其ノ弐拾五 ~悲シキ真実~
その右手に天庭を携え、一月は鬼となった琴音へと歩み寄る。
かすっただけだと感じた一撃は、彼女にとっては結構な痛手となったようだ。琴音は仏間の床に伏し、腹部を押さえていた。
もっと過酷で、凄絶な戦いになると思っていたが、勝負がつくのは予想以上に早かった。
《うぐうっ、ううっ……!》
苦悶の声とともに、前髪の隙間から覗く濁った瞳が一月の顔を映す。
生前の彼女からは考えられないような、憎しみと殺意に満ちた目だった。何も感じなかったかと問われれば嘘になる、しかし一月は迷いはしなかった。
想い人であった少女の姿を持つ鬼に向かって、一月は天庭を振り上げた。
(これで……全部、終わらせる……!)
この霊刀を振り下ろしてとどめを刺せば、この怪異は終結する。
鬼が消滅すれば、もう誰も犠牲にはならない。一月に選択の余地はなかった。
しかし、
《私を殺すの……? 二度も……!》
鬼が発したその言葉が、一月の思考を奪った。
「何だと……?」
ずるずるとカメレオンのように床を這い、琴音が迫ってくる。
同じ言葉が再び、琴音から発せられた。
《私を殺すの? 二度も!》
文脈は同じだったが、最初よりも憎しみが強く込められた言葉だった。
「『二度も』? 一体何を言ってるんだ……?」
気がつけば、一月は天庭を下ろしていた。
操り人形のようにぎこちない動作で、鬼となった琴音が立ち上がった。
《まさか、忘れたとでも言うのか……!?》
ぞろりと伸びた黒髪を揺らしながら、ゆっくりと、しかし確実に琴音が迫ってくる。
《だめいつき、耳を貸さないで! 早くとどめを……!》
千芹の声が聞こえた。しかし一月は琴音の言葉に完全に気を奪われ、天庭を構えることすらできない。
鬼が自分を惑わせようとしているのだとは思った、だが、これから真実が語られようとしているようにも感じられたのだ。
鬼を止めることはもちろん大事だ。しかし琴音の死の真相を知るということも、一月には重要事項だったのだ。
琴音の腹部の傷は塞がり、既に跡形もなくなっていた。
《お前が私に何をしたのか、どうして私が死ぬことになったのか……!》
糾弾の言葉が浴びせられる。一月は唾を飲み、辛うじて声を発した。
「僕が、琴音に何かしたって言うのか……?」
もう、目を逸らすこともできなかった。
《シラを切るのなら……教えてやる》
鬼となった琴音が、その右手の人差し指を一月の額に触れさせる。
瞬間、刈り取られるように意識が遠のいていき、一月の視界は闇に支配された。
◎ ◎ ◎
「はっ……!」
気がついた時、一月は自分の体が宙に浮いているのを感じた。まるで空を飛んでいるかのようだった。
何だこれ、どうなってる……そう考え、すぐに鬼となった琴音が自身の額に触れ、その瞬間に意識が遠くなったことを思い出した。
これは、鬼となった琴音が見せている光景なのだ。
(一体、何を見せる気なんだ……?)
困惑しつつも、一月は眼下に広がる風景に視線を巡らせた。
見覚えのある建物が目に入り、それが鵲村の公民館だとすぐに分かった。ほんの数度だったが、一月も出入りしたことがある場所だ。
公民館の入り口から、大勢の人が姿を現す。女性も男性も皆、黒い服に身を包んでいた。公民館の前には、霊柩車が止まっているのが見えた。
黒い服に身を包んだ人々に霊柩車、そしてこの雰囲気……公民館で何が行われていたのかは容易に分かった。
葬式だ。
しかし、誰の……? そう思った矢先、公民館の入り口横に掲げられていた看板を見て、一月は息を呑んだ。
白地の看板には、筆文字でこう記されていた。
――『平成××年 九月二十三日。忌中 金雀枝栄一』。
(父さんの葬儀……!)
今は亡き一月の父――金雀枝栄一は、鵲村でも名の知れた大工職人だった。彼は家を建てるだけではなく、無償で近所の日曜大工をしたり、雨漏りを修理した。大工の仕事に信念を持つ彼は、村人へ多大な貢献を残し、彼に仕事を依頼した鵲村の者は、皆感謝していた。
しかしある日、金雀枝栄一は建設中の不慮の事故によって、命を落としてしまったのだ。
父が亡くなった数日後、葬儀が行われた日の出来事を、一月は見せられているのだ。
一月はさっき名前しか見ていなかったが、看板に記された年月日に驚愕する。
(二年前の九月二十三日……琴音が亡くなる日の、前の日!)
他のいつでもない、琴音が命を落とした日の前日だったのだ。
その時、数人の大人達に紛れて、公民館の入り口から一人の少年が姿を現した。見覚えのある姿と制服、誰なのかはすぐに分かった。
(あれは、僕……?)
紛れもない、二年前の一月自身だった。
まだ中学生だった二年前の一月は、その表情を悲しみに染めていた。突如として父親を失い、その事実を受け入れられなかったのだ。
(でも、父さんと琴音の死に、どんな関係が……?)
怪訝に思いつつ、一月は眼下に広がる二年前の九月二十三日の光景を見つめる。
二年前の一月が逃げるように人混みの中から駆け出し、公民館の駐車場の片隅へと走っていく。
父を亡くした悲しみは凄まじかったのだ。誰も見ていない場所で、彼は片手で顔を覆い、その頬に涙を伝わらせていた。
すると、遅れて公民館から出て来た一人の少女が辺りを見回し、一月の姿を見つけるや否や、彼に向かって駆け寄っていく。
黒い髪を長く伸ばし、一月と同じ中学校の制服に身を包んだ少女――他の誰でもない、彼女だった。
(琴音!)
