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其ノ弐拾四 ~鬼再ビ~


 琴音の自室を後にした一月は、すぐに仏間へと向かった。

 そこまではためらわなかったが、いざ襖の前に立つと足が止まってしまう。この先へ進めばどうなるかは、身をもって知っていた。

 少しの間、一月は汚れた襖を見つめ続けていた。雨粒が屋根を叩く音や、雨漏りの水が滴り落ちる音が耳に入ってくる。自身が唾を飲む音が、鮮明に聞こえた。

 

「いつき……」


 一月を気遣うように、千芹が語りかけてくる。

 立ち止まりはしたものの、一月は決して怖じ気づいたわけではなかった。ただ、心の準備を済ませていただけだ。もう、後戻りできる状況ではない。世界のどこへ逃げようが、鬼となった琴音は一月を殺しにくるだろう。さらに、彼女はこれからも多くの人間を呪いの餌食にし続けるに違いなかった。

 命を賭して戦い、鬼となった琴音を止めること。一月に与えられた選択肢は、それだけだ。

 悲劇の連鎖を断ち切れるのは、自分のみ――襖から視線を外さないまま、一月は応じた。


「分かってる、行こう」


 いつの間にか、千芹が両手で支えるようにして天庭を持っていた。

 鬼に立ち向かう唯一の手段である、魔よけの力が込められた霊刀。これは一月にとって、命綱と言えるだろう。

 

「これを」


 両手に持った天庭を千芹が差し出してきて、一月はそれを受け取った。

 生まれて初めて触れた真剣は、冷たくてずしりとした重量感を帯びていた。

 当然ながら、剣道で使う竹刀とは全く違う感触だった。振ったことはおろか、鞘から抜いたことすらない自分にこれを使いこなせるのか、と一月は疑問を抱く。しかし、使いこなせるか、こなせないかの問題ではなかった。初めてだろうが不慣れな武器だろうが、使いこなすしかないのだ、それができなければ、待ち受けているのは死の運命だけだ。

 左手で天庭を持ち、右手を襖の引き手にかける。

 そして一月は今一度、千芹と視線を合わせた。彼女は喋ることなく、ただ小さく頷いた。それは『いつでもいいよ』という意思表示に思えた。

 一月は彼女の目を見ながら、頷き返した。そして改めて視線を襖へ戻し、精神統一をするように大きく息を吐いた。

 僅かな間をおいて、余計な気を全て振り払うかのごとく、一月は襖を勢いよく開け放った。


「っ……!」


 途端に空気が重く、そして冷たくなり、一月は息を呑んだ。

 線香のにおいが仄かに漂う仏間に、一人の少女が立っていた。見知った少女だったが、黒霧に全身を覆い包まれたその姿は決して見知ってはいなかった。

 

