其ノ弐拾参 ~再ビ廃屋ニ~
病院を後にした一月は、家には戻らずにそのまま廃屋へと向かった。
自宅で用意をしてから向かおうとも考えたが、結局そうはしなかった。用意など必要なかった、鬼との戦いに下準備など無駄だし、不毛だ。
何よりも時間がない、一刻も早く鬼となった琴音を止めなくてはならなかった。今こうしている間にも、彼女は罪のない人間を殺めているかもしれないのだ。
事態は急を要する、廃屋へ向かう足は自然と速まっていき、やがて一月は雨の中を駆け出した。彼が履くスニーカーが水溜まりを踏みつけ、汚水の飛沫が舞い上がった。
――今ならまだ間に合う、引き返せる。
迷いは、確かにあった。
以前あの廃屋に踏み入った時は、千芹の助けで命を救われた。
しかし、それは九死に一生を得ただけのこと。今回はそうはいかないかもしれない。一月には、琴音を止められる可能性よりも、今度こそ自分が殺される可能性の方が遥かに高い気がしていた。あの惨殺された二人の女子生徒と同じように……いや、彼女達以上に惨たらしく、残虐な殺され方をするのかもしれなかった。
足を止めはしなかったが、それを考えると、一月の心は瞬く間に恐怖で塗り潰された。
その時、不意に後ろから呼ばれる。
「いつき」
雨の中でも明瞭に届いた声、一月は一旦立ち止まって振り返った。
すぐに、千芹と視線が重なった。
廃屋に向かうことへの恐怖を表に出さないよう努めながら、一月は問いかけた。
「どうしたの?」
すると、凛とした瞳に一月の顔を映しながら、千芹は言う。
「大丈夫だよ、恐れないで。いつきは一人じゃない」
一月の心を読んだかのように、彼女は励ましてきた。
すると不思議なことに、一月を満たしていた恐れの念が薄らいでいく。
そして代わりに、身の内から使命感が込み上がってきた。そうだ、今は怖がっている状況じゃない。鬼となった琴音を止め、悲劇の連鎖を断ち切らなければならない。
琴音を想えばこそ、彼女を止めなくては。一月以外の人間にはできないことなのだ。
決意を新たに一月は頷いた。恐怖と迷いは既に、消え去っていた。
「うん……ありがとう」
そして一月は再び、廃屋へ向かって駆け出した。
◎ ◎ ◎
再び訪れた廃屋は、最初の時以上の不気味さを醸しているように思えた。
もう一度ここに来るだなんてことは、真実を知る前の一月ならば考えもしなかっただろう。生前の琴音が祖母とともに暮らし、今は人の手が入らなくなった秋崎家の廃屋。鬼となった琴音が巣食う、幾人もの人間がここで命を落とした、まさに呪われた家だ。
恐怖と迷いは捨て去ったはずだったが、一月は思わず足を止めた。いざこの場所を目の前にすれば、誰もが尻込みしてしまうに決まっていた。
一月は唾を飲んだ。ここから先に進めばどうなるか、他でもない彼自身がよく理解していた。
「いつき、大丈夫?」
千芹は決して急かそうとはせず、一月を案じた言葉をかけてくれた。
唯一の理解者である彼女に、一月は頷く。
「うん……行こう」
大きく深呼吸して、一月はゆっくりと廃屋に向かって歩を進め始めた。
少なからず躊躇の気持ちはあったが、それでも引き下がろうとはしなかった。
必ず、止めてみせる――自分に言い聞かせるようにそう思いながら、一月は廃屋の敷地へと踏み入っていく。無残に割れた窓ガラスや、傷だらけになった壁や屋根、ボロボロになったブロック塀、その全てが最初にここを訪れた時と同じだった。未だに撤去されていない『秋崎』と書かれた表札が、いかにも皮肉めいているように思えた。
引き戸に手をかけた一月は、それを思い切って開けた。
そして、中から漂ってくる腐臭に思わず声を上げた。
「うっ……!」
すぐに袖で鼻を覆った。
だが怯まずに、一月は土や木の破片やゴミが散乱した廃屋内を進み始める。ここまで侵入した以上、もう後戻りしようとは思わなかった。
