其ノ弐拾壱 ~真相ノ明示~
母の見舞いを終えた一月。
蛍光灯に薄く照らされた病院の廊下で、彼は今一度病室を振り返った。
母は大丈夫なのだろうか。面会した時は健常に見えたものの、どうしても不安は拭えなかった。鬼と化した琴音の攻撃を受けた母の体には、医療機器を用いても発見できないような障害が残っているかもしれない、十分にあり得ることだろう。
もしものことがあったら……そう思った時だった。一月の心中を先読みしたかのように、千芹が言った。
「いつき、お母さんは大丈夫だよ。心配しないで」
不意の言葉に驚きつつ、一月は千芹に目を向ける。
「え……?」
千芹は着物の袂を探ると、竹筒を取り出した。
一月も見たことのある物だった。内部が空洞になっていて、液体を保存する容器として使用する物だ。
「それって、保健室で飲ませてくれた……」
と、一月は思い出したように周囲を見渡した。病院の廊下に人の気配はない、千芹と会話しても問題はなさそうだ。
千芹は頷くと、
「これ、霊水で作られたお茶なの。いつきのお母さんに飲ませておいたし、もう鬼の邪気も感じられなかった。だから、お母さんは大丈夫」
霊水とは、不思議な効能を持つ水のことだ。以前一月も飲ませてもらったことがあり、その効力は身をもって知っていた。
千芹は自分だけでなく、肉親である母まで助けてくれたのだ。
彼女に向けて、一月は最大限の感謝を贈った。
「ありがとう、僕だけじゃなくて、母さんまで助けてくれて……」
すると千芹は、幼い外見に見合った純粋無垢な笑顔を見せる。
「大丈夫だよ、それがわたしの役目だもの」
可愛らしい外見と、優しさを持ち合わせた女の子。もしも千芹が精霊ではなく普通の人間だったなら、とても人気を集める子だったろうと一月は思った。
彼女に命を救われたのはこれで二度目だった、一度だけの謝礼ではとても足りないと、一月はさらに続ける。
「本当に、君がいなかったら僕も母さんも今頃……」
そこで言葉が止まる、止まってしまう。
突如として、一月の視界がぐらりと揺れたのだ。
「うっ……!」
地面が斜めになったような感覚に、立っていられなくなる。一月は思わず、手近にあった壁に片手をついて転倒を防いだ。
「いつき……!?」
千芹が駆け寄ってくるのを気配で感じ、一月は頭を押さえたまま言う。
「ごめん、なんだか急に眩暈がして……!」
一月の袖を引っ張りながら、千芹が提案してくる。
「あそこに座れるとこあるよ、ちょっと休もう?」
彼女が指差す先には、廊下の片隅に設置されたベンチがあった。千芹に頷き、彼女に支えられるようにしつつ一月はそれに歩み寄り、腰を下ろす。
眩暈は次第に頭痛へと変じ、一月は苦悶の声を発した。
「ぐっ、う……」
琴音の攻撃を受けた影響だ、痛みに苛まれつつ、一月はそう思った。
母の身ばかりを案じていたが、心配すべきなのは一月自身も同じだったのだ。母の無事が分かった安堵の念から、身体への影響が表面化したのかもしれない。
隣に腰かけていた千芹が、
「いつき、これ」
彼女は、先程から話題に上っていた竹筒を差し出してきた。
どうにか「ありがとう」と声を発し、一月は受け取る。中の茶を少しばかり飲み下すと、頭痛がたちまち治まって楽になった。
竹筒を千芹に返すと、彼女が問うてくる。
「落ち着いた?」
「大分……」
ひとまず、一月は呼吸を落ち着けた。
しかしすぐにベンチから立ち上がろうとはせず、少し座っていることにした。
もう一度廊下を見渡して周囲に人の気配がないことを確認し、かねてから気になっていたことを千芹に問う。
「あのさ、前から気になっていたんだけど……」
「ん?」
覗き込むような仕草で、千芹が視線を合わせてくる。
「鬼は、どうして琴音の姿をとっているんだろう?」
千芹は怪訝な眼差しを向けてくる、一月は続けた。
「この村で起きてる行方不明事件、それが鬼によって起きたことなら、鬼は他にも大勢の人を殺したはず……その中から琴音を選んだのは、なにか理由でもあるのかな」
鵲村の言い伝えによれば、鬼とは幾人もの死者の負念が連なり、寄り添い、形を成した姿。生者を襲っては命を奪い、その魂を取り込むことで力を増していく存在であるとのこと。
そもそも、琴音が鬼の標的になった理由はあるのだろうか。無作為に選ばれた者の中に、運悪く彼女も含まれていただけなのだろうか。
いや、そう理由づけるにはどこか、一月は引っ掛かるものを感じた。他に大きな要因が存在しているように思えたのだ。
「きっと、ことねが特別な力を持っていたからだと思うよ」
千芹は言う。
「あの本にも書いてあったでしょう? ことねのおばあさんが霊能力者で、この村の多くの人の霊に関する悩みを解決した実績を持っているって。きっとことねも家系柄、無自覚だとしてもそういう超常的な力を持っていたんだと思うよ」
一月は、学校の図書室で見つけた本を思い出す。著者であり、一月の師でもあった黛玄正は、琴音の祖母……秋崎菊代の除霊行為を受けた人々にも接触して裏付けも行ったそうだった。
孫である琴音も祖母同様に、霊に通じる特別な力を有していた。そう考えても不思議はないだろう。
「だから、鬼に狙われたってこと……?」
千芹は頷く。
「今、鬼は琴音を器にしているの。それはどんな人でもいいってわけじゃない、鬼の核になりえる力を持っている人にしかなれないんだよ」
「そんな……」
一月は拳を握る。
琴音自身が望んだわけでもなく、ただ血筋によって有していた力が原因で鬼に目をつけられた。最も美味な餌として鬼に狙われ、殺されてしまった。
理不尽だと思った。とてつもなく理不尽で、理にかなわないことだと思った。
「でもいつき、一つ分からないことがあるの」
一月が千芹に向き直ると、
「鬼に狙われるほどの力を持っている人なら、同時に鬼を払い除ける力も持っているはず。つまり鬼は、安易にその人には手出しできないはずなの」
「それじゃあ、どうして琴音は……!」
千芹は視線を横に向ける。その先には窓があって、雨粒が音を立ててぶつかり続けているのが見えた。
「ことねにとって、よほど辛くて、苦しくて……深い絶望があったんだと思う。そういう心の隙間は人の霊力を弱めて、鬼につけ入る隙を与えてしまうから……」
雷が落ち、轟音が廊下中に響き渡った。
廊下のどこかを見つめながら、一月は考える。
(絶望……琴音が……?)
考えを巡らせてみたが、そのような出来事は思い浮かばなかった。
しかし一つ、脳裏に引っ掛かる。
(そういえば、廃屋で見たあの日記帳……)
傷みと汚れで、断片的にしか読み取れなかったあの日記帳だ。
一月は、琴音が殺される前日の部分は特に状態が悪く、ほぼ判読不能だったことを思い出す。もしかしたら、あのページには重大な秘密が隠されていたのかもしれなかった。
一体、なにが書かれていたのだろうか……そう考えていた時、
「それよりもいつき……こうなってしまった以上、もう迷っている時間は残されていないと思うの」
千芹がそう切り出してくる。
思案を一時中断して、一月は彼女に向き直り、
「っ、それって……!」
千芹が手にしていた物を見て、驚愕した。