「琴音……!」


 その呼び声に、鬼と化した想い人が視線を上げた。長く伸びた前髪の隙間から覗く瞳が、一月の顔を映す。

 初めて遭遇した時以上に、邪悪で禍々しい雰囲気が増しているように感じられた。幾人もの人間を殺め続け、その命を喰らい、力を増しているということなのだろうか。

 背筋も凍るような殺意が、一月に向けて発せられる。


《殺してやる……!》


 彼女が着ている制服や、長く伸ばされた黒髪がザワザワと揺らぐ。

 化け物と化した琴音には、生前の面影は僅かも感じられなかった。一月が知る優しくひた向きで、一生懸命だった彼女はもう存在しない。

 一体琴音に何が起こったのか、どうして彼女が鬼になってしまったのか? こんな最中でも、一月はそう思わずにはいられなかった。

 しかし、思案している余裕は与えられなかった。

 今にも襲い掛かってきそうな琴音に立ちはだかるように、千芹が前に歩み出た。


「いつき、天庭を抜いて、早く!」


 可憐ながらも、有無を言わせない雰囲気を帯びた千芹の声に、一月は我に返った。

 今は、考えている場合ではないのだ。


「分かった」


 天庭の柄を握り、一月は抜刀した。

 重みのある金属音と共に、銀色の刃が姿を現した。作られてから相当な年季の入った真剣だが、その刃には一片の汚れもなく、眩いばかりの銀色だった。

 竹刀とは違う、本物の刀の重みが両腕に圧し掛かる。しかし重いなどと言っている余裕はなかった。

 全身の力を集中させ、一月は天庭を構えた。真剣の構え方など分からなかったが、剣道の竹刀と同じ構えを取っておいた。


「いつき、いくよ……!」


 病院で見た時と同じように、千芹が印を結び、青い光の玉へと姿を変える。

 吸収されるかのように、天庭に千芹が同化した。銀色だった刀身が青い光を纏い、薄暗い仏間が淡い光で照らされる。

 古びた真剣が、鬼を倒す武器へと変じたのだ。


《お願いいつき、鬼を止めて》


 千芹の声が、頭の中に浮かんでくるように聞こえてきた。

 天庭に宿っている状態でも、彼女は一月との意思疎通が可能なのだ。


「ああ、もうこれ以上、誰も鬼の犠牲にはさせない……!」


 宣言するように言い、一月は鬼と化した琴音に向き直った。

 戦うと決意した、しかし一方でまだ、一月は想い人であった少女へ刃を向けることへの躊躇を捨てきれてはいなかった。だから、目の前にいる者は琴音ではない、琴音の姿をしているだけの恐ろしい化け物なのだ、そう自分自身に何度も言い聞かせていた。

 迷うな、あれは琴音じゃない……心中でそう繰り返していた時、鬼となった琴音が攻撃を仕掛けてきた。

 

《殺してやる!》


 殺意の言葉と共に、琴音は足音も立てることなく迫ってきた。その右手は一月の首に向かって伸ばされており、首を絞めようとしているのが分かる。

 琴音から目を逸らさずにいたことが幸いし、一月はすぐさま身を横へ動かした。

 突進をかわした一月は後ろへ下がって距離を置き、即座に構えを取り直した。相手は人智を超えた存在だ、どんな攻撃を仕掛けてくるか分からず、一瞬の油断も許されない。

 琴音がグルリと一月を振り返り、濁った瞳で彼を捉えた。殺意の言葉が、繰り返される。


《殺す!》


 想い人であった少女の口から、そんな言葉など聞きたくなかった。しかし一月には、耳を塞ぐ猶予も与えられない。

 琴音の体を覆い包んでいた黒霧が爆散し、それ自体が意思を持つかのように巨大な奔流と化して一月へと迫ってきたのだ。後ろへ下がっても無駄、左右に逃げてもかわしきれない。想定外の攻撃に、一月は対処法を見出せなくなる。

 

「くっ……!」


 一月は咄嗟に両腕を交差させ、盾にしようとした。それは防衛本能に基づく、反射的な行動だった。

 その時、不意に千芹の声がする。


《いつき、天庭を振って!》


 突然の指示に驚きはした。しかし放たれた黒霧はすぐ前にまで接近している、悩んでいる暇はなかった。

 千芹に命じられたように、一月は天庭を力の限りに振り抜いた。効果は劇的だった。

 天庭の刃が黒霧に触れた瞬間、バチッという火花が散る音と共に青い光が炸裂し、黒霧が消滅していったのだ。

 防いだ? 正しくその通りだった。天庭に宿った千芹の霊力が、黒霧を打ち払ったのだ。

 こんなことが可能だったのか、と自らが手にした霊刀、天庭を見つめつつ一月は思った。

 これがあれば、鬼となった琴音を止めることも不可能ではない――僅かながらも安心感を覚え、一瞬といえども気を緩めてしまったのが失敗だった。


《いつき、後ろ!》


 振り返った時、鬼となった琴音は既に一月の眼前にまで接近していた。

 迂闊だった、先程彼女が放ったあの大きな黒霧は囮だったのだ。あれで一月の視界を遮ると同時に注意を引き、その隙に乗じて後方へ回って奇襲を仕掛ける、それが琴音の策だ。

 言うなればフェイント攻撃、生前の琴音が得意としていた技だった。

 逃げることなどできなかった。体温を宿さない鬼と化した琴音の手が、一月の首を掴んだ。

 次の瞬間、琴音は一月の身を前方へと勢いよく押し出し、一月の背中が仏間の壁に打ちつけられる。


「ぐあっ!」


 その衝撃に、壁全体が揺れた。背部から腹部まで突き抜けた痛みに息が止まる。

 しかし痛みに悶えている暇はなかった、琴音の五本の指が、容赦なく一月の首に食い込んでいく。

 