荒廃しつくした廃屋内部は不気味で、かつて人が住んでいたとは思えないほどに荒れていた。ここに入るのは二度目だが、慣れなど一切感じない。こんな場所に長居しようものなら、心身に異常を来たしてしまいそうだった。
それでも一月は琴音のことを思い出し、自らを奮い立たせながら進んでいく。
砂埃にむせそうになりつつ、廊下を歩いていく。そしてすぐに、廊下と仏間を仕切る襖が目に留まった。
あそこに、鬼となった琴音がいる。
確証などなかったが、一月には最初に遭遇した時と同様に、あの仏間で鬼となった琴音が待ち受けていることが分かった。
行きたくなどなかった。それでも、行かなければならなかった。
しかしふと一月は足を止め、仏間とは別の方向へと視線を向けた。
「いつき?」
千芹が声をかけてくる。
一月は少し黙った後で、
「ごめん、ちょっと待って」
そう告げて、千芹の返事を待たずに視線を向けていた場所へと歩き始めた。行き先は鬼となった琴音がいるであろう仏間ではなく、別の場所だった。
一月が向かったのは、琴音の自室だった。最初に訪れた時は意図せず迷い込んだが、今回は自分自身の意思でそこへと向かった。
生前の想い人が暮らしていた部屋、そこで一月は落ちていた灰色の日記帳を手に取った。
一面に『殺してやる』と書かれていたページが、開かれたままになっていた。
「いつき……?」
怪訝な声を発する千芹、無理もなかった。
一刻も早く鬼となった琴音を止めなければならないのだ、こんな所に寄り道して、余計なことを調べている時間などない。
一月自身もそれを重々承知していた。しかしどうしても、脳裏に引っ掛かっていることがあったのだ。
二年間もの間ここに放置され続け、ボロボロに汚れ切った日記帳のページをめくりながら、一月は言う。
「こんなことをしている場合じゃないって分かってる。でもどうしても……突き止めたいことがあるんだ」
千芹が問うてくる。
「もしかして……ことねの死の真相?」
日記帳に視線を落としたまま、一月は頷いた。
鬼となった琴音を止めることは、言うまでもなく重要事項だった。
しかし琴音の死の真相を明らかにするのは、それに迫るか、あるいはさらに重要なことだと一月は感じていた。
琴音を食い止めて、それで全て解決ではないのだ。
彼女が鬼に殺され、取り込まれたことは事実だが、そこにはまだ解決していない謎が存在する。『生来、鬼を寄せ付けない力を持ち得ていた琴音が、どうして鬼に殺されてしまったのか』だ。
一月はその謎を解明した先に、この一連の怪異の鍵があると感じていたのだ。
数秒の間黙々とページをめくり続け、一月は目当ての部分を見つけた。携帯電話のライトを照らし、そこに書かれた内容を見つめる。
『二○××年、九月二十三日。
今日、いっち×と××カを×た。
彼とこ×な風に×ン×したこ×は、今×で一度も無××たと思×。
××ちぃ、ひ×いこと言×て』
琴音が殺された日の前日の日記だ。汚れと傷みが激しく、さらにこの先の部分が破れて失われており、判読不能と言っていい状態だ。
このページに、きっと全ての答えが記されていたのだ。
ここに書かれていたのは恐らく、琴音が鬼に殺される引き金となった出来事だ。一月はそう見立てていた。
横から覗き込むようにして日記帳を見ていた千芹が、
「いつき、覚えてないの? この日のこと……」
一月は日記帳から視線を外さずに、首を横に振った。
「何度か思い出そうとしたんだけど、ダメだったんだ。よく分からないけれど、この日の記憶だけが頭から抜け落ちているような感じで……この日記帳をもう一度見れば、もしかしたらって考えたんだけど……」
前後のページを見ても、やはり特に手掛かりとなるようなことは見当たらなかった。前のページには琴音が過ごした日々の記録が綴られ、次のページにはびっしりと『殺してやる』と書き込まれているだけだ。
一縷の望みだとは思っていたが、無駄だった。
日記帳を机の上に手放して、一月は部屋から出る。その途中で千芹に促した。
「無駄な寄り道だった、行こう」