可憐な声で、彼女は続けた。
「今日、いっちぃとケンカをした。
彼とこんな風にケンカしたことは、今まで一度もなかったと思う。
いっちぃ、ひどいこと言って……」
読み取れない部分を自身の言葉で補完しつつ、千芹は読み上げた。
文章の脈絡に字の大きさ、そして字間のスペースの幅……それらを考慮すれば、確かに千芹が読んだように書かれていたのが自然だと、一月には思えた。
そして、同時にそれは確信を得る材料にもなった。
「やっぱりそうだよ、琴音は僕を恨んでいたんだ」
この部分を見れば、琴音が一月を恨んでいたと解釈すべき内容に思えた。
しかし千芹は、即座に否定する。
「違うよ一月、そんなことはない、絶対に……!」
根拠を欠いた空論としか、一月には思えなかった。
「どうしてそんなことが言える、琴音は絶対に僕を……」
その時だった、千芹が一枚の紙を一月に差し出したのだ。
彼女がいつの間にか手にしていたそれが何なのか、一月は怪訝に思った。しかしその紙の正体を察するのに、さほどの時は要しなかった。
「まさか、それって……?」
千芹は頷いた。
「この日記の、続きの部分だよ」
手にした日記帳に、千芹はその紙を当ててみせた。パズルのピースが上手く組み合わさるように、破れ目が合致する。
「九月二十三日の日記の破れた部分……どこで見つけたの?」
その一月の質問に、千芹は答えなかった。
代わりに、彼女は破れた部分を取り戻した日記帳を差し出してきた。
「いつき、読んでみて。そうしたらきっと……分かると思うから」
千芹がどうして切れ端を持っていたのか、疑問には感じた。
しかし一月にはそれ以上に、日記の続きの部分の方が重要だった。
日記帳を受け取った一月は、少しの間それに視線を落としていた。これを読めば琴音の真意が分かる、どんなことが書かれているのか、恐ろしくもあった。琴音が自身への恨みの言葉を、延々と書き連ねているかもしれないと思ったからだ。
だが、立ち止まっていることなどできなかった。
生唾を飲み込み、一月は日記を読み始める。
『二○××年、九月二十三日。
今日、いっち×と××カを×た。
彼とこ×な風に×ン×したこ×は、今×で一度もな××たと思×。
××ちぃ、ひ×いこと言×て』
ここまでが、先程千芹が補完して読んだ部分だった。
その先、これまでには破れて失われていた部分にも汚れや傷みは見受けられたが、読むのに支障をきたす程ではなかった。
瞬きも忘れ、一月は読み進めていく。
『――ごめんね……いっちぃを励まそうと思ったんだけど、私、余計なことしちゃった。
お父さんが亡くなって悲しんでる時にあんな無神経なことを言われたら、いくら優しいいっちぃだって怒るに決まってるよね。
それなのに私、謝りもしないで逆ギレみたいなことして、いっちぃにバカとか大っ嫌いだとか、最低なこと言っちゃった……。
何年も前からの大切な友達なのに、私が意地張った所為で深く傷付けちゃった……。
ごめんねいっちぃ、本当にごめん……。
謝っても許してくれるか分からないけど、明日ちゃんといっちぃに謝ろうと思う。
許してくれなくても、それでも謝る。
もしも許してくれたのなら、もう一度いっちぃと一緒に剣道に励んで……。
そして昔みたく彼と一緒に、笑い合いたい。』
自身を糾弾することが書かれているかもしれない、一月のそんな心配は杞憂に終わった。琴音が日記帳に込めていたのは、後悔の気持ちと一月への情念だったのだ。
読み終えた時、日記帳を手にする一月の両手は震えていた。
「琴音……!」
微かではあったものの、日記の端の方に円形の染みのようなものがあった。
――涙だ。琴音はこの日記を書きながら、涙を流したのだ。
「ことねも、今のいつきと同じだったんだよ。いつきにひどいこと言ったのを後悔して……」
突き上げてくる感情を押し込めつつ、一月は千芹を向いた。
「ことねはいつきのこと、全然恨んだりなんてしていなかったんだよ。でも鬼に殺されたせいで、鬼の負念に取り込まれて……」
一月は、千芹の言葉に補足する。
「自分が殺される原因を作った僕に、憎しみを爆発させるようになった」
一月と喧嘩をした日の翌日、琴音は謝るつもりだったが、それは叶わなかった。その前に彼女は鬼によって殺されてしまったからだ。
謝ることができないまま、重石のごとく圧し掛かっていたであろう一月への罪悪感を抱えたまま、琴音は死んでしまった。どれほど心残りだったろうか……察するには余りあるものがあった。
「くそっ……!」
琴音が自分を恨んでいなかったという事実を知っても、安堵の気持ちなど微塵も浮かばなかった。
理不尽で、不条理で、何よりも彼女が命を落とす切っ掛けを作ってしまった自分自身が許せなくなり、一月は拳を握りしめた。
その手が不意に、温かさに覆い包まれる。
「え……」
千芹が、その両手で一月の右手を握ったのだ。精霊でも人と変わらない、温かなぬくもりが伝わってきた。
祈るような眼差しで一月を見つめ、彼女は言う。
「ことねはきっと、もう誰も自分のような目に遭う人が出ないことを望んでる……」
琴音の日記帳を片手に、一月はただ、千芹の言葉に耳を傾ける。
「いつき、今度こそ……今度こそ、終わらせよう?」
一月の手を離した千芹は天庭を拾い上げ、それを一月の目の前にかざした。
琴音の真意を知った今、一月には『死ぬ』という選択肢はなかった。自分がこれからすべきこと、それを見定めた一月が返すべき答えは、ただ一つだった。
鬼となった琴音を止め、この怪異に終止符を打つことだ。
「分かった……今度こそ、終わらせる……!」
決意に満ちた表情を浮かべ、一月は答えた。
千芹と共に部屋を後にする、行き先はあの廃屋だった。