「が、あ……!」


 痛みと苦しみに気を失いそうになる中、一月は抵抗を試みた。

 そしていつの間にか、自分の手から天庭が消えていることに気づく。

 どこに――少しばかり周囲に視線を巡らせると、天庭は仏間の床に垂直に突き刺さっていた。先程、琴音に背中から壁に叩きつけられた拍子に落としてしまったのだ。一月の手を離れた後、天庭は偶然にも鋭利な刃の先端を下に向けてまっすぐに落下したらしい。そうでなければ、このような形で床に突き刺さるはずはなかった。

 不幸中の幸いだった。琴音によって首を絞められ、壁に押しつけられているこの状態でも、思い切り手を伸ばせば天庭の柄を掴み、床から引き抜くことができそうだった。


「ぐ、う、うっ……!」


 苦しみに呻きつつ、左手で琴音の腕を掴み返し、一月は精一杯右手を伸ばした。力ずくで逃れることはできず、この状況から脱するには天庭を拾い上げるしかなかったのだ。

 琴音が一月を絞め殺すのが先か、それとも一月が天庭を掴み上げるのが先かだった。


《いつき、拾って!》


 千芹の声が聞こえた。

 同時に、琴音がその手に力を込め、一層に息が苦しくなる。


《死ねっ……!》


 それでもどうやら、彼女は一月が武器を取り戻そうとしていることには気づいていないようだった。

 殺意募る相手の息の根を止めることに夢中になり、周りが見えなくなっているのかもしれない。

 

「琴、音っ……!」


 苦しみに意識を奪われかけた、その時だった。

 力の限りに伸ばした一月の右手が、天庭の柄をついに掴んだのだ。

 一月が再び武装したことに気づいた琴音が、一月の首を解放して後ろへ下がろうとする。


《っ……!》


 苦しみから解き放たれた一月は、呼吸を整えることも後回しにして地面を蹴り、琴音目掛けて天庭を振り抜いた。距離を取られていたせいで直撃はしなかったものの、青い光を纏った刃は間違いなく、鬼となった琴音の腹部に触れた。

 触れただけでも、効果は絶大だった。

 黒霧を打ち払った時と同じように、バチッという音と共に青い光が発せられ、そして、


《いぎっ……ああああああああっ!!!!!》


 鬼となった琴音の口から苦痛の声が発せられ、それが仏間中に響き渡った。想い人であった少女の悲鳴に、耳を塞ぎたくなる。

 しかし一月は仏間に崩れ落ち、呼吸を整えることで精一杯だった。


「ごほっ、げほっ、がはっ……!」


 激しく咳き込む、もう少し首を絞められ続けていれば、命も危うかったに違いない。

 いつの間にか溢れていた涙で、視界がぼやけていた。


《いつき、大丈夫!?》


 心配した千芹が、一月の身を案じてくる。


「うん、ごほっ、どうにか……大丈夫そうだよ」


 苦しみは消えなかった、しかし一月はすぐに、この廃屋に赴いた理由を思い出した。

 先程の一撃は結構な痛手だったらしく、鬼となった琴音は仏間の床にうつ伏せにの状態で倒れ、身悶えしていた。立ち上がろうとすらも、していなかった。

 一月はその側に歩み寄り、鬼となった琴音を見下ろした。その右手には、青い光を宿す霊刀が握られている。

 

(鬼……!)


 鬼となった琴音は、一体何人の人間を殺してきたのか。どれほどの悲劇と悲しみを生み出してきたのか。一月には想像すらできない。

 

「全部……終わらせる!」


 足元に伏す、想い人であった少女の姿を持つ鬼に向かって、一月は天庭を振り上げた。






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