秋崎琴音だった。その外見は鬼の姿ではなく、どこにでもいそうな普通の少女だった。
一月と仲が良く、彼の父である金雀枝栄一とも僅かながら関りのあった琴音も、誼で葬儀へ出席したのだ。
少しばかりためらう様子を見せた後、琴音は一月の背中へ呼びかける。
「いっちぃ……」
二年前の一月が振り返る。突然現れた琴音に驚きつつ、慌てて涙を拭う。
悲しげに吹いた風が、二人の髪や制服を揺らした。
胸元で拳を握って、琴音は祈るような面持ちを浮かべながら言った。
「お父さんのこと、残念だったね……気持ちは分かるけど、気を落とさないで……」
琴音は、一月を励まそうとして言ったに違いなかった。
しかし一月は、
「気持ちが分かるだなんて、そんなこと軽々しく言わないでよ」
冷たく突き放すような言葉を、視線も合わさずに言う。
琴音に背を向けたまま、一月は続けた。
「今の僕の気持ちは、きっと誰にも分からない……」
すると、縋るように琴音は叫ぶ。
「そんなことないよ、だって私も……!」
他意などなく、琴音はただ一月を励ましたかっただけに違いなかった。
父を失い、悲しみに暮れる友達を助けたい、少しでも力になりたい。彼女はただ、それだけのつもりだったのだ。
正常な言葉選びができなかったのか、或いは琴音の優しさが痛かったのか。一月は、
「いいや、君には分からない!」
視線を合わせて、叫んだ。琴音の言葉が止められる。
少しの間を開けて、
「だって、君にはもうお父さんもお母さんもいない……」
そこで。
そこまで発したところで、一月は我に返った。すぐに手で口を塞いだ、しかし言ってしまった言葉は戻らない、取り消すこともできない。
気づいた時にはもう、手遅れだった。
二年前の自分自身と、琴音とのやり取りを見守っていた一月は瞬きも忘れ、ただ息を呑んだ。
一時の沈黙を挟み、
「……どうして」
悲痛極まる声を、琴音は発した。彼女の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
「どうして、そんなこと言うの……?」
両親の話は、琴音に対しては『禁句』だったのだ。
彼女は幼い頃に事故で両親を亡くし、祖母に引き取られて育った。琴音は気丈な女の子だった。しかし、親の話が話題に上るといつも悲しい面持ちを浮かべたことを一月は知っている。
決して言ってはいけないことだった、さっきの一月の言葉は、琴音にとって不可視の刃物だったのだ。
押し込めていた感情を吐き出すように、琴音は言う。
「ひどいよいっちぃ……私だってもっとお父さんやお母さんと一緒にいたかった、もっと楽しい思い出作りたかったし、もっとお話ししたかった、それなのに……!」
両手で顔を覆い、琴音は震えるような涙声を発し始める。
一月はもう、彼女に強く当たることなどできなかった。あるのはただ、彼女を傷つけてしまったことへの後悔と、懺悔の気持ちだけだった。
「琴音、その……ごめ……!」
一月が伸ばした手は勢いよく払われた。まるで拒むように、琴音が思い切り振り払ったのだ。言いかけた謝罪の言葉が止められる。
そして彼女は、涙に潤んだ瞳で一月を睨みつける。
「いっちぃのバカ、私のことなんて何も知らないくせに!」
涙声を張り上げる琴音、彼女の瞳からまた、涙の雫が頬を伝う。
何も言えずにいた一月に向かって、決して聞きたくなかった言葉が放たれる。
「大っ嫌い!」
止める間もなく、琴音は走り去っていってしまった。中学生の一月はただ、罪悪感に苛まれながら遠ざかっていく彼女の後姿を見つめていることしかできなかった。
琴音が殺される前日に何があったのか、会話を見守っていた一月はようやく思い出した。
そう、一月と琴音が、それまで仲の良かった二人が……両親のことがきっかけで、喧嘩をしたのだ。
(思い出した、全部……!)
同時に一月は、いつかの千芹の言葉を思い出す。
“だから何か、ことねにとって耐えられないような、とても悲しくて、辛いことがあったんだと思う”
琴音が殺される前日に起きた、琴音にとって耐えられなく、辛い出来事。琴音が生来有していた、鬼を跳ね除ける力が弱まってしまう原因となった出来事――それは、一月との喧嘩だったのだ。
突き上がるように浮かんだ恐ろしい予感に、心臓を鷲掴みにされたような気分になる。
(まさか、まさかじゃあ、琴音が殺されたのは……!)
受け入れ難いことだったが、もしも一月の言葉で琴音が傷つき、絶望し、彼女が鬼につけ入られる原因となってしまったのならば、
(全部、全て、僕のせい……?)
その瞬間だった、鬼となった琴音の声が浮かんだのだ。
《分かったか? お前が私に何をしたのか……》
一月は、ビクリと身を震わせた。
鬼と化した想い人の声は、それまで以上に威圧的で、禍々しく聞こえた。
《お前の汚い言葉でどれほど私が傷つき、辛かったのか……それを忘れたとは言わせない……!》
「やめろ、やめてくれ……!」
哀願するように、一月は発する。だが聞き入れられるはずなどなかった。
固く瞳を閉じても、耳を塞いでも、鬼と化した琴音の声を遮断することはできなかった。
《懺悔させてやる、そして殺してやる……お前が犯した罪の重さを、私の辛さを、思い知れっ!》
――直後、一月の視界が暗